第7話

 私の前に、血みどろの恋人が再び現れ、私に囁く。

「こんな世界で生きている必要なんて、もうないでしょ?」

 恋人は、積極的に私を死へといざなってくるようになった。

「こっちにおいでよ、こっちはいいところだよ」

 それは、以前にも増して、直接的な言葉になってきている。


「ほら、いいタイミング。そこで飛び込めばすぐ楽になれるよ」

 電車を待っているときも。


「ねえ、ここから飛び降りてごらんよ」

 橋を渡っているときも。


「今日も、周りから責められるよ。屋上に行こうよ」

 会社にいる時も。


 ――ずっと、ずっと、私の耳元で囁き続ける。

 目を瞑れば、脳裏に焼き付いた血まみれの恋人の姿が映し出される。

 夜は眠れない。


 もう、楽になりたい。

 私はそう思い始めた。


 私が、睡眠不足な上に仕事でクタクタに疲れて、駅のホームで電車を待っているとき、目の前の線路に現れた恋人は、そこから私を誘う。

「こっちにおいで、勇気を出して飛び込んでごらんよ」

 当然、それは私にしか見えていない。

 電車が近づくにつれ、その動作は激しくなり、早く、早くと誘ってくる。


 私が飛び込むことなく電車が到着すると、恋人はいつも残念そうにする。

「ああ、もったいない、もったいない」

 私はもう、耐えられなかった。

 いっそ、このまま楽になりたいとさえ思った。


 社会からの苦しみも、恋人からの苦しみも、すべて消してしまえる。

 私はそれを望んでいた。

 それでも、私が自ら死を選ぶことをしなかったのは、恋人と同じ場所に行きたくないと思ったからだ。

 あの恋人のいる向こう側に行くことだけは、絶対に嫌だ、とその時は思っていた。

 私は、いつの間にか、あんなに大好きだった恋人のことが、心底嫌いになっていたのだ。

 化け物になってしまった恋人には、もう既に嫌悪感しか抱けなくなっていた。

 

 そのうちに、私の中で、恋人は恋人ではない何か、別の存在に変わっていった。

 それは、ただ、私の負の感情を具現化した何か、に。

 もう、ただの不愉快な存在としか思えなくなっていた。


 そして、その恋人だった何かは、時に私を口汚く罵り、時に言葉とは到底思えないけたたましい雑音をかき鳴らす。

 ついには、『死ね』としか言わなくなった。


 恐ろしい異形の姿で私の前に現れ、耳障りなノイズに乗せて、『死ね』という言葉を延々と繰り返し発し続ける。

 それが、意図しない場面で不意に訪れる。


 プライベートでも、仕事でも、会議中、顧客との打ち合わせ中、どこでもお構いなしだった。

 それは、仕事に大きく影響を及ぼし、足手まといの戦力外となってしまった私は、その職場からの退職を余儀なくされた。

 そして、恋人だった何かは、それを喜ぶかのように、私の前に現れる頻度も上昇していった。


 当然、恋人だった何かの造形は、私の精神状態で大きく変わる。

 平常時でも十分に醜いのだが、どん底の時はもっと醜い存在になる。

 腐敗して、ところどころ骨がむき出しになり、蛆の沸いている状態から、この世のものとは思えない造形に変わる。

 言ってしまえば、ドロドロに溶けだしたどす黒い液体の塊が、辛うじて人の形を保っているようなものだ。

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