人生とは、戦いである――私がフェバルを書く理由――
前回ラストから、話を続けていきたい。
私は『人生とは、戦いである』と考えている。
戦いと言ったのは、人を蹴落とすだとか出し抜くだとか、決してそういうことを言いたいのではない。
人には、それぞれに与えられた運命がある。
環境があり、状況があり、能力があり、人格があり、そして魂がある。
神ならざる人だから。すべてにおいて限界がある。できることにも限りがある。
時間は有限で、常に何かを選ばなくてはならない。
選んだことは最善であるとも限らない。むしろ最善であることの方がずっと少ない。
とりわけ他者が関わるとき、誰にとっても善いことは極めて難しく、現実には解がないことばかりだろう。
何かを選ぶということは、何かを選ばないということ。一つの未来を掴むとき、その他は犠牲となる。
あのときああしておけば。あのとき違った道を進んでいれば。
どうなっていただろう。何が変わっていただろう。
人生とは、そんなことの連続なのかもしれない。
それでも、そうした限界の中で何ができるのかを考えて、歩み続けること。挑み続けること。
せっかくこの世に生まれついたからには、生きることの意味や価値を探し求めて、追い続けて、戦い続けなくてはならないと。そう考えているのだ。
人が戦うことを止めたとき、歩もうとする意志を失ったとき。
生きながらにして死に、腐っていく。
おそらくは、それを絶望と呼ぶのだ。
ここで、私が人生のメインテーマ作品として位置付けている、『フェバル』シリーズを紹介したい。
参考までに、シリーズの中核をなす通称『本編』を貼っておく。以下の話を読んで、興味が湧いたらぜひ読んでみて欲しい。
フェバル〜TS能力者ユウの異世界放浪記〜
https://kakuyomu.jp/works/4852201425154882174
さて、シリーズそのものを指す言葉でもあるフェバルとは、簡単に言えば、決して自然な寿命や病気、単なる負傷では死ぬことのできない超人たちである。
彼らは覚醒したその瞬間から、年老いるということがない。身体に致命的なダメージを負って一時的に死亡したとしても、死せる場所と異なる世界で何事もなく蘇ってしまう。
それほど強力な加護であり、呪いを付与されているのだ。
彼らが死ぬのは、絶望と精神的摩耗の限界によって、人の心のほとんどが完全に死んだとき。基本的にはそのときに限る。
だがそれも真の死ではない。半永遠の暗闇の中に囚われ、宇宙の終わりまでただ悪夢を見続けるだけの存在となるのだ。
まさに地獄と言えよう。
彼らは凄まじいチート能力を得る代わり、一つの世界に留まることを許されず、故郷を離れて幾多の星を巡っていく宿命を背負う。
ここまで説明した上で、実はフェバルとは略語である。
Fated by L〇〇〇(FabL)
なにものかによって【運命】付けられた者たち、という意味だ。
あえて【運命】と鍵括弧を付けたのは、これが通常の意味での天命というべき――神の見えざる計らいによって、知らずと、気付けばそうなっていたというような――すべてを包含する意味での運命でないことを示している。
【運命】とは、極めて強力無比な、作品世界最強の概念系能力である。
言わば作品世界の神様的存在によって、意図的に付与された、『絶望的であることが確定した』恐るべき運命を指す。
英語で言えば、Doom(破滅的な運命)と呼ぶ方が相応しいものかもしれない。
ゆえにフェバルには、真の幸せも安寧もない。
待ち受けているのは、ただ残酷で過酷な行く末と、それによる深い絶望だけである。
絶望した彼らは、その一部は、刹那的で破滅的な振る舞いをするようになる。攻撃性が他者へと向かう。
ここで、彼らに付与された圧倒的なパワーが問題となる。
その規模は、小説家になろうにおけるいわゆるチート作品で描写されるような、魔力チートだとかスキルチートだとかの、おそらくは平均を凌ぐ。
彼らは単独で、世界そのものを破壊する。
それこそ一つの星など、徹底的に破壊してしまえるような。能力の使い方次第では、人類など一人残らず滅ぼしてしまえるような。
そんな天災的な力を、フェバル一人一人が持っている。
生ける災厄、歩く滅亡。そんなものが、作品世界の宇宙にはごろごろしているのだ。
何の咎もない星々の民が、突然、理不尽かつ圧倒的な暴力に晒されることとなる。
