寵愛

「新しい妹ができる」

 そう聞いたときのプリンセスの喜びは、今にも踊り出すのではないかというほどであった。

 プリンセスがマリエッタ女王に王女として拾われてからおよそ一年。宮廷の生活にもすっかり慣れ、国事行為に参加する以外では、本を読み、さらに各分野で専門の家庭教師をつけるなど、勉学にいそしむ一方、料理をしたり、庭園を散歩したり、チェスをしたり、相変わらず荷物運びの手伝いや馬の世話といった王女としては好ましからざる仕事をしたり、ときに木登りをしたりと、幼少期特有の忙しさのなかで過ごしているプリンセスであった。

 そんななか、彼女の知らないところで、女王と官僚どもの相談のうちに第三王女としてチェーザレ伯爵家のコンスタンサ令嬢を養女に迎えるという決定がなされていた。

 コンスタンサの実家であるチェーザレ伯爵家は巨大な門地を誇るわけでもなく、権勢もない。コンスタンサの父で伯爵家の当主は地味で控えめで穏やかな男で、年老いてから産まれたコンスタンサを溺愛している。

 コンスタンサはこの年8歳で、その容色の晴れやかさと聡明さは、すでに宮廷社会でも知られつつあるほどであった。先年の養女選定の際もカロリーナとともに候補には上がっていたが、幼いため未だ資性が不明瞭なりとして、判断を保留されていた。だが一年ち、器量間違いなしということで、改めて養女となることが決定したのであった。

 プリンセスにとっては、カロリーナに次ぐ二人目の妹ということになる。

 養女迎え入れの当日、コンスタンサは第三王女として立派に振舞い、宮廷の礼儀作法から半歩でも外れることはなかった。実家のチェーザレ伯爵は権勢家ではないが、それが逆に後継者争いで有利になる点もある。もともと権力に対する野心が少ない分、仮にコンスタンサが次の女王になった場合、外戚がいせきとして権力をわたくしする心配が少ない。王宮の官僚たちは、大貴族の王家に対する干渉を嫌う。その意味では、例えば事実上の内閣として機能する枢密院の面々などからすれば、強大な貴族勢力を背景に持つカロリーナよりも、プリンセスやあるいはコンスタンサの方が扱いやすいと言えるだろう。

 再び、宮廷人は噂した。

「こうなってくると、御三方のいずれが次の王位に就かれるのか、まったく予想ができん」

 しかし、当事者である三人の王女らは、人々の予想に反し、いずれも仲が良い。特にプリンセスは、二人の義妹を誘ってともに時間を過ごすことも多く、そば近くに仕える近衛兵や女官から見ても、とても仲が険悪だとか、次期女王の座を巡って争っているとか、そういった気配は微塵もうかがわれないのであった。

 といって、マリエッタ女王のプリンセスに対する過度とも言える寵愛はいささかも冷える様子はない。公式の場と非公式の場とを問わず、彼女は意識的もしくは無意識的に、プリンセスとそれ以外の二人の王女の扱いに差をもうけた。

 例えばプリンセスはその好奇心のおもむくまま、言語学、歴史、地理、数学、美術、宮廷風俗、民間風俗、国外風俗など各分野でその道の最高の専門家を次々と家庭教師につけ、ほかにも縫製、料理、乗馬などにも興味を持ち、宮廷の女官やシェフ、近衛兵に自ら頼み込んで教わった。彼女は短い時間のなかでもしっかり勘所かんどころをつかんで身につけてしまうだけの天才的な素養があるのか、どの分野に関しても飛び抜けて理解が早かった。特にその好奇心の強さ、あるいは知識を解釈に発展させるだけの学問的なセンスの良さは、どの専門家も舌を巻いた。

 なかでも乗馬には夢中になって取り組んだ。最初こそポニーの背中に乗って、エミリアが手綱たづなをとり、万が一の落馬に備えてほかの近衛兵が数人で取り囲むという騒ぎだったが、やがて小さなポニーでは飽きてしまったのか、大型の軍用馬に乗りたいと言い出した。

 プリンセスが人生で初めて乗った馬は、ベルリーナという名前の葦毛あしげの軍馬で、近衛兵団のなかでも逸足として知られていた。それだけに利かん気なところがあり、プリンセスに対しても相手が子供だと見てなかなか従わない。

