名馬

 大陸東方に、オユトルゴイ王国という国がある。

 ロンバルディア教国はこの数世紀、大陸南に広がるベンチュリー海を経由したオユトルゴイ王国、スンダルバンス同盟との三角貿易に力を入れている。王国との経済関係は強固で、互いにさまざまな交易品を取引して、繁栄を享受し合っている仲である。

 経済面のみならず、外交関係も悪くない。とりわけ王国の朝廷を牛耳ぎゅうじ十常侍じゅうじょうじの外交担当として、タクミ・ヤノなる人物が就いてからは、両国の連絡はいよいよ親密になった。

 タクミ・ヤノは、なかなかの人物である。

 というのは、教国の官僚、特に外交筋のあいだではしばしば語られるところである。年は40手前、王国の文官のなかでは有数の論客で、人品骨柄じんぴんこつがらも並ではなく、長者の風格がある。外交の専門家で、十常侍に累進する以前から大陸中を東奔西走し、各国との友好関係強化に尽力した。

 特にここ数日、彼の名前が教国の王宮レユニオンパレスで話題の俎上そじょうにたびたびせられるわけは、毎年の定例使節として、十常侍である彼が自ら王国を訪ねてくることが予告されていたからである。

 この時期、プリンセスは遊学と旅行とをかねて教国第三の都市ドロミーティに滞在しており、また第三王女のコンスタンサも、年に一度の帰省として実家のチェーザレ伯爵家の居城であるアルハンブラ城に戻っている。

 そのため、使節団の応対は、マリエッタ女王とカロリーナ王女が行うこととなる。

「常侍のヤノが、陛下に拝謁します」

「ヤノ殿、遠路はるばるのお越し、痛み入ります」

「この度はお目通りの機会をいただき、恐悦の限りでございます」

 謁見えっけん用の広間で型通りの挨拶をしたのち、使節団は応接室へと通され、ここで女王及び王女との懇談が許される。実際の外交折衝は、この談話のあとで、枢密院の重鎮たちが女王に代わって進めることとなる。女王としては、小一時間ばかり使節の相手をしたあとで、あとのことは閣僚どもに引き継げばよい。

 この数年は、外交の場にも必ずプリンセスを帯同させている。それは、プリンセスこそ女王の正統な王位継承者であり、かつ女王の代理権を有し、かつ女王自身も同然であることを国内のみならず国外に対しても発信する意図からであるのは、言うまでもない。このため、プリンセスの国外における知名度はほか二名の王女とは比較にすらならない。各国の常駐使節や本国の代表者たちは、当然のようにプリンセスを次の女王であるとみなしている。

 だがあいにく、今回はプリンセスが不在である。

 マリエッタは仕方なく、といった心境で、カロリーナを伴いヤノと懇談に及んだ。プリンセスはいないが、しかし女王の機嫌は存外にもななめならず、終始和やかな微笑みを浮かべている。それはヤノの春風駘蕩しゅうぷうたいとうたる人柄と、声色爽やかで心地よい話しぶりにつりこまれたからであろう。

 時間はあっという間に過ぎ、公務を億劫おっくうがるマリエッタ女王には珍しく、会談の終了を名残惜しんだ。ヤノも感激した様子で、最後、女王をメインパレス前の広場まで誘った。そこには、彼が王国から携えてきた贈り物が山のように集められている。

 品目を示した贈呈の目録には、こうある。


 絹織物

 茶

 刀剣

 金

 琥珀

 染料

 香料

 馬


 馬はいずれも駿馬しゅんめとして知られる王国産の汗血馬で、特に艶のある赤褐色の毛並みとひときわ立派な体格を持つ馬が人々の目を引いた。

 ヤノはこの馬を見参に入れるため、わざわざこの場所へ女王を招いたのであった。

 それだけの価値はある、見事な馬である。教国は良馬の産地ではない。これほどの馬は、教国中を探し回っても見つけることができないのではないか。

「ほほう、これは」

 マリエッタは乗馬が嫌いで、馬の目利きもできないが、これが格別の名馬であることくらいはただの一目でも分かる。

 しかし、隣で彼女以上に目を輝かせている者がある。

 カロリーナである。彼女はプリンセスの影響もあって、乗馬が好きであった。三人の王女に共通する唯一の趣味が、乗馬でもあった。一頃ひところは、毎日のように三人で馬を駆けさせていたこともある。

「母上、この馬、私に下さりませ」

 と、不躾ぶしつけにも使者の眼前でこの貴重な贈り物の下賜かしをねだった。

 元来、カロリーナは宮廷の礼儀作法を完璧に守り、人前で恥をかいたことはない。しかし、この場に限って思わず欲求をあからさまに口にしてしまったのは、天下の名馬を前にそれだけ興奮していたということであろう。

 上々だったマリエッタ女王の機嫌はたちまち損なわれた。

「カロリーナ、控えるがよい」

「しかし」

「使節の前で、無礼である。それにこの馬には英雄の風格がある。あなたにはもったいない」

 こともあろうに国賓の面前で痛罵され、カロリーナは顔面蒼白となり口をつぐんだ。これまで公衆の面前で義母から侮辱を受けたことは一度ならずあるが、今回は度を越している。

