咆哮
ユリアスの駆る
パトラスと狩場となる円月山地麓の密林の間には、見渡す限りの平野が広がっており、そのほとんどがレコン草原によって占められている。その規模はエサロス島の約六分の一を占め、草原は東西に約三五〇レウカ(=約七〇〇キロメートル)、南北に約二〇〇レウカ(=約四〇〇キロメートル)ほどもある。その平原の外周の半分強、北東部から西部にかけて半円状の山脈――これが円月山地と言われる所以である――に囲まれている。
故に、視界の全てが草と山脈に覆われる中で、方位を正確に捉えておくのは経験豊富な狩人であっても至難の業だ。成人する前の男子たちは集落から半径約五レウカ(=約十キロメートル)以内の地域で狩りに出るようにとの言いつけもあり、狩りの後も迷わず帰宅できる。
だが草原の奥まで入れば、つまり山地に近づけば近づくほど、自身の居場所は分かりにくくなっていく。不気味なほど静かな緑色の海と、吸い込まれそうな青黒い壁が、ちっぽけな狩人の方向感覚を失わせる。巨大な悪魔は時として、狩人の正気すら奪い去る。
成人した狩人たちの第一の関門。それは、草原と山地という巨大な悪魔を目の前にして、仲間から逸れずに、かつ正気から逸れずに狩場に行きつくことである。ある程度経験を積んだ狩人が一直線に走っても、密林に辿り着くには少なくとも一日を要する。成人したての者であれば――更に簡易とはいえ野宿道具を担いでいるのなら――なおさらだ。二、三日の間変わらぬ景色の中を走り続けるのは、容易ではない。
赤々とした夕陽が、視界の右端に射し込んでくる。三人はユリアスの提案で、集落から真南に下り、可能な限り早く密林に入ることにしていた。草原を金色に照らしていたはずの太陽が血のように赤黒く見え、思わずトレクスは目を逸らした。
隣を走るアレンの顔に、玉のような汗が浮かんでいる。これほどの長距離を長時間走った経験はないのだろう、手綱を握る手にも力が入っている。
彼は限界が近い。その疲労が伝わっているのだろう、アレンが跨っているヴァシリスはいつもより背中を上下させながら走っている。
トレクスもまたアレンほどではなくとも疲労を感じていた。トレクスはコヨーテをユリアスの隣に寄せた。
「そろそろ休もう。たぶんアレンの体力は尽きかけてる」
「そうだね、そろそろ日も暮れる頃合いだし――あそこに見えるバオバブの木まで行こう。あと五分くらい走れば行けるはずだよ。アレンにそう伝えてくれ」
「わかった」
隣に着けたトレクスが今夜の寝床を伝えると、「もうひと踏ん張りってわけだな」とアレンは額の汗を拭った。トレクスは何も言わず、にやっと笑って頷いた。
単蹄竜を降りて実際に根元に立つと、ユリアスが指したバオバブの木は、地下を縦横無尽に張り巡らされた根がいつか大地を破壊してしまいそうなほどの大きさだった。しかも、てっぺんの枝が根のような形をしている。神に引っこ抜いて逆さに突っ込むといういたずらでもされたのだろうか。
「果実と若葉は失敬できるはずだ。持ってきた水と食料を出来るだけ節約しよう。トレクスは火を起こしてくれ。アレンは適当な枝を打って竜たちを繋いでおいてほしい」とユリアスがてきぱきと指示を出した。王室旅団で各地を飛び回って培った彼の野宿と植物の知識に頼れるのは、新成人の二人にとってかなり有益だった。
持ってきた干し肉は取り出さず、その場で狩った野うさぎとバオバブの果実。いつもの食事に比べると野生的だが、三人の飢えと乾きを満たすには十分だった。
「この調子だと、明日の午後には密林に入れると思う」ユリアスが言った。
「じゃ、意外と時間の余裕はありそうだな。じっくり一頭獲物を見定めようぜ」と骨つき肉を頬張りながらアレンは言ったが、トレクスが「いや、」と口を挟んだ。
「捕らえた獲物を八日目の朝までに持ち帰るのを考えると、あまり猶予はないと思う。双蹄竜の体長は平均で八ドレグあるって聞くし、そう考えると引きずって帰るのも一苦労だ」
