第一章 萌し

草原

 よく晴れた夏の夜のことだった。

 天高く昇った満月が煌々と輝き、パトラスの村に臨む広大なレコン草原をくまなく照らしている。獣たちは互いに寄り添って地に伏し、冷たい風の中で新たな光を待っていた。村人たちもまた灯りをすっかり落とし、夜の帳のなかで静寂を共にしている――はずだった。


 突如として村から少しばかり離れた住居から火の手が上がった。


 漆喰で補強しているとはいえ、パトラスの住居は基本的に木製であったため、炎は建材を食いつくして瞬く間に大きくなった。

 赫々と草原を照らす炎の光に住民が気づいたのは、既に炎が建物全体を覆ってしまっていた後だった。家の前に詰めかけた人混みをかき分けて前に出た、長く黒いうねった髪を後ろで束ねた若い女は、その様子をただただ茫然と見つめていた。骨組みが崩壊して屋根から崩れ落ちる直前、一人の女が足を引きずって家の中から歩み出てきた――その腕の中に一人の幼子を抱えて。


 それを目にした女は、周りの呼び止めにもかかわらず、無言で幼子を抱えた女に駆け寄り、その体を抱きとめた。熱ですっかり乾ききり、煤で真っ黒になった皮膚は、およそ若い母親のそれとは全く思えず、思わず女はその手を話してしまいそうになった。

「ルチル……いったい何が」ルチルと呼ばれた女は、呼び掛ける声など聞こえていないかのように、腕の中の子を差し出した。燃え盛る炎から出てきた時には虚空を見つめていたその瞳は、目の前の女を力強く見つめていた。子どもは眠っているようだったが、或いは恐怖のあまり気を失っているのかもしれなかった。

「メリア、この子を……。この子をお願い」

 メリアと呼ばれた女が子どもを受け取ると、ルチルは静かに微笑んだ。間もなくして瞳から光が消え、ルチルはその場に崩れ落ちた。それと同時に村の医師が群衆をかき分けて現れ、ルチルの前に跪き、喉元と手首を触って確かめたが、喉がやられている、もうだめだと静かに言い放った。メリアは、手の中で眠る我が子となった幼子の額に口づけると、声もなく涙を流した。

 その時幼子は静かに目を見開いた。丸く、髪の毛も十分に伸びていない顔が崩れ落ちた家の方を向き、鳶色の瞳には炎が映り込んでいた。


 トレクスが目を覚ますと、すでに陽は高く登っていた。小さく空いた窓から日光が射し込み、寝室を薄明るく照らしている。部屋の隅には干草をまとめて薄い布で包んだ簡易なベッドがあり、そのすぐ隣には古いがきれいに磨かれた机が、そしてその机が面している壁には、カエデの板にアカシカの角を削って張り合わせたコンポジット・ボウが懸かっている。石造りの寝室は、十分な余裕まではなくとも、大人一人が寝泊まりするには不自由ない広さがあった。

 春が過ぎ、草原の青さに拍車がかかるこの季節は、朝から既に部屋が蒸暑い。

 十八になった体では少し窮屈なベッドから汗ばんだ身を起こすと、トレクスは大きく息を吐いた。


 また、この夢だ。


 彼はこの半年の間で、夢の中で燃え盛る家屋を見る機会が増えていた。だがその家屋がいったいいつの誰のものなのか、彼には皆目見当がつかなかった。

 ただ一つはっきりと覚えているのは、彼の目の前で勢いよく燃える炎である。視界の全面が炎、炎、炎。ゆらゆらと不規則に揺れるオレンジ色の光と、海のように押しては返す熱気の波の感覚だけが、彼の体を包んでいた。


 そしてその夢には、決まって彼の育ての母であるメリアが出てくるのだった。うねった長く黒い髪、碧色の大きな瞳、猛禽を思わせる尖った高い鼻、そして薄い身体は間違いなく彼女のものであった。そして炎の向こうに立ち、静かに彼を見つめていた。

 メリアの視線はたしかに彼を捉えているはずだった。だが、メリアは彼を見ていなかった。まるでトレクスはそこには存在せず、彼の背後にある空虚を見て居るような、そんな曖昧な視線だった。


