角・鏃・屍

 日が昇ると同時に三人はバオバブの木を後にした。太陽がちょうど真上を過ぎる頃に、三人はオークの木々が壁をなす密林に入った。

 密林は完全に草原という光の世界から隔絶されていた。風のざわめきも、草の波も、太陽の匂いもない。欝蒼と茂った木の葉の影の下、土の匂いと、獣の匂いが、湿った微風に運ばれてくるのみである。


 しばらく分け入ってふと手をついたオークの幹を見ると、斜めに切り裂いたような傷跡が大きく残されている。双蹄竜の角跡に間違いない。彼等は定期的に縄張りの境界を見回っては、大理石より硬い角で幹を抉り、その領域を主張するのである。

「ユリアス」とトレクスは短く言った。「角跡だ」

「縄張りの一角に着いたんだな」ユリアスは静かに言った。「少し離れたところから観察しよう、ヤツの移動方向を見張るんだ」

 そう、角跡のついた木が一本だけでは、どの方角に縄張りが広がっているか全く分からない。新米狩人の二人は顔を引きつらせて頷いた。


 ユリアスの提案で、トレクスはアレンと二人で見張ることになった。二人に危険が生じればユリアスが、ユリアスに危険が生じれば二人が、それぞれ背後から支援する算段である。

「……アレンは実際に双蹄竜を見たことはあるのか?」

「ああ、死んでるやつだけどな。……神どころか悪魔の化身だよ、あれは」

 二人は顔も見合わせず言った。静寂が耳を打ち、衣擦れや背負った弓と矢のぶつかる音がやけに大きく聞こえた。トレクスの口の中はカラカラに乾いていた。

「悪魔?」トレクスの問いかけに、アレンは息を一つついた。

「ああ。同じ蹄竜なのに、どうして単蹄竜とこうも違うのか全く理解できねえ。全身は真っ黒で皮膚は石よりも固い。問題は何より頭から前に伸びる二本の角だ。やつらの角、頭よりもデカいんだぜ」アレンが両手をこんな感じと動かして見せた。

「首が相当強いんだろうな」

「いや、あの角はカラッポなんだよ。空洞だ。元から角が硬い上に動きが素早いから凶悪なのさ」

「悪魔というお前の評価は何となくわかった気がするよ」

「だろ?」

「麻痺罠を組んだらどうするんだ? 皮膚は硬くて矢を通さないんだろ」

「一点だけ弱点がある。尻尾の付け根だ」

「随分と狙いにくいところにあるな」

「そりゃあ弱点を晒す生き物なんてそうそうおらんがな。奴らの尻尾はバランスを取るのに加えて、血液を冷やす目的もあるんだ。あれほどの体躯を動かしていると、いくら涼しい密林の中といえど熱がこもる。だからぶっとい血管で皮膚の薄い尻尾まで血を持っていって、毛細血管を通すことで冷やしてんだよ」

「なるほどな。じゃあ、背後に回って付け根を射抜けば失血死を狙えるってわけだ」

「目でもいい。奴らの目のすぐ奥に脳髄が詰まってるからな、目玉を貫通できればすぐ脳を仕留められる。でもあいつらの目ときたらもうそれはそれは世界の闇を凝縮したような……」

「アレン」腕を組んで舌が回り始めたアレンを、トレクスは手を挙げて短く制した。

「……


 瞬間、トレクスのつま先から脳の頂点にかけて電流が走る。首元がじわじわと締め上げられる。コヨーテもまた、得体のしれない重圧に首を竦め、じりじりと後退あとずさった。

 全身がロウで塗り固められたような感覚がした。指先一つの小さな動きで、身体のすべてがガラガラと崩れ落ちてしまいそうだった。

 波うつ視界に込み上がる吐き気を必死に耐えながら、トレクスは目を凝らした。視界の先、一際大きく古いオークの木の向こうから、湾曲した黒い二本の角が姿を見せた。

 ファルコンのような寸詰まりの大きな嘴、角の付け根に見える小さな眼。琥珀色の眼球がぬらりと動いて割れ目のような黒目がこちらを向いた時、トレクスはいつの間にか詰まっていた息を大きく吐いた。

 同時に、相対するディオハリプおもむろに首をもたげた。


 甲高い声が鼓膜を突き刺した。と思ったその直後、突如としてコヨーテがあてもなく走り出した。トレクスは手綱を強く握り、振り落とされないようにするのが精一杯だった。倒木を踏みつけるたびに湿った木片が彼の頬を打った。視界が一瞬暗くなった直後、ズドンと大きな衝撃が身体の右側から、地面を通して伝わった。炭状になった黒い土の粒子が頭上からバラバラと降り注いだ。


 彼は左右を慌てて見廻したが、さっきまですぐ隣にいた友人の姿はどこにもなかった。背後で金切り声が上がったので振り返ったが、彼の右後ろを走っているのはヴァシリスだった。空馬となっていたのだ。首を必死に回して真後ろを見上げると、密林に入り込む少ない日光の中で影となった、大きく捩れた一本の大木があった。彼はそれが何の木であるか知らなかった。


 ややあって影の上部が大きく左右に動き、何かがトレクス目掛けて飛んできた。大木だと思っていたその影は双蹄竜だった。彼は首を竦めて飛んできたものを間一髪で躱したが、そのとき柔らかな棒状のものがうなじを掠め、生温い液体が左の頬と首筋をべちゃっと濡らした。何度か跳ねて止まったの一部には見覚えがあった。

