第20話 知らないふり、知らないこと

 榎本さん家に行って頭に宇宙が広がったあの日の夜。

 お布団に入ったら即眠りについていて、次の日も休みだったが、全然起きてこなかったらしく母が心配していた。

 これが死んだように寝たということなのだろうか。

 起きたら少しすっきりした気がする。


 それでも未だに疲れが残る身体は良くない思考を連れてくる。昨日みたいに何も考えずに眠りたいのに、身体は言うことを聞いてくれなくて布団の中で寝返りをうった。


 改めて考えなくとも、栞さんは絶対にお嬢様で、お家からしてそうとしか考えられない。

 それでちょっとだけ思うのは、一緒にいていいのかということ。

 釣り合う釣り合わないっていうのは考えない方がいいのだろうけど、やっぱりキャラクターのイメージが消えない。

 親しくなりたいという気持ちと裏腹に、突き付けられる度に苦しくなるのだ。元々異なる世界の人でその遠い距離がもっと広がってしまったようでひとりで勝手に切なくなる。


 ずっと好きだったから、近寄ったらもう離れがたくて。


 いっそのこと出会われなければだなんて失礼だろうか。

 そうしたら悩むこともなくなるかもしれないし、例え同じようにこの世界で生きるのなら、知らない