 ヤノは、母娘の不仲に対しても、動じずただじっと目を伏せている。このような場合、聞こえないふりをするのが、部外者の配慮というものであろう。

 マリエッタ女王が丁重に謝意を述べて懇談は終わり、翌日には使節団は去った。

 半月後、プリンセスがエミリアと護衛の近衛小隊、数人の官僚とともに王宮へと帰着した。旅塵を落とすいとまさえなく、女王からの呼び出しがかかる。

 使いの近衛兵に案内されたのは、王宮内の馬場であった。女王はこの贈り物をプリンセスに見せるため、一日千秋の思いでその帰還を待ちわびていたのであろう。いつになくはしゃいだ様子である。

「母上、ただいま戻りました」

「よう戻った。こちらへ来なさい」

「母上、この馬は?」

 プリンセスは目を丸くしている。乗馬をやらない女王が馬場にいること自体が珍しいが、それよりもなお興味深いのは、女王の近くに近衛兵二人がかりで引かれている馬である。体格といい、毛並みの艶といい、あるいは満身から充溢じゅういつするような覇気といい、見事と言うほかない。

 マリエッタ女王は、プリンセスのその素直な表情がたまらなく愛らしい。

「これは先日、オユトルゴイ王国からの使者が残していった贈り物での。今は仕えるべき主君を待っている」

「まさか、この馬を私に?」

「ああ、その通り。馬に詳しい者どもに聞いたが、みな口を揃えて教国最高の名馬と言う。これを授けるに、プリンセス以外にふさわしい者はいないと思う」

「母上、望外の至りです」

「乗るがよい」

 心が浮き立って仕方がない、といった様子で、プリンセスはエミリアの介添えのもと、馬の背中にまたがった。王国生まれの汗血馬は軍馬向きで非常に気性が荒く、この馬もとりわけその傾向が強い。近衛兵が二人がかりで厩舎きゅうしゃから引き出すのにも苦労したほどなのだが、プリンセスが乗馬すると、なんと、猫のようにおとなしくなり、意のままに動くようになった。

 試しに駆けさせると、これが速い。軽く走らせた程度ではあるが、明らかに並の馬とは加速力やスタミナが違う。

 それに、騎乗するプリンセスも、15歳にして背丈は170cm近くもあり、細身の体に洗練された運動服がよく似合って、人馬とも実に勇壮であった。なるほど似合いの組み合わせと言っていい。

 プリンセスはこの馬に友情という意味を持つ「アミスタ」の名を与え、日が暮れるまで駆け、あとは疲労と満足のためぐっすりと眠った。

 翌朝、プリンセスが疲れも見せずアミスタとの乗馬の時間を楽しんでいると、あとからカロリーナが馬場に現れた。

 彼女の驚愕と絶望は、推して知るべしであろう。

 プリンセスはカロリーナの姿を認めると、アミスタを近くまで寄せて下馬した。

「姉上、その馬は」

「母上が下さったの。王国からの贈り物のようで。名前はアミスタと名付けました」

「母上が……」

 カロリーナは唇をわなわなと震わせ、肩を荒く上下させ、まばたきさえ忘れて茫然自失の状態になった。自らがねだった際は、「もったいない」などと言われ、言下にしりぞけられたのに、プリンセスに対しては求められもしないのに、帰還早々にこの馬を贈ったという。

 カロリーナの忍耐力と自尊心とは、ついにその双方を両立しがたい限界点を迎えたようであった。

 彼女は、彼女自身さえも思わぬ行動に出た。

 義妹の異様な様子に気付いたプリンセスの頬を、したたかに打ったのである。

 両者を護衛する近衛兵、エミリアさえも、この事態に言葉を失い、ただすくんだように遠巻きに佇立ちょりつするのみであった。カロリーナが余人であればただちに割り込んで拘束するところではあるが、これは王女同士の仲違なかたがいである。第二王女が第一王女に平手打ちを食らわせるなど、何しろ前代未聞のことで、事態への対処が咄嗟とっさには分からない。

 いきなり頬を叩かれたプリンセスは、痛みを掌でおさえつつ、双眸そうぼううるませて義妹の心理状態をおもんぱかった。彼女にとって何より気遣うべきは、頬の痛みではなく、義妹の心であった。

「カロリーナ、どうしたのですか? 何かつらいことでもあったのですか……?」

 カロリーナは何も答えず、きりきりと奥歯をかみしめる音が聞こえるほど憎悪にまみれた表情で応えるのみだった。

 プリンセスには事情の察しがつかぬまま、やがてカロリーナは肩を怒らせたまま、早足で歩き去ってしまった。

 これまで円満に付き合ってきたプリンセスとカロリーナの仲に、一頭の馬が埋めがたい深刻な亀裂を入れたのだと、そのように言えるかもしれない。

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