大陸英雄譚:再編
有明 榮
第一部 空の青、旅立ちの風
序章 空の青
雲一つない青空が、地平の彼方まで拡がっている。エサロス島の北部一帯に拡がるレコン草原に、草原を囲む円月山地から南風が吹きおろし、緑の波が北へ北へと押し寄せている。どこまでも平らに拡がる草原は、草原というよりむしろ海のようですらある。
その波の行く先、一本の古いクスノキの枝に、少年トレクスは弓を担いで座っていた。今年十二歳になるが、年頃の少年にしては華奢な体つきで、肩まで伸びた柔らかな焦げ茶色の髪を風になびかせる姿は、どこか少女のような雰囲気すらあった。
静かに歌う草原を目の前にして、トレクスはずいぶんと長いこと大樹の上にいた。晴れた日によくこの樹の上に登っては、はるか遠くを走るアカシカの群れを眺めたのである。
少年はこの雄大な空間がとても好きだった。眼下を満たす草原と、頭上を覆う空はどこまでも絶えることがない。彼は生来大人しい性格をしていたが、それでも感情はある。時には周りの人間と衝突し、たまらなくどうしようもない怒りや嫌悪に苛まれることがあった。そんな時、決まってトレクスはこの木の枝に登った。そうして首元をすり抜ける冷たい風を身に受けていると、いくらかは気分が和らいだ。この古木と、草原と、空は、彼にとっては母のようでさえあった。
不意にざぁっと一際強い風が吹いて、トレクスは目を細めた。青々とした草と、醒めるような空と、生き物の匂い。狩りの季節が来たのだ。彼は、この匂いを嗅ぐのが好きだった。トレクスは胸いっぱいに初夏の空気を吸い、枝からふわりと身を翻すと、クスノキが立つ丘を駆け下り、家々が立ち並ぶパトラスの村の方へと走った。
ひゅーい、と甲高い鳴き声がして空を見上げると、トビが南風に乗って空高く旋回している。トビはしばらく空に留まっていたが、やがて丘の向こうへと羽ばたいて見えなくなった。
背後から名前を呼ぶ声がして、トレクスは振り返った。彼と同じくらいの年齢の少年が、手を振りながら駆けよって来るのが見え、トレクスも小さく手を振り返した。
「こんなところにいたのか」
「いつものことだよ、アレン」とトレクスは肩を竦めた。アレンと呼ばれた少年はトレクスを見上げ、片目を細めてみせた。アレンがくるりと振り返り、トレクスがそれに続くかたちで二人は丘を下った。
「行こうぜ、今日は負けないからな。アカシカのでかいやつを一撃で仕留めてやるのさ」
「分かってるとは思うけど、出産前と子育て中の牝鹿は狩猟厳禁だよ。おれたちが鹿になっちゃうから」
「もちろんだって。きちんと狩りの神にお祈りして、牡鹿と正々堂々一騎打ちをやるのさ」と、アレンはぐっと右手の拳を前に突き出した。
「じゃあいいけど」
二人は集落の外れにある簡素な石の祠の前に立った。平らに割られた石が三つ積み上げられ、その上に載った風雨で角の削れた四角い石柱は、赤土で渦巻と鏃の文様が描いてある。祠の手前にはトレクスの胸元ほどの長さに切られた竹が二本、門のように突き刺してあり、その門にはトビの頭蓋骨を結びつけた麻縄が渡してあった。二人は担いでいた弓と矢筒を体の前で横に置き、静かに跪いた。頭蓋骨が風に吹かれて触れ合い、カラカラと音を立てた。
トレクスはその音を聞くと、途端に世界から音が消え、体が空虚になっていくような気がした。やがて、世界のあらゆる映像が、感覚が、己の空虚を満たしていく。
草原の熱気を吸って顔を撫でる生温い湿った風、汗ばんだ体に吸いついて自分と一体になる木綿の狩衣、真上から照りつける日光の熱、地を揺らすアカシカの群れの蹄、空を舞うトビの鳴き声、どこまでも広がる青空と草原、その中に跪く自分という孤独な一個――
トレクスは幾度となくこの祈りを捧げてきたが、その時に自分を満たす不思議な感覚にはいつも慣れなかった。叔父はこの不思議な感覚を「神が自分に応えてくれている」とか「狩人の生命の波」とか言っていたが、むしろトレクスは自分が消えて行くような、風になるような感じがして恐ろしくなる場合さえあった。
瞼を開け、二人は鏃で指先を切り、その血を平石で拭った。日に焼けた石は熱く、傷はすぐに乾いた。そして弓と矢筒を担ぎ直すと、祠に背を向けて歩きだした。
「
「マルソんとこのセダイおじさんが二頭貸してくれるってさ。しかも速いやつらを」
アレンは笑ったが、その顔は後ろから見ても分かるくらいには引きつっていた。それを見たトレクスは、何かを察した顔でにやりと笑った。堂々としてこそいるが、アレンは速い単蹄竜に跨るのを苦手としているということを知っていたのである。
「セダイおじさんも良い性格してるよ、ほんと」
単蹄竜という生き物は長きにわたり、エサロス島の人々の暮らしとともにあった。雄竜は成長すると、横一直線に伸びたからだの長さは頭から尾の先まで大人二人分ほど、背中は大人の肩くらいほどの高さになる。
