第31話 取り返せない時間の中で

 季節は夏に向かっていて、これから訪れる暑さに少し憂鬱になるが、人の心とは無関係に時間は一定の早さで進むものである。


 テスト週間の今日は気分を変えて、学校で勉強することにした。初ちゃんと心春ちゃんは真っ直ぐ帰るとのことで、あまり遅くならないようにと心配してくれるふたりを見送った。


「あ、紗綾さん。まだ学校にいてくれて良かった……何で弦がいるの?」


 机に問題集を広げてペンを動かしていると、栞さんが訪ねてきた。教室を見渡してから、するりと扉を潜り近づいてくる。


「栞さんはどうしてここに?」

「今日貸してもらった教科書を返そうと思って持ってきたの」

「え! 明日で良かったのに……」


 「ありがとう、助かったわ」と目の前に差し出された教科書を受け取って栞さんを見上げる。


 下からのアングルも美人だなぁ……

 このアングルでも失われない美しさ、さすがだ。美しい人ってどこから見ても美しいものなのだな。


「途中まで一緒に帰れないかなと思って来たのよ。……それなのに弦がいるなんて予想外だわ」


 栞さんの視線の先には、私の隣に座る榎本くんがいた。本来は私より前の座席に座る榎本くんは、今は私の隣の席の人の机を拝借して勉強をしている。

 なぜこんな状況になったかというと、そう大層な理由がある訳でもなくて、ただ勉強していた私に便乗して榎本くんも勉強し始めたというだけのことであった。


「残って勉強するの?」という質問に頷いた所、「僕も一緒にやっていい?」と言われ、拒否する理由もないので承諾した次第である。


 なので、私も栞さんと同様に予想外だとは思っている。ひとりで勉強するつもりが、なぜがふたりになっているのだから。

 勉強会よりも静かな気がしないでもないが、邪魔にもならないので今まで同じ空間で勉強していた。


 黙ってにこにこしている榎本くんは真っ直ぐ栞さんを見つめていた。なぜ喋らないのかはわからないが、ちょっぴり冷たい表情の栞さんとの対比が大きい。


「その笑った顔イラつくわね」


 栞さんの琴線に触れたのかイラついているご様子。

 普段より目付きが悪い。案外栞さんの方が榎本くんより喜怒哀楽がはっきりしているように思う。それだけ心を許してくれているのだとしたら私も嬉しい。


「それで、ふたりで何をしていたの?」

「勉強を少し……」

「あら、誘ってくれたら良かったのに」

「いや、元々ひとりでやるつもりだったんだけど、榎本くんが一緒にやるって」


 そう言って榎本くんを見ると、相変わらず笑みを浮かべていて調子が狂う。ここで相槌のひとつでも欲しいものだが、いまいち反応がないのが困ってしまう。その笑顔もいつもとどこか違うような雰囲気だ。


「どうせ強引にでしょう?」

「えっと……」

「ちゃんと同意は取ってるよ、ね?」


 苦笑いを浮かべながら頷く。そうです、承諾したのは私です。

 でもどっちも否定できないな。断り切れなかったと言いますか……


 何とも言えなくて、結局肯定も否定もできなかった。


「じゃあ私も参加していいかしら?」

「え、栞さんも?」


 思わず目を瞬かせる私を、栞さんはにっこりと笑いながら見下ろす。


「ええ、たまには学校に残って勉強というのもいいと思ったの」

「私は問題ないよ」

「僕も小松さんがいいなら」

「弦には聞いてないわ」


 榎本くんの言葉をぶった切る栞さんすごいや……

 栞さんのやることにあまり批判はできませぬ。仕方ない、どんな彼女も素敵だから。

 これが盲目というものかとも思うが、止められるものでもない。


 なんだか予想外に賑やかになってしまったけれど、まあいいかと息をついた。榎本くんを拒否することができなかったことが私の敗因だ。榎本くんとは反対隣に栞さんが座った今、受け入れるしかないだろう。


 週末の勉強会もあるというのに、このように集まって勉強をするなんて物好きなものだ。

 ふたりとも勉強が好きなんだなと思いながら、次の問題に取りかかった。


 ───


 恒例の勉強会も行ったおかげか以前より点数がアップしたテスト明け、林間学校が実施され、登山や夜にはキャンプファイヤーが行われた。


 同じ班には心春ちゃんがおり、比較的恵まれた班分けだったように思う。普段話さない人ばかりの中で長時間過ごすことは精神的につらい。だから、同じ班に心春ちゃんの名前を見つけた時は本当にほっとした。この林間学校中、心春ちゃんは私のオアシスだ。


 時折栞さんの姿を発見し、お互いに手を振り合う。

 懐かしいような心地とあまり新鮮味を感じていなかったのもあってか、時間は優に過ぎていった。


 心春ちゃんも騒がしくするタイプではないからか居心地が良い。初ちゃんといる時よりも言葉数は少なくなっていたけれど、それがいつもよりも大人っぽく感じて何だか悪くない気分だった。


 クラスの違う栞さんとはバスも当然違っていて、同じバスに乗っているのはクラスメイトや先生ぐらい。

 バスの窓側の座席から、斜め前の通路側に榎本くんが座っているのが見える。帰りのバスはみんな疲れが溜まって寝静まっていた。


 学校の行事のような大人数で行うものは好きでも嫌いでもないが、こんな機会はそうないのだとも思う。

 それは人によっては嬉しいものであり、悲しいものにもなるだろう。


 学生時代にしか経験できないものがあるのだとすれば、私はこういった宿泊を兼ねたものも含まれるんじゃないかと思うのだ。大部屋に布団を敷いて、それほど仲良くもない人達と眠って食事を取る。旅行ではそうない状況だ。

 全く同じものはない。それは全てのことに言えるだろう。それでも、この空間は特別で、取り返すことのできない時間だ。

 "この時を大切に過ごさないと"ってことでもなくて、今はこの過ぎていく時間のそこはかとないむなしさを感じていたい。それが何の芽にもならないものだとしても。


 隣で眠る心春ちゃんを視界に収めてから、私も目を閉じた。きっとこうして並んで眠ることも、刹那的なものだから。

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