プリンセス誕生
翌日、マリエッタの言いつけ通りに、ブランシュ近衛兵団長は事を運んだ。信頼できる近衛兵のみに命令を伝え、エスメラルダ少女を王宮に招き入れたのである。
少女は、それが彼女にとっての最高の盛装なのであろう、昨日よりはいくらかましな、だが宮廷人を見慣れた近衛兵からすれば哀れなほどにみすぼらしい格好で現れた。彼女の住環境とは天と地ほどに隔絶した
だが、度胸があるのか、それとも好奇心が異常に強いのか、怯えたり、恐れることがない。縮こまろうとするのではなく、この貴重な経験を無駄にしないために、全身全霊で今という時間を楽しんでいるようでもあった。
一方、女王マリエッタは、例によって落ち着きなく、好物のベニエを食べている。彼女自身、自覚していたが、エスメラルダ少女を迎えるにあたって、彼女は緊張をしていた。孤児院の娘をひとり、宮廷で引見するのに、女王たる彼女が緊張せねばならない理由はないはずだが、ともかく、ひどく落ち着かない気分である。
女王の居室のドアが四回、ノックされた瞬間も、思わずつまんでいたベニエを取り落としたほどであった。
「入りなさい」
慌てて容儀を正し、告げると、にこやかな笑みを頬にたたえたブランシュ近衛兵団長に続いて、エスメラルダ少女が姿を見せた。礼儀にのっとったカーテシーと呼ばれる動作で、女王に対し敬意を伝える。マリエッタには、宮廷で顔を合わせる誰よりも、エスメラルダ少女のそれの方が可憐で華やかに思われた。
「陛下、本日は過分にもご招待をいただき、光栄でございます」
「ごきげんよう」
マリエッタは掌を振り、退出するようブランシュに促した。二人きりになり、彼女はエスメラルダ少女を隣の席に座らせた。本来、女王の神聖たるべき居室だから椅子はひとつしかないのだが、今回のためにわざわざ席を用意させたのであった。
8歳にしては背が高い方だが、深く腰をかけると、床にまで足が届かない。その点では、一見、ほかの少女と変わるところはない。
しかし、見れば見るほど、その栗色の瞳に宿された凛々しさと慈愛の豊かさは、どうであろう。吸い込まれそうな瞳、という陳腐な表現が、マリエッタの脳裏に浮かんだ。そこには心を奪われ、思わず
マリエッタは、やや動転しつつ、終始やわらかい笑みを浮かべたエスメラルダ少女に対し努めて優しい声で語りかけた。
「王宮はどうか」
「はい、とても素敵なところで、夢を見ているようです」
「気に入りましたか」
「はい、もちろんです」
「では、王宮に住もうてみるかえ」
「私が、王宮に……?」
エスメラルダ少女の顔から笑みが消え、代わりにきょとんとした驚きの色がつぶらな瞳いっぱいに広がった。
「あなたは、余のドレスを仕立てたいと申していたが」
「はい」
「それから花を余に届け、料理を余に振舞い、余の馬を世話したいと」
「はい、申しました」
「余がその願いをかなえようと思う」
女王の好意あふれる提案に、エスメラルダ少女はいまひとつ得心がいかぬ様子であった。
マリエッタは幾分、
「あなたに、余の娘になってほしいのです。つまり、この国の王女として」
「あらやだ、素敵」
この反応は、扉越しに聞き耳を立てていたブランシュのものである。この者は、世話好きの老婆よろしく、無作法にも部屋の様子を探っていたのであった。女王の思い切った要請を耳にして、浮き立つ心情をおさえかねるように口を両手で覆っている。
さて、当のエスメラルダ少女はというと、ただ呆然とするだけであった。孤児院住まいの名もなき平民が、この国で最も高貴な身分を手に入れるというのである。もし運命の歯車なるものがあるとすれば、今、それが世界の流れのすべてに逆行するように回り始めた。
このときのエスメラルダ少女に、マリエッタの要請を拒否する権利があったのかなかったのかについては、歴史学者のあいだでも意見の分かれるところである。教国女王は自国の資源、この場合の資源とはつまり人的資源やそれに付随する人間の人生を含むが、そうした資源の扱いに関して必ずしも
だから、王女の選抜に関しても、最終的な判断と決定は女王個人に帰属するわけである。臣下の誰にも
エスメラルダ少女は雷に撃たれたように、ぴたりと動かない。マリエッタは内心で返事を望んだが、なかなか得られず、やがて彼女の方がいたたまれなくなって、ひとり少女を残して、部屋を出た。
「今夜は王宮に泊まって、よくよく考えてみるがよい」
その晩、少女は近衛兵によって手厚く保護された。
翌朝。
マリエッタは、エスメラルダ少女と面会した。少女は、昨日と同じ服を着ていた。汚くはないが、その貧しさは隠しようもない。だが同時に、みすぼらしい衣装とて、着る者の品格をおとしめることはできない。
(あぁ、この娘に美々しい宮廷衣装を着せたら、どれほど愛らしいことか)
マリエッタは話す前から、ベニエを手に取りかじりついている。たっぷりとまぶされた砂糖が、ばらばらと白いドレスに落ちて見えなくなった。彼女はもともと頻繁に粗相をする方ではなかったが、この少女の前では妙に緊張してしまうらしかった。
「ごきげんよう」
「陛下、ごきげんよう」
「昨日はよく眠れましたか」
「あまり眠れませんでした」
「王宮の寝台は寝心地がよくないかの」
「いえ、考え事が頭をめぐって、寝付けなかったのです」
「どのような」
「私に、王女が務めるのかと」
「務まる?」
務まる、という言葉の意味が、マリエッタには分からなかった。王女はその座にあることそのものが意味であり目的であって、務まる務まらぬの尺度などはない。女王や王女というのは評価の対象にはならないからである。
「自分に王女が務まるかどうかを、眠らずに考えたのか」
「大貴族家の出自でない私が王女になれば、民をがっかりさせないか、陛下に恥をかかせないかと」
「あなたは、自分ではなく、民や余のことを思っていたのか」
「私はどうなっても、支えてくれる民や尊敬する陛下を傷つけるのはつらくて。陛下はなぜ、私を王女として見込んでいただけたのでしょうか」
難問であった。何しろ、マリエッタ自身、よく分かっていない。この少女にただならぬ魅力を感じたのは事実である。だがなぜ、それを養女として、すなわち王女として迎えるという飛躍した発想にいたったのか。
「余はただ、あなたを一目見て、大変好きになった。あなたの成長を、余はそばで見たいのです」
子供のように、感情のままに話したところ、そのような言葉になった。語彙力という点では、マリエッタは少女より四半世紀も長く生きているが、どうも優劣があべこべになってしまっているらしい。8歳のこのエスメラルダ少女の方が、よほど明晰に話せている。
だが、マリエッタのその直線的な伝え方が響いたのか、やや緊張した面持ちのエスメラルダ少女が、ぱっと花の咲き誇るような笑顔を見せた。
「私も、陛下のことが大好きです。私も、陛下のおそばで、陛下のことをお支えしていけたらうれしいです」
「ならば、引き受けてくれるのかえ」
「はい。このような私でよろしければ、陛下の娘になります」
まさに、歴史的な瞬間であったと言えるだろう。欠点もなければ取り柄もない、例えば歴史を動かすなど到底できそうもない、この平凡極まる女王が、初めて史書に
孤児院に住まう、門地も財産も持たないエスメラルダ少女を、プリンセス・エスメラルダとして王宮に迎えることが決定された日であった。
ミネルヴァ暦1378年3月4日のことである。
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