 アレンの顔だった。大きく目を見開いたまま物言わぬ友人の顔はすぐに後方に流れていったが、脳裡にはっきりと焼き付いた。逃げ延びている自分を咎めているように見えたのだ。


「……クス。トレクス!!」どれほど走ったのかわからない。不意に、聞き慣れた声がした。

 左隣を、ユリアスが走っている。「怪我はないか?」

「僕は大丈夫。でも、アレンが、アレンが……!」

「わかってる。でも今は俺たちの安全が最優先だ。いいか、今の俺たちは『狩人』だ。

 トレクスは汗と血でぐしゃぐしゃになった顔を、必死に亡き友人の兄の方へ向けた。ユリアスはあくまで冷静である。それもそのはず、王室旅団は狩人の集団でありつつ、兵士の集団でもある。目の前で消えていった命の数は、一つや二つでないことは確かだろうーーどれほど親しい友でも、親類でも、戦いの中で死ぬ時は死ぬ。ーー彼がいつかの狩りで、トレクスに放った一言だ。


 いいか、とユリアスは念を押した。

「双蹄竜といえど、ヒトほどの知恵は持たない。お前は俊敏だし弓の腕がいい。隙をつけ。獣借りを纏って欺け。使えるものは何でも使え。生き物への感謝はもちろん大事だし、お前はそれを言わなくてもわかっているだろう。だがそれより大切なことがある。生きて帰ることだ。そして狩人として、獲物を仕留めることだ」

「狩人として……」

「そうだ。方法は時として、公正でないこともある。とはいえ……そこにこだわりを持ちすぎると、死ぬぞ」


 背後から双蹄竜が猛追するせいで、木屑や木の葉や土の粒子がバラバラと顔を打った。しかしなぜか、ユリアスの声は明瞭に耳に届いた。トレクスは再び前を向いた。

 大きく息を吸い込み、イメージする。大空を駆け、稲妻の如く急降下し、風のように獲物を掴むあの鳥の姿を。

 悠然と飛翔する、鳶の姿を。

 瞬間、トレクスとコヨーテの周りの空気が揺らぎ、霞のように姿を消していく。それと入れ替わるようにして、そこには低空を滑空する一羽の鳶が現れた。

 ユリアスは一瞬目を見張ったが、すぐに彼を援護できるように、鞭を一つ入れると隣を離れていった。


 鞍上のトレクスは、どうやって背後の竜を仕留めるか、考えを巡らしていた。

 可能性のある方法としては二つ。一つは双蹄竜の背後に回って、尻尾の付け根に矢を差し込む方法。ただ、この方法を取るのであれば急旋回して背後に回るか、急停止して足元を潜るほかない。急旋回する方法を取るなら、大木が群生する密林ではコヨーテがバランスを崩して転倒する危険がある。足元を潜るにしても、アレンを一撃で葬った角に貫かれる危険が潜んでいる。どちらも現実味は薄かった。


 ならば……と考え出した方法は、我ながら無謀としか言いようがないな、というものだった。コヨーテの鞍上から飛び上がり、それに釣られて顔を上げたところに、上空から眼球目掛けて矢を射下ろす。尻尾の付け根を狙うよりは確実性が高いだろうが、それでも針の穴に糸を投げて通すようなものだ。何万回、何億回と試行回数が増えればいつかは成功するだろう。制限なく試行できるのであれば。

 トレクスに立ち止まって考える余地はなかった。バックルに掛けた鞍綱を外し、体に斜めに掛けた弓を左手に握ると、鞍の上にしゃがむような姿勢を取った。腰の後ろにある矢筒から一本をスラリと引き抜きつがえ、トレクスは思い切り鞍を蹴って跳び上がった。


 オークの幹を蹴って高度を稼ぐ。左回りに体を捻って獲物を見下ろすと、琥珀色の眼球と目が合った。『あいつらの目ときたらもうそれはそれは世界の闇を凝縮したような……』つい数分前まで生きていた友人の言葉が脳裏を過った。

 冷たい、と表現するにはあまりにも冷酷な視線が意識を貫いた。鳶の姿を一気に解放すると、その視線に含まれる殺気の強さが、二倍どころではなくなったように感じられた。弓が重い。肩を精一杯に寄せて弓を引くが、まるで矢羽が顔に近づいてこない。


 ここで目を逸らしたら、確実に負ける。トレクスはむしろ、獲物の眼を見据えた。逸らすな。見返せ。闇を凝縮したようだと? いいだろう、俺はこれからその闇を貫く光になるのだから。

 決してゴムのようには伸びない木の枝を引きちぎる勢いで引き絞り、馬手から弦を放つ。血の味がして、口の中に何かの破片を感じた。

 放った矢はほとんど直線を引いて、双蹄竜の左眼を貫いた。同時に、悲鳴のような、慟哭のような鳴き声が上がる。


 トレクスが両手をついて大地に降り立つと同時に、神の化身は膝から崩れ落ちて動かなくなった。顔を上げると目と鼻の先に竜の顔があった。左目に深々と矢が刺さっており、赤黒い血液が涙のように流れている。鉄と生き物が同時に灼けたような、ムッとする熱気が鼻に刺さる。のろのろと立ち上がり、荒い息を整えながら獲物の顔を拝むトレクスに向けて、突然右眼が開かれた。トレクスは血の気が引いていくのを感じた。

 闇より黒い片目は自分を殺した相手を睨んでいたが、それもすうっと吸い込まれるように消えてゆき、最後には濁った黄色をした眼球だけがその場に残された。獲物が力尽きると同時に、全身を血と、木屑と、土で汚した狩人は、吊り糸を切られた人形のように、力なくその場に倒れた。

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