レストはかく語る
レスト
始めた理由――私はなぜ思考を言葉にするのかということ――
早速だが、当エッセイを始めた理由から語っていきたい。
私は日頃から、しょっちゅうものを考えて生きている。
これは私に限らず、人間なら誰しもそうだと思う。
だが私の場合は、たぶん他人よりその比重が相当高いのではと感じている。
このことは、私個人としての性質に由来というか、問題がある。
リアルの人間関係が極めて希薄であること。家に引きこもるのが常な、根っからのインドア派であること。
インターネット大好き人間で、ネットに生きるべき場所を見出していること。
己の資質として、内省が強いこと。
大体どんな自己診断でも最も強く現れる部分の一つなので、折り紙付きだ。
これらがすべて相まって、私はとにかく思考を書き出したい、吐き出したい、文章化したい――それもネット上にぶちまけたいという衝動に駆られる。
おそらく。そこにしか居場所がないこと、そうすることでしか世の中と繋がれないという不安が。
さらには、世に己の存在を知らしめたいという一抹の自己顕示欲と、何かしら爪痕を残したいという、切なる願みにしてほのかな野望が。
きっとそうさせるのだ。
小説を書いていることも、そうした私の側面の一つの顕れと考えている。
物語というものを通じて、私は私自身の世界を思い描く。それを通じて人や世界と関わり、もっと大きなことを言えば――生きることそのもの、人生のテーマを世にぶつけているのかもしれない。
ここで、大前提を申し上げておこう。
はっきり言って、私はできた人間ではない。むしろひどい人間かもしれない。
幼少期からいじめられ、社会でも上手く馴染めず、リアルには友達もない。常に孤独を抱えたまま生きている。
この一点、客観的事実からでも、褒められた人間ではないことは明らかだ。
とにかく生きるのが下手な人間であり、日々よく生きることに思い悩み、一時は鬱を患って毎日死ぬことばかり考えていた。
知る限り、おそらくは知らぬところでも、たくさんの人を傷付け、傷付けられてきた。
私は基本的に世の中というものを、社会というものを信じることができない。
人の絆と優しさを心から望みながら、輝かしいものとして描きながら、信じることができない。私には掴むことができないものと、諦めている。
私はどこまでも孤独であり。独りきりで社会と、人生と戦い続けるしかないと。密かに決意しているのだ。
なのに、そこまでの盛大な、人が聞けばアホみたいな決意をしているはずなのに。
どうしても強くはあれない。孤高で超然たる生き方を貫けない。
時に寂しさに苛まれ、自分の醜さを恨み、どうしてもっと上手くやれないのかと、つい責めてしまう。
だからと言って周りに協調し、自分を押し殺すことも、堂々と光の道を歩むこともできないのだ。
そのための能力が足りないというのもあるが、それ以上に心が苦しくなってしまうから。
己を殺すことが、真に自分を殺すことと同義のものとして、深く突き刺さってしまう人間であるからだ。
鬱の原因は確かにそれだった。周りと上手くやろうと必死になって、自分を変えようとして、すべて空回りして、余計傷付いてしまったのだ。
結局のところ、私は中途半端に自分を許し、認めてやることで妥協した。
社会的にも反社会的にもなり切れず。世の中への復讐者、人殺しにまではならなかったことをまだ良しとして。燻ったままで己の人生を生きている。
そんな不器用で、どこかひねくれた、尖った考えも多分に持っていることを告白しておこう。
いや、ある意味では正直過ぎて、真っ直ぐ過ぎるのかもしれないけれど。
だから時に気持ち悪いこと、おぞましいことを書いてしまうかもしれないが。無意識な高慢と独善が感じられることがあるかもしれないが。
そこはあくまで一個人の思考ということで、表現の自由を盾にどうかお許し頂きたい。
話を戻そう。
問題は、上記のような個人的感情、思考を吐き出すことそのものではない。
なぜなら、醜い部分は誰しも持っているし、言葉にして吐き出すなんてことは今の世の中、大抵誰でもやっている。
とにかく、その量が問題なのだ。
私は平均すると、あまりにも長時間、考えるという行為に、書き殴るという行為に没頭してしまう。
現実の活動がそれによって疎かになることも否定はできまい。
これほどの熱量をすべて小説に注ぎ込めたとしたら、私は今の倍か三倍は文章を書けているに違いない。
私はSNSとして、主にツイッターを使っている。
ラインとかフェイスブックとかディスコードとかをやっていないわけではないが、ほとんど使っていない。
ツイッターを使っていない人向けに説明すると、1ツイート(呟き。1投稿単位)あたり、140字制限というものがある。
140文字に限られた世界は、私にとってあまりにも狭く短い。
他の人が一行とか二行とか、下手するとリツイートだけで自ら言葉を発することがない中で。
私は大半のツイートが、文字数制限いっぱいの長文となってしまう。
しかもそれでも足りない。結果どうなるか。
連ツイ(連続ツイート)である。
恐るべきことに、私は一日当たり平均数十件のツイートをしている。ひたすら思考の海に溺れている。
これほどの量、単なるツイート行為だけで二、三時間かかることはザラである。
それがほとんど毎日、ずっとだ。人はこれを、ツイ廃という。
残念なことに、ツイートというものは時間とともに情報の海の彼方へ流れてしまい、繋ぎ止めることができない。
はじめからまとめていたのでもなければ、一応検索をかけることはできるけれども、後から振り返ることも難しい。
凄まじいまでの情熱と時間を傾けているのに、すべては無為に流れ去ってしまう。あまりにももったいなくはないか。
私はエッセイというものを、これまでろくに書いて来なかった。
そこに力を入れる分があるなら、小説を書くという行為にこそ集中すべきという信念があったからだ。
だが現実、私は小説を書くという行為以上に、自分の思考を文章化するという行為を、密度高く続けてきてしまっている。
携帯電話というものを、後のスマホを持ってから、実に10年以上。
そうすることがもはや、人生にとってかけがえのない一部になってしまっているのだ。
ネットのどこかに書き付けなければ。私はこの世の片隅にあって、確かに生きているのだという、その自信が持てないのだ。
だから、そろそろ認めなくてはいけない。
考えることが、書くことが。私が生きるということなのだと。
私はこれから、様々なこと――創作のこと、人生のこと、日々のこと、何かのニュースを見て感じたことなど――思うままに書き連ねていこうと思う。
正直に言ってしまおう。
このエッセイは、読者に向けて書かれたものではない。
なのに秘密の日記としないのは、前述した一抹の自己顕示欲等々ゆえである。
極めて個人的な、内向きの理由のためであるにも関わらず。
私はこのエッセイを通じて、またささやかに世と関わり、世に問いたいという、外向きの、明らかに矛盾した想いを抱えているのだ。
しかし、独りよがりに過ぎないこととわかっているから。
あえて自ら評価は求めない。たとえ0ptであっても、私は一向に構わないと考えている。
もちろん、感想を書くことは自由だ。評価を付けることも自由だ。
温かい励ましの声など頂けると、とても嬉しい。そこまで人間がひねくれてはいない。
私はそこ(感想欄)では、少しだけ外向けの顔をして、より穏やかに言葉を交わすことだろう。
だがあくまでこの私を支配するものは、この身を焦がすものは、どうしようもない衝動である。
文筆をもって、己が生きた証を示し。
世間に爪痕を残したいという、みっともなく、惨めかもしれないが、しかし己の中では崇高な使命ゆえなのだ。
人生とは、戦いなのだから。
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