 ならば彼女は、一体何を見つめていたのだろうか。

 朝日が自分の視界を明るくするたびに、トレクスは自問した。だがその答えが出るはずもなかった。

 一度、朝食の席でメリアに夢の話をしたことがある。するとメリアは驚いたように目を開け、それから何か小さく呟いた。トレクスにはそれが何かはっきりとは聞こえなかったが、メリアがどこか哀しげな雰囲気をしているのが、なぜか自分をひどく傷つけた気分だった。以来、その夢の話は誰にもしていない。


 トレクスはベッドから降りると、薄い布の肌着の上に亜麻布で作られた狩衣トーガを頭から被り、ゆったりとした袖に腕をとおした。この狩衣は、気候が温暖で初夏から夏にかけて湿度が高くなるエサロス島において、日の当たる蒸暑い草原では汗を吸い、逆に欝蒼として昼間でも肌寒い森の中では体温を保持してくれる優れものだ。

 革製のベルトを青銅の留め金で留めていると、外から聞き慣れた声がした。窓からその方を見下ろすと、同じく十八になったアレンが、淡いベージュの狩衣を着て手を大きく振っている。


「相変わらず耳がいいな、トレクス」アレンが叫ぶ。黒い髪を頭の後ろで束ね、ハーフアップにしていた。

「すぐに降りる」トレクスは外の親友に簡単に告げると、机の側に立てた矢筒を取って紐を腰で締め、壁に懸けたコンポジット・ボウを手に取り、階段を駆け下りた。階下ではメリアがいつもの姿で大麦のパンとヤギのチーズを静かに食べている。暖炉の薪は殆ど白くなり、小さな火だけが申し訳なさそうに残っていた。


 メリアは目だけでテーブルの端の、ブドウの葉包みを指した。トレクスはそれを取り、狩衣の懐に仕舞った。メリアはヤギの乳でパンを流し込むと、「いよいよね」と言った。トレクスは「そうだね」とだけ言った。次に続くメリアの言葉はすでに予想できていた。

「大丈夫だよ、必ず帰る。アレンは昔からいっしょに狩りをしてきたし、アレンのお兄さんのユリアスだって、去年まで王室旅団にいたんだから。それに、」

 それに、この成人の儀の狩りで死ぬような人間は、成人する前に死んでいる。言いかけてトレクスは口を噤んだ。四年前、密林で単蹄竜が倒木を飛び越した弾みで鞍綱の留め具がベルトから外れて鞍から落ち、後続の単蹄竜に肋骨を踏み抜かれたマルソを思い出したのだ。


 狩りで使用する単蹄竜の体重は六から八タラント(=三〇〇から四〇〇キログラム)にもなるため、その片足が踏み込むとき、小さな蹄によって踏まれたものには最大八・五ロング(=約八・五トン)のものが落とされるのと同じ計算になる。当然、マルソの心臓は爆裂し、彼はその場で絶命した。

 そして、彼の後ろを走っていたのはトレクスだった。


 マルソの父であるセダイは、息子の死にひどく落ち込んだ。彼を何より悲しませたのは、誰が悪い訳でもない、不慮の事故が最悪の結果をもたらしてしまったことだった。セダイはトレクスに自分を責めるなと言ったが、それがトレクスには辛かった。いっそ自分を責め立て、殴ってくれた方が楽だった。

 だが殴られてもマルソは戻ってこない上に、あの状況でマルソの助かる可能性は確かに無かったのだ。

 その晩、メリアは、トレクスを優しく抱きしめた。あれほど泣いたのは、マルソが死んだ夜が最初だった。

 以来彼は、装具の点検とメンテナンスを二つの理由から毎日欠かさず行なっている。第一に、あのような状況で素早く単蹄竜を操るため。実際、手綱を強く引いて銜に指示を伝えられていれば、マルソはぎりぎりで助かったかもしれない。だがあの時は手綱が伸びきっており、単蹄竜を十分に動かせなかった。第二に、自分が同じ轍を踏まないためである。


 だから今日も、かならず生きて帰る。成人の儀で行なう狩りは人生で最も過酷であり、故に新成人男子の四割近くが命を落とすと言われているが、必ず戻る。勿論、アレンと一緒に。

 メリアはトレクスが言わんとしていることを理解していたようだった。トレクスは何も言わずにメリアの額にキスをして、扉を開けた。刺すような日差しがレコン草原に反射して目がくらみ、思わずトレクスは目を閉じた。家のすぐそばでは、アレンが退屈そうに大きく体を伸ばしていた。

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