まさに巨大台風や大地震が人をなすすべなく呑み込むかのごとく。人は容易く蹂躙される。
こうして、絶望したフェバルや、その他超越者たちが、世界に理不尽と暴力を振りまく。
絶望は、再生産される。
誰もが絶望とは無縁でいられない。運命を恐れ、力を恐れ、知らずとも破滅的な脅威には常に晒されている。
現実にも絶望というものは存在するが、それがより明確に可視化された世界。人の形をして襲いかかってくる修羅の世界。
これが、『フェバル』シリーズの基本的な世界観である。
そういうことで、作中チートはたびたび出てくるのであるが、いわゆる小説家になろうのチートものとは、役割がまったく違う。
主人公が無双するためにあるものではない。物語がだいぶ進んでくれば、絶望的脅威への反撃という意味で、確かにそうなっていく面もあるにはあるのだが。
むしろ逆。主に敵側が力を誇るものとして、明確な脅威として描かれる点が、普通の異世界転移ものとは異なる点と言える。
……初見読者には中々理解されないが、そういうものを書いている。
背景設定上は小難しいことを描いてはいるが、一応普通の物語として楽しめるようには書いているつもりだ。
さて。ここまで長々と説明してきてやっと、フェバル本編の主人公の話ができる。
作品世界の根幹をなす【運命】という能力。神様的存在。
だがこれも真の神ではないゆえに、全知全能ではない。完璧な存在ではない。
ゆえに【運命】には必ず、ごくわずかながら綻びがある。
たとえどんなに絶望的に見えたとしても、必死に足掻くことでほんの少しでも変わる可能性が、もしかしたらあるかもしれない。
暗く広い宇宙の中で、たった一本の光の糸を掴むような、そんな細い細い希望ではあるが。
フェバル本編の主人公である星海 ユウとは、その光の糸だ。
【運命】にとっての異常存在である。作品中の用語で、『異常生命体』という。
ユウはフェバルにして、異常生命体である。圧倒的なポテンシャルと【運命】を覆す可能性を秘めた、ほとんど唯一の存在。
作品世界におけるバグ、特異点と言っても良いだろう。
フェバル本編の物語は、16歳になった男子高校生のユウが、突然フェバルとして覚醒することから始まる。
一見、好きなときに男の子にも女の子にもなれてしまうというそれだけの、不思議な能力を得たユウ。
彼(彼女)(と、どちらにもなれるのでそう書くが)は、生まれ故郷である地球を直ちに追われ、果てしない異世界の旅へと向かうこととなる。
ここで、男の子にも女の子にもなれるということからわかるように、フェバル本編はいわゆるTS(TransSexual、性転換)作品である。
ただし、通常のTS作品と違うところは、TSそのものはあくまで重要な味付けであり、主題ではないということである。上述した重苦しい世界観こそが何より重大であることから、そこはわかって頂けると思う。
物語の序盤、1章において、TSとは自己同一性(アイデンティティ)の危機として描かれる。
突然降りかかった理不尽な運命と、か弱い女の子にまでなってしまったという事実が、ユウを散々に打ちのめす。
物語序盤のユウは、未だ自分が何者であるかを知らない。
己に降りかかった過酷な運命も、フェバルとはどういうものであるかも、そして自分自身のことでさえよくわからない。
それでも人との関わりと通じ、温かい仲間に支えられて、彼(彼女)は次第に自分を肯定できるようになっていく。
そこへ容赦なく世界の危機がやってくる。ユウは仲間たちと力を合わせて戦う。その中で己が何者であるかを知っていく、というのが1章の筋書きだ。
ユウが己を知り、受け入れた2章以降、TSはその役割をがらりと変える。
男の子でも女の子「でもある」自分を肯定し、二つの身体を持つことで、人との関わり方にも幅が広がっていく。そんな描かれ方をされる。
TS自体をシリアスなテーマではなく、新しい自分のあり方として自然に、肯定的に描くこと。
そんなTSも、一つくらいはあってもいい。
そんな物語を読んでみたいと思って、探しても全然ないから、私があえてそういうものを書いてみた、ということである。
ここにいたっては、女の子「でもある」ということは、新たな人間的な魅力、可愛さを付加するものであるという、ユウという人間の一つの個性、側面でしかない。
……はっきり言って、フェチだから描くことにした、ということも認めよう。作者は性癖に正直である!