 プリンセスは幾度も背中から振り落とされ、そのたび、警護の近衛兵が受け止めてくれた。彼女は思い通りにベルリーナが自分を乗せてくれないことにしばしば悔し涙を流しながらも、決してあきらめず、毎日のように厩舎きゅうしゃに出入りして世話をし、信頼関係を築くことに腐心した。

 するとひと月後、ベルリーナは固く結ばれた糸がほどけるようなあっけなさで、プリンセスの乗馬を許した。

 この光景には、エミリアだけでなく、付き添っていた近衛兵たちも拍手喝采でともに喜んだ。プリンセス自身、泣いて歓喜したのは言うまでもない。今度は、うれし涙であった。

 さて、プリンセスが女王から無制限に近い優遇を受けているのとは対照的に、カロリーナやコンスタンサにはそれぞれ片手の指で数えられる程度にしか教師をつけてもらえない。

 教師だけではない。彼女らにはエミリアのような専属の補佐役はおらず、護衛の近衛兵も当番制で回り持ちであった。与えられる部屋も格が違うし、女王からの贈り物の頻度もまるで比較にならない。王女が揃って参加するような国事行為においても、プリンセスのみは挨拶の機会があるがカロリーナやコンスタンサには与えられない、といった露骨とも言える格差があった。

 一度、プリンセスは事あるごとに自分とほか二名の王女との不当なほどの差について、エミリアに尋ねた。なぜ、母上はああもカロリーナやコンスタンサにつらくあたられるのだろう、と。

 エミリアも優秀だが、かといって女王の心中を完全に推察することはできない。だからごく常識的な推論を述べるほかない。

「陛下はプリンセスをご寵愛です」

「それはうれしいけど、それだけでもない気がするわ」

「第一王女として、プリンセスが特別な存在であるということを、徹底されたいのでしょう」

 エミリアはそう答えたが、彼女自身、もう少しうがった見方をしていないわけではない。女王は要するに、プリンセスを後継者としたいのであろう。プリンセスがとにかくかわいくて、自分のすべてをプリンセスに相続させたい。そのためには、背景があり、味方につく貴族が多く、それゆえにプリンセスの地位をおびやかすだけの実力があるカロリーナとコンスタンサは邪魔になる。女王として、なるべく二人の力を削いでおくとともに、地盤のないプリンセスを立てることでその名声を高めてやりたいとの政治的な思惑が絡んでいるのではないか。

 だが、その分析が正鵠せいこくを射ていたとして、エミリアとしてはそうした政治闘争に興味を持ってもらうよりも、学問や体育など、プリンセス自身を育てることに集中してもらいたい思いがある。

 次の女王になってほしい、という思いでは、エミリアはプリンセスの義母であるマリエッタ女王に劣らない。それは関係の深いプリンセスが女王となれば自身の栄達も約束される、などといった政治的野心などではなく、純粋にこの少女がこのまま成長してゆけば、女王として国をよくしていけるだろうという確信に近い期待があるからだ。プリンセスは聡明であり、臣下に対しても民衆に対してもごく自然といたわりと尊敬の心を持っている。これは王女としても、あるいは女王としても得がたい資質であろう。

 知能を向上させ、肉体を成育し、人格を涵養かんようするのに、幼少期の経験、つまり幼少期をどう過ごすかがとりわけ重要であるというのは、人類が古来から蓄積してきた教育経験のなかで証明された事実である。

 そのため、まさに今、どのような日常を送るのか、それこそが将来のプリンセスを決定づけると言っても過言ではないのである。その意味で、プリンセスは理想的な環境を手にしていた。そして、プリンセスはその無限とも言える好奇心のために、楽しみつつも忙しく学び続け、ベッドに入る瞬間まで学び、入ってしまえば死人のようにことりと寝入ってしまうような、そんな充実した毎日をひたすらに送った。

 こののち、宮廷は徐々に政治的安定を取り戻し、トスカニーニ侯爵が与党の貴族とともに自領に閉じこもって王宮に出仕しなくなったという火種を除けば、約6年間は大きな政変や事案もなく過ぎることとなる。

 そしてミネルヴァ暦1385年、プリンセスが15歳の年、再び教国全体を揺るがせにするような事件が起こった。

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