「同感だ」とユリアスが頷いた。彼はバオバブの果汁を少し啜っただけで、野うさぎと果肉には全く手をつけていなかった。よほど燃費が良いのだろうか。
「帰り道は行きの倍の時間かかると思った方がいい。ざっと三日だな」
「じゃあ、実質狩りに使える時間は三日もないってことか。とすると、狙いを最初に見つけた一頭に絞って時間をかけるのがいいかも」
アレンが骨を焚き火の中に放り投げた。でも、とそこにトレクスが手を挙げた。
「逃げられた時はどうするんだ?」それはないぜ、とアレンがはっきりと返してきたので、トレクスはほうと目を丸くした。
「奴ら繁殖期を除けば基本的に一匹で行動しているし、馬鹿みたいに縄張り意識が強い。だから適当な個体を縄張りの近くで観察して、その移動経路のどこかに罠を仕掛けるのが多分一番効率的だ」
「上出来だ」と大きく頷いたのはユリアスである。「さすが、パトラス一の生物博士ってところか」
「まあね。親父の持ってた古い図鑑、ダテにめくってた訳じゃあないんだぜ」
ふふん、とアレンが胸を張った。トレクスはこの友人が意外な論理性を見せたのがかなり意外だった。何しろいつもは持ち前の人柄と勢いでこと上手いこと取りまとめているような、見切り発車の権化のような男なのだ。
その彼がもっともらしいことを言うのがトレクスには少し憎らしく思われたが、それも今はかなり頼もしかった。
「じゃ、こうしよう」と作戦を立案したのはトレクスだ。彼は昔から村の子供の間では有名な参謀だった。
「密林に入ったらまず罠を作る。森の中でバレにくく、しかも動きを封じやすいヤツを。火完璧に移動経路上に仕掛けるのはたぶん難しいから、俺たちが狩りやすい場所に置く。それで、そこに誘導してとどめを刺す。どうかな」
「俺は異論なしだ」とユリアスが言った。「ひとつ助言するとしたら、罠を何にするかだね。バレにくさで言ったら、落とし穴か
「後者でいこう」アレンがすかさず言った。
「双蹄竜の規模の落とし穴を掘るのは時間がかかり過ぎる。それに、電々蟲なら密林でかなりの補充が利く」
ユリアスはバオバブの果実を背後の草むらに放り投げて言った。「決まりだな。明日は夜明けとともにここを発つ。二人とも荷物をまとめておいてくれ」
その夜。トレクスは夢を見ていた。――
光の少ない、密林の奥地。
足を踏み入れたこともないのに、濡れた空気が体中に重たくまとわりつくのを感じる。
黒々と生い茂るオークの木々、足元に積み重なった枯葉。夏でも涼しく地面の水分が蒸発しにくいこの土壌は泥炭と化しているため、コヨーテの足取りも重い。
ふと手をついたオークの幹を見ると、斜めに切り裂いたような傷跡が大きく残されている。双蹄竜の角跡に間違いない。彼等は定期的に縄張りの境界を見回っては、大理石より硬い角で幹を抉り、その領域を主張するのだ。
瞬間、トレクスのつま先から脳の頂点にかけて電流が走る。首元がじわじわと締め上げられる。コヨーテもまた、得体のしれない重圧に首を竦め、じりじりと
全身がロウで塗り固められたような感覚がした。指先一つの小さな動きで、身体のすべてがガラガラと崩れ落ちてしまいそうだった。
波うつ視界に込み上がる吐き気を必死に耐えながら、トレクスは目を凝らした。視界の先、一際大きく古いオークの木の向こうから、前方に湾曲した二本の角が姿を見せた。
同時に、相対する
跳ね起きたトレクスの背中は、ジットリと濡れている。隣ではアレンが静かに寝息を立てていた。夢だ。これはただの夢なんだ。
トレクスは荒い息を落ち着かせながら、バオバブの木に身体を
東の空がだんだんと白み始め、シルエットとなった草が微風に揺れていた。
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