そんな具合であるが、作品上はTS自体も象徴的な意味を持っている。
実は物語冒頭に、神は両性具有であるという記述をあえて入れている。
ユウの能力名は、【神の器】である。
男女変身できるだけのものとしては大層なものだが、実は能力の真価に触れたとき、まったく大袈裟ではないことが後々明らかになってくる。
まずユウ自身は、両性具有ではない。一度にとれる姿は必ずどちらかであって、同時に男の子であり女の子であることはできない。
しかしながら、疑似的な両性具有ではある。神ではないがそれに近しいもの、偽神というモチーフである。
改めて言おう。ユウとは、【運命】にとっての異常存在である。
彼(彼女)は、絶望に満ちた作品世界の救世主となる。
彼(彼女)は、人の神である。
現実の神話においても、元はただの人間だったものが、神から様々な試練を与えられて乗り越えていくことで、最終的に神格へと上昇(アセンション)するという類の物語がある。
フェバル本編とは、私なりの一つの神話なのだ。
元はただの脆弱な人間であったユウ。
彼(彼女)は幼いときから、とにかく甘えん坊で、寂しがりで泣き虫だった。アリも潰さないとのたまうような、心優しい子であった。
心優しくて、負けず嫌いなだけが取り柄の、本当に普通の子だったのだ。
だが【運命】は残酷である。【運命】は、異常存在に対しては決して容赦をしない。
フェバルを始めとした超越者たちは、とことん彼(彼女)を打ちのめす。
理不尽な世界の危機が、次々と彼(彼女)を襲う。
なぜなら【運命】の下に、彼(彼女)は必ずそうなるように定められているからだ。
誰とも絆を結べない。関わった者すべてが破滅すると。そのように定められていたからだ。
心優しくも弱い人間だったユウは、世界を守るために、仲間を守るために。
守りたいすべてのものを守るために、とにかく立ち向かい、強くなり続けるしかなかった。
絶望の【運命】と戦うことが、生まれたときから宿命付けられていた。
世界の危機に挑み続けることで、彼(彼女)は次第に秘められた能力の真価を解放していく。
単に男女変身できるというわけではない。フェバルとして、異常生命体として、【運命】にも恐れられた、真の力に目覚めていく。
彼(彼女)は決して絶望しない。どんなにつらいことがあっても、どんなに苦しくても、泣いても。戦い続ける。
元は人の身でありながら、常に人の側に立ちながら、そのままで人を超越していく。
やがては、人から生まれた神となる。その領域へと足を踏み入れる。
だがそこでめでたしめでたしではない。
それでもなお、不完全な存在であることには変わらないのだ。
だから、時に救いの手は届かない。時に力及ばない。
ひどいときには、自ら何かを守るため、あえて何かを犠牲にしなければならないことがある。
たくさんの誰かを、自ら手を下さなければならないときもある。
世界は本当に残酷で。
それでもできることがあるなら。何か一つでもあるなら。
ほんの小さな欠片でも、やらないよりは誰かを救えるかもしれない。ほんのわずかでも、絶望の【運命】を変えられるかもしれない。
諦めないことが。彼(彼女)の優しさが。
その戦いが、懸命な姿勢が、人々を勇気付ける。
ユウだけではない。立ち上がった彼らがまた、少しずつ【運命】を変えていく。
そうなのだ。
フェバルとは、絶望の物語であり、また救いの物語なのだ。
あの世界にはユウがいる。心優しい救世主がいる。
彼(彼女)自身と、彼(彼女)に感化された諦めない人間たちの物語であり、まあ言ってしまえば、人間賛歌の物語なのだ。
と、ここまでが作品紹介であるが。
冒頭のテーマに立ち返ろう。
世界は優しくないから。時に理不尽な暴力が容易く人の尊厳と命を奪う。
どんなに心持ちは立派に願っても、そんなもの踏みつぶされるように終わりは来る。
現実にも、疫病がある。自然災害がある。戦争がある。
昨今の世界情勢を思えば、ますます胸が痛い。
そして、そんな大袈裟なことを言わなくても、もっと身近なところにも残酷な事実はある。
努力したところで報われないことなんてしょっちゅうだ。生まれつきの病気や貧困は、そもそもがどうにもならない。
現実に救いのないことは、本当に数え切れないほどある。
ではそうやって、世界は残酷だからと。
どうにもならないと諦めることや、何もかも投げ捨てて開き直ることが、果たして正解なのだろうか。
心ならずも死んでしまった者たちの、どんなに足掻いても報われなかった者たちの、すべてが無駄なのか。
結果がすべてなのだろうか。
そうじゃないだろう!
