その庭園にて

月野志麻

第1話


 十年も前の話だ。断片的な記憶の中に、その人は今も残っている。


 古城のようなパーゴラドームの中にある白いベンチ。小さな鼻歌が聴こえてきて横を振り向いた。肩よりも少し長い髪を風に揺らして、彼女は気持ち良さそうに何かを口ずさんでいる。


 生まれも育ちも違う。彼女も僕も、互いの言葉が分からなかった。何かを話そうと頭に浮かぶ言葉は、掛ける勇気がなくて何度も飲み込んだ。僕と二人でこの子は気まずくないだろうか、と僕自身がその気まずさに押し潰されてしまいそうだったから、彼女の鼻歌に心がホッと軽くなった。


 頬を撫でる風に身を任せる。深くベンチに腰を掛け直して、彼女の歌声に耳を澄ませた。悲しい歌なのか、楽しい歌なのか、それさえも分からなかったけれど、この初夏の日によく似合うメロディだった。


 ふと彼女の歌声が止まる。白い指が伸びるのを目で追えば、黄色い蝶が一度彼女の指先に留まって、また飛んで行った。


 「行っちゃった」


 肩を竦めて、そう言って笑う顔は、とても残念そうだった。唯一聞き取れた言葉を頭の中で繰り返してみる。時折吹く風に流されながら、蝶が飛んでいく。


 目の前に広がる、色とりどりの花が咲き乱れる庭園は、とても美しかった。


 古いフィルムを回しているように、彼女の姿も、庭園の色も、僕の記憶の中ですっかり色褪せてしまったけれど。それでも、僕は、一度しか会ったことのない彼女を、忘れられないでいる。


 自分を指差して「花歩」と笑った彼女を。




 「いい?」


揺れる車の中。流れる景色を見ながら窓に頭を預けていた僕は、不意に耳に入ったマネージャーの言葉に我に返った。


「ごめん、なに?」


聞いてなかったの? と、運転席にいる彼女が僕をバックミラー越しに見る。もう一度、「ごめん」と謝れば、マネージャーは大きな溜息を吐いてから言葉を続けた。


 「ジアンがやってるゲーム。ボイスチャット機能が付いているんでしょ?」

「ああ、うん」

「ゲーム自体はやるなとは言わない。趣味はとても大切なことだから。でも、ボイスチャットは禁止。意味分かるわよね?」

「ああ……うん」


分かるよ、と返せば、彼女は満足そうに頷いた。僕は目を逸らして、また窓の外へと目をやる。高層ビルに灯る明かりは煌々と、もうずいぶんと遅い時間なのに夜を照らしている。


 「あなたも、やっとこの道に乗れたのだから。ボイスチャットの発言一つで潰れたらバカみたい」

「うん」

「だから、気を付けて。窮屈に思わないで。あなた自身が望んだ道なんだから」


うん、ともう一度頷く。そうだ。ここは僕自身が望んで立っている道だ。僕自身が憧れ、焦がれて、手に入れた場所。


 高層ビルが流れていく。僕自身も未だに違和感のある僕が、貼り付けられたモニターの中で笑っていた。通行人がそれにスマートフォンのカメラを向けている。ただそれを、ぼんやりと見送った。


 靴を脱いで、ずんずんと部屋の奥へと進む。持っていた鞄をソファーへと放り、スマホを片手にベッドへとダイブした。

 

  画面はしばらくローディング画面で止まった後にゲームが始まる。ログインを告げるアナウンスがテキストチャットに流れたのを見ながら、スマホとリンクさせたイヤホンを耳に突っ込んだ。

絵文字だけの簡単な挨拶に、テキスト勢もボイス勢もテンポよく返事をしてくれる。見慣れた名前の羅列。一方的に聴こえる聞きなれた声。思わず口元が緩むくらいには、ここは日常と化して、唯一ともいえる僕の安息の地だった。


 足音や戦闘中の音が、近くだったり遠くだったりで聞こえてくる。そんな中で、いつもあるはずの名前が今日はないことに気付く。同じコミュニティのメンバーで、このゲームをやり始めた頃から知っている名前。あまり言葉は発せず、基本的に絵文字でのコミュニケーションが印象的なアカウントだ。


『今日、Kahoは?』

『さぁ。まだ見てないけど』

『毎日、この時間にはいるのにね。珍しい』


チャットの海へと放り投げた言葉にパラパラと返事がくる。返ってきた言葉たちを見ながら、ペットボトルの蓋を開けて水を一口流し込んだ。


 「仕事でも忙しいんだろうか」


 ぽつりと思わず独り言が漏れた。Kahoが何歳なのかも、働いているのかも、何にも知らないけれど。ただ、十年前に聞いたあの名前と同じ響きを持つアカウント名だったから。つい目に留まって、気になってしまう。同じ人物であるわけないと思いながら、姿が見えないスマホの中にいるその人物に、ついあの日の女の子を重ねてしまっている自分もいて苦笑いが浮かんだ。だってそれはそうだろう。もしかしたら、男なのかもしれないのに。


 ぐるぐると時間だけが過ぎていく。マネージャーから「明日は朝早いからほどほどに」という、こちらの行動を見透かすようなメッセージに溜息が出た。そろそろ切り上げて寝支度をしなければ。セットされたままだった髪を手でぐしゃぐしゃと搔き乱してみると、また溜息が出る。どこか憂鬱な気持ちに身を任せるように枕元に顔をうずめるようにして画面を眺めた。

 

「そ、ろ、そ、ろ、寝、る、よ、」


口に出しながら指でフリックして文章を打ち込んで、エンターボタンをタップしようとしたとき、軽やかなホイッスル音が耳に飛び込んできた。思わず体を少し起こして画面を向き直る。


 『Kahoがログインしました』


流れる文字に心が弾む。完全に体を起こして、ベッドの上に胡坐をかいた。片手を上げるような絵文字がKahoから発せられる。慌てて先ほど打ち込んだ文章を消して、同じ絵文字をタップした。


 あと、時計がもう一回りするくらいまで。マネージャーには「もう寝ます。おやすみ」と返して、僕は再びゲームの世界へと沈んでいく。

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