第30話 特別な人はひとりだけ

 若葉がより深い青葉となる頃。運動会が近づいていた。


 運動が好きであったり、得意であったりする人、負けず嫌いな人にとっては燃えるであろう運動会。

 そのどれにも当てはまらない私にはあまり心踊る行事ではなかった。


 着々と出場種目が決められていく様をぼんやりと眺めていると、榎本くんが隣の席の男の子に話しかけられていた。

 彼が笑顔で頷くと、黒板の"リレー"という文字の下に書かれた名前。どうやらリレーに出ようと誘われていたようだ。

 しかし、榎本くんは足が早かっただろうかと首をひねる。まあ、誘われている時点で早いのだろうが。


 席替えをしてしばらく経った。

 相変わらず後ろの方の席で、榎本くんに関しては背中ばかりを見ている気がする。そして振り返る姿も。


 初ちゃんと心春ちゃんとも席が離れて少し寂しさを感じていたが、不満ばかりではなかった。誰かの席に自然と集まって、一緒にいる時間が大幅に減ることはなかったからだ。

 こうして一緒にいることが当たり前のようになっていくのが心地よく感じる。ふたりの間に入りたいというよりも、ふたりのやり取りを近くで見ることに楽しさを見いだしていた。

 それは彼女達と年齢が離れていて、もはや親に近い目線で見ているからかもしれないが、一緒にいて楽しいのは変わらない。


 だからこそ、やはり私にとって栞さんという存在はいろんな意味で特別なのだと思う。

 前提が違うのだろう。栞さんをゲームの登場人物であり推しだと考えることはあれど、親のような目線で見たことはない。


 今も、部活終わりに隣で笑う栞さんを見ても、子供に向けるような見守る視線にはなっていないだろう。


 こうやって廊下を並んで歩くのも日常となって、それがどんなに数奇な出来事なのかを忘れていく。

 それでも私の中で変わらない唯一無二な人。


 クラスが替えられ、過ごす時間が減ったことで、また彼女が私の中でどんな存在なのかを再認識させられる。


「クラスは違うけど、頑張りましょうね」


 意気込んだ栞さんに、私も笑顔で答えた。


 ───


「わぁ、早い……」

「早いねぇ……」


 そう相槌を打ってくれたのは隣にいる初ちゃんで、大きな瞳を瞬かせていた。

 さっきから黙っている心春ちゃんを、初ちゃん越しに見てみると目の前で走っている様子を眺めてはいるようだった。


 天候も恵まれ、日程通りに行うこととなった運動会当日。各自練習や準備した成果を発揮しようと奮闘している。

 現在はリレーの真っ最中。ちょうど榎本くんがバトンを受け取った所だ。トラックの外側、走る人達の邪魔にならないように距離をとって、初ちゃん、心春ちゃんと観戦していた。


「心春ちゃんも走るの早いんだから、出れば良かったのに」

「嫌よ、好きじゃないもの」


 心春ちゃんは少し顔をしかめて初ちゃんを見たが、それを向けられた本人は、笑顔でのほほんと受け止めている。


「好きじゃない」って何が好きじゃないんだろう。走るのこと?

 でも、心春ちゃんのランニングに付き合ってるって言ってたから、走ること自体は嫌いじゃないのかな……


「そっかぁ。でも、いつか心春ちゃんが走ってるの見てみたいなぁ……」

「……いつか、ね」

「やったー!」


 そんな話をしている間に、榎本くんが近づいて来ていた。順番はアンカーの前らしい。

 ぼんやり眺めていると、一瞬榎本くんと目が合ったような気がした。

 そのまま私の目の前を走り抜けた榎本くんは次の人にバトンを渡して邪魔にならない場所に移ると、こちらを見て微笑んだ。


 わ、わぁ……心臓に悪いやつだ……


 その目は私だけを捕らえているみたいで、きっと勘違いしてしまう人もいそうなくらい優しい笑みだった。


 なぜかいつにもまして榎本くんがかっこよく見えてしまってならない。でもそれはきっと、このシチュエーションがいけないのだ。

 スポーツ選手がかっこよく見えるのと同じ、きっとスポーツしてる人が無条件にかっこよく見えてしまっているんだと言い聞かせる。


 内心ドキドキしている胸を押さえていると、心春ちゃんが近づいてきた。


「榎本、残念だったわね」

「ん?」

「1位になれなくて」

「ああ……」


 いつの間にやら全てのアンカーも走り終え、結果が出たようだ。

 榎本くんの走った後から見逃していた。これも榎本くんのせいだ。


「でもひとり抜いてたからすごいよ」

「そうそう! 2位も十分すごいよ!」


 助け舟を出すかのように付け足してくれた初ちゃんはなんだか興奮ぎみ。

 もしかしてスポーツ観戦とか好きなのだろうか。


「あら、すごくないなんて一言も言ってないけど?」

「た、確かに! で、でも心春ちゃんの言い方がちょっとこう、……悪いと思います!」

「ごめんごめん」


 賑やかなふたりの会話を聞いていると、視線を感じた気がして辺りを見回す。

 するとひとり、こちらを真っ直ぐ見つめるものがいた。耳よりも高い位置で結ばれた髪を揺らしている栞さんだ。


 私が栞さんに気がついたように、栞さんも私が見ていることがわかったのだろう。ひらひらと手を振られた。

 それに胸がきゅんとして思わず振り返す。


 遠くにいても気づいてくれるなんて、それほど親しくなれたということだろうか。

 これまで共に過ごした時間が大切なものなのは以前からだが、より愛おしいものと思える。


 遠くて鮮明には見えなかったが、私を見た栞さんの口角がきゅっと上がったように見えたのは私の妄想じゃないといい。

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