私は強く思いたいのだ。信じたいのだ。
ただの死は負けではない。結果の出ないことも負けではない。
確かに現実的に選ばなければならないことはあり、誰にとっての最善というものもない。
やはりどうにもならないことはある。それはもうたくさんある。
だが私は、それでも言いたい。
心折れたときが負けなのだと。絶望してしまったときが負けなのだと。
そうでなければ、生き続ける限りは戦うことができる。それで何かが変わることもあるかもしれないのだ。
結果ではない。戦い続けることそのものが、何より大切なのだ。
物語の中だけの話ではない。
現実だってきっと、そうなのだ。
だからこそユウは――『フェバル』の主人公は、単なる人の生き死にではなく、人の尊厳に、心に寄り添う。
救える者たちに向かって、どんなに傷付きながらでも、一生懸命手を差し伸べる。
それでもなお力及ばず、救われない者たちの心を想って涙する。
結果じゃないんだ。その心こそが、何より尊いのだ。
【運命】に負けないための唯一の手段は、決して絶望しないことだ。
心折れずに、死を迎えるその瞬間まで、戦い続けることだ。
そうすればそれは、その生き方は、たとえ客観的には報われなかったとしても、胸を張って死んでいけるんだ。
もし現実の誰が見てくれなくたって、きっとユウ(誰かにとってのユウ)は見てくれるから。
こんなことを、こんなバカみたいなことを、クソ真面目に、フェバルはずっと描いている。
それはもう重いんだよ。めっちゃ重いんだ。
ユウは本当に可愛くて、優しい子で、真面目で。でも【運命】は、とにかく残酷だから。
いつもぼろぼろになるんだ。ぼろぼろに泣くんだ。時には自らひどいこともしなくちゃいけない。
それでもあの子は諦めない。絶対に諦めない。人の可能性と良心を信じているから。
ああ。あいつはすごいよ。本当にすごいんだ。
……こんなものが誰に取っても読みやすい作品であると、私は胸を張って言えない。堂々と人に勧めることはできない。
それでも私にとって、人生にとって、きっと大切なことを描いているつもりだ。
刺さる人はきっといると思う。勇気付けられる人もいると思う。
だからもし良ければ、一度手に取って読んでみて欲しい。
最後に。
宗教観というか。一神教では「神は見て下さっている」という考え方は普通のことだ。
私は神をあまり信じていないが、ユウのことは信じている。ユウは見てくれていると思っている。
前回、私はかつていじめられていたと書いた。鬱だったとも書いた。
学校の昼休みとか、つらいとき、私はよく妄想の世界に逃げ込んでいた。しょっちゅう夢を見た。
いつも励ましてくれたのは、側で戦ってくれたのは、彼(彼女)だったのだ。
だから今度は、恩返しをしようと。この物語を世に届けたいと。
そして、誰かにとってのユウになってくれないかと。願っている。
それが、それこそが、『フェバル』を始めた理由だ。
作品の中では、いっぱい試練を与えているけれど。
私は一部の作品ファンにラスボスとか【運命】だとか言われているけど(ひどい言いようだな)、そうすることでより彼(彼女)が光り輝くと信じている。
可愛い子には旅をさせよ。千尋の谷へ突き落とせというからね。
すべて、深過ぎる愛ゆえなんだ。ごめんね。
負けるなユウ。頑張れユウ!
愛する子にエールを送って、本稿を締めたいと思う。
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