強い日差しを好み、その肌を灼いて強固にするという生態があり、真夏の皮は鉄の鏃を跳ね返すとまで言われるほどの硬さを誇り、靴や鎧に用いられた。初夏の単蹄竜は特に、冬の間に柔らかくなった肌を新しくするために日の下に出る習性があった。同時に、初夏は体を守る為に筋肉が太く、気性が激しく攻撃的になる時期でもある。
人々は単蹄竜のこうした生態を利用して、古来迅速な狩りを行なってきた。エサロス島の男子にとって初夏の単蹄竜を乗りこなすことは、大人になることの必要条件とされていた。
セダイはすでに単蹄竜たちを竜房から出し、
「トレクスにアレン、待っていたぞ」と、手綱を二本器用に操りながらセダイが言った。
「あまりに遅いんで、こいつらもちょっと気が立ってんだ。今日の狩りは一際難しいぞお」
「そう言われても……祈りの儀式はしなきゃいけない決まりだし」
トレクスは言いながら、
「相変わらず冗談を真面目に返すやっちゃなあ、トレクスは……ほれ、アレンもさっさと乗った乗った」
「も、もちろん」と言いつつなかなか鐙に左足をかけたまま登らないので、セダイは面白いものを見つけた顔をして、入れ墨の入った太い腕でアレンをひょいと持ち上げた。うわあ、とアレンが思わず叫んだので、濃い髭を震わせてセダイが笑った。
「なあに、ちゃんと手綱持ってベルトに鞍綱かけてりゃ落ちやせんて」
「わ、わかってるけどさ……」と、アレンは威勢を張ってはいるものの、今にも泣き出しそうな勢いだった。
「まあまあセダイおじさん、あまりいじめないでやっておくれよ。そうでなくてもアレンはこの時期の単蹄竜が苦手なんだから」
トレクスは見向きもせず、革製の指ぬき手袋を着けながら言った。セダイはがっはっはと野太い声で笑い、アレンは鞍綱の金具をベルトに掛けるので必死な様子である。
「わかっとるわい。さ、行った行った。陽が落ちる前には戻るんだぞ」
「はい、行ってきます」トレクスが踵で軽く腹を蹴ると、単蹄竜は高く嘶いて強く大地を蹴った。日差しを背に受けて走り出し、背後でもう一頭の嘶きと、アレンの相変わらず情けない声が、トレクスの耳に微かに聞こえた。
五分ほど走って、草原の海の沖に出る頃には、アレンもようやくトレクスに追い付いてきた。
〈おれは東側の群れを狙う〉とアレンが手で合図を送った。
〈じゃあ、おれは西側に行く。狙うのはお互い一頭だな〉
〈ああ。帰りに持って帰ってきた獲物が大きい方が勝ちだ。狩りの神の加護がありますように〉
〈そちらこそ、狩りの神の加護がありますように〉
互いに短く手を振り、二人は東西に進路を分けた。いよいよ単騎になると、身の回りのすべてが、背の低い草に覆われた。樹木も、花も、生き物の気配さえ消えてゆき、トレクスは世界に自分が存在するのか、しないのかすらも疑わしくなってきた。祈りの孤独感もそうだが、狩りの孤独感もまた、いつになっても慣れないものだった。
前から吹き付ける風が、体に当たり、通り過ぎていく。寝そべるように跨った単蹄竜の背の上で、やはりおれは風だ、草原を吹き抜ける風なのだと感じる。体が透明になるように感じ、心が静かに冷えていき、一方で同時に高鳴っていく。腰の矢筒から短い矢を一本すらりと引き抜くと、左手に持った弓に番えた。
アカシカの群れの横を回り込むようにして隙を窺い、一頭の牡鹿に狙いを定めた。静かに息を吸い込んだ瞬間、トレクスと単蹄竜の影が揺らぎ、間もなくしてその姿は草原を駆けるアカシカへと変容する――
〈
アカシカの姿を借りたまま、トレクスは身を起こして肩を開き、背中をいっぱいに寄せて、弓を静かに引き絞る。矢が十分に届く地点まで群れとの距離を詰めて、トレクスはアカシカの姿を解放した。突然放たれる狩人の殺気に鹿の群れは混乱し、一目散に背を向けて走り始める。しかしそれが、トレクスにとって絶好のタイミングだった。体の大きさゆえに身動きが鈍った一瞬を狙い、牡鹿めがけて矢を放つ。カラリという弦音、直後に風を切って矢は緩やかな弧を描き、獲物の首を貫いた。
「やった!」とトレクスは小さく声を上げ、右手をぐっと握った。草の波をかき分けて、弾む息を整えながらゆっくりと獲物に近づいて見下ろすと、斃した牡鹿の胴の長さは、明らかに自分より大きく、一人と半分くらいはあるように思われた。
ひゅーい、という甲高い音がしたので空を見上げると、トビが空高く、ゆったりと旋回していた。無限に広がる青い空にぽつりと浮かぶトビが、無限に拡がる草の海でぽつりと佇む自分の姿に重なり、ああやっぱりおれはここに居るんだ、とトレクスは強く思った。空の青さが変わらないように、このままエサロス島に生きる狩人として変わらず強く生きてゆくのだ――そう思って、遥か遠い円月山地をぼんやりと眺めていた。
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