5

 秋の澄んだ空気と綿雲の空。背中に残るかすかな夏の気配と、汗の感触。校舎から出た僕は、一瞬目線を空に流して、ゆっくり歩き出す。下校中の生徒がそこら中で溜まって、唇を動かして笑い合う。直後、自分の後ろにうるさい気配を感じた。

 一瞬の間に後ろからマスクを外される。伸びた腕はそのまま僕の肩に載せられた。

 今日もテンションの変わらない明良がいた。赤い唇は笑いを隠すつもりがなく、僕が鬱陶しがってるのも分からないようだ。とりあえず、暑苦しい明良の腕を容赦なく振りほどく。そして、

 「ちょ、マジで返して」

 明良がニヤニヤ笑いながらマスクを持っている。僕が取り返そうとした腕から明良がマスクを遠ざける。何度も同じことを繰り返して、なかなか取り返せない状況がしばらく続いた。

「あのさ、弟のこととか関係あんの」

 どさくさに紛れた適当な口調で、明良がけっこう大事なことを呟いたので、僕はマスクを追う手を止めた。

「なんか小学生の時さ、肺炎、だっけ。大変だったよな、なんか」

明良が急に真面目な顔をする。

「うん。でもマスクに関してはあんまり関係ない」

「え、なんで」

ちょっと邪魔んなってる、と言って、明良と昇降口の隅に移動する。

「うーん、説明するのは難しいんだけど、弟のこと気い遣ってた頃の癖?みたいなのが抜けなくてさ」

「ふーん」

大して大事でもなさそうな返事をされたが、必死に言葉を繋げる。

「だからマスク返してくんない?それしてないと不安なんだけど」

自分でも、口調が固くなっていくのが分かった。

「なんかよく分かんねえ理由だな」

納得していない様子で、明良の手に握られたマスクが返される。僕はそれを素早くとって付けて、鼻のワイヤーを押さえる。

その仕草をみて、明の細い目がさらに細くなっていく。赤い唇からは笑みが消える。すっと描かれた細い赤がまた、開いた。

「ビョーキなんじゃねえの」

ビョーキ。病気。言葉の響きの重さに圧倒されつつ、何かがはまった気持ちがした。今、ずっと持っていた違和感が言語化された気がする。

 それでも、明良の目の奥の冷たい光が、僕をしばらく硬直させていた。病気。ビョーキ。何度も脳内で反芻される言葉を、見透かしているような明良の顔。自分ではさりげなく視線を落としたつもりだったが、気まずくて俯いたのはバレバレだった。

「ごめん。言い過ぎた?」

「いや、ありがと。今分かった。僕ビョーキだわ」

怪訝な顔をした明の唇が、微妙に締まる。また何かを言いかけたのか息を吸った明良を制するように、ぴったりはまった言葉を放つ。

「これさ、たぶん心の後遺症だよね」

コロナに罹ったことはないから、後遺症の経験もない。けれど、罹っていたとき軽症だったとしても味覚や嗅覚の異常、倦怠感などが長引くことがあるそうだ。

 ぶつけたときはあまり痛くなかったのに、なかなか消えてくれない体の傷があるように、心にも後遺症があるのだ。マスクを外すと、かさぶたのできていない傷がチクチクと痛みだす。弟のことでずっと気を遣わなければいけなかったこと、コロナの間何があってもマスクを外さないように注意していたこと。

 明良に説明すると、わかったようなわかっていないような顔をされ、謝られた。なんかごめん。そういうのよくわかんなくてさ。無神経なこと言ってたらごめん。

 「いいよ。明良のおかげで気付けたし。後遺症治るまで頑張るわ」

 よかった、と、明良は目と唇の線を細くした。今度はきれいに笑っていた。

 雨も好きだけど、あんまり複雑じゃない秋の天気も、心地よかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

元通りの世界 雨乃よるる @yrrurainy

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る