五月十一日 夕刻(2)
エリちゃんはどういうつもりなのだろうか。十文字山に登ると言い出したとき、私は驚いた。6時過ぎから登ると言ったってもう夜が近い。そんなことして何になるのか、と。
エリちゃんは、決してその理由を教えてくれなかった。こうして背中を追って歩いていても、その真意がつかめることはない。
この先輩は私を騙したのだろうか。私がイタチの存在を知ったのはこの先輩がいたからだ。この冷たい先輩が私に教え――――私に知ら
その真相に近づくことは出来ないということは解っている。でも、それでも私には不可解でたまらなかった。
心臓破りの坂道を登り、登山道に入っていく。車の通れない道。人のためだけの道を私達は歩く。
鬱屈と茂る森に夕陽が差し込む。山道を振り返ると、夕陽を抱いたその景色は日常に差し込まれた幻想のように私の中にずぶりと浸透してくる。
「洲上の奴、先行っちまうぞ」
うっとり見入っていると、前にいる宇陀先輩が声をかけてくる。自由なままで情趣を解する時間もないのか。私は暖かな里山の風景の中で厭な現実の肌寒さを感じた。
この世界に別れを告げなければならない。その必要性は宇陀先輩の温かい感情と、洲上エリの冷たい刃とに教えられた。このままではいけない。それはわかった。
でも、どうしても、どう頑張っても足が速むことはない。現実を現実のまま、足早に捉えるということが私には出来ない。
この無意味な菩薩の顔を失ったその時、世界は優しい顔をもう一度見せてくれるのだろうか。この優しい世界は仮初だとしても、こんなに暖かい世界とはもう二度と出会えないのではないか。それなら……。でも、さっきの決意を無駄にすることは私には出来ない。してはならない。
足を進めて深く森を進む。人がよく通る道だが、暗がりの中で足場はハッキリしない。感覚だけが足元を照らす。先輩たちの背中が進む道を教えてくれる。
立ち止まる宇陀先輩に追いついた。
「あいつ、こんな崖みたいな道をあの服でスイスイと行ったのかよ」
宇陀先輩の視線の先にあるのは崖道。落下防止用の紐が申し訳程度に用意されていた。
「先にいけよ」
気遣いだろうか、先輩は私を先に行かせてくれた。
夕闇の中、一本の紐を握る。崖という表現は多少オーバーに感じるが、足場が小さいことは事実だ。エリちゃんの背中はもう見えなくなっている。
足は自然と進んだ。感覚のまま、見えるまま、無粋にかけられた紐に引っ張られるように私は山道を登っていく。
ふと、後ろを振り返った。すると、見たこともない光と影の世界がそこには広がっていた。
ついさっきの幻想を忘れるほどの感動だった。
木漏れ日が肌を濡らし、暗がりに溶け込んでいく。光の沈むも浮かぶも全ては影が決めること。真下の渓流の乾いたせせらぎが耳に流れ込む。風が谷を征き私の頬を撫でる。見上げる。染み込んだ紅い夕陽は
「千聖、大丈夫か?」
「ふふふ」とこれまでの私に対する嘲笑がこぼれ落ちる。今の私はもう惨めじゃなかった。
「そんなんだと、先輩、モテませんよ」
「何だそれ」
闇の中の菩薩男を見返す。男は首をかしげながら私を急かしてきた。一歩、また一歩、私は確かに足に力を踏み込めて崖道を登りきった。
急いで歩く。早くエリちゃんに会いたい。何日ぶりの感情だろうか、私に戻ってきてくれた感情を大切に抱いて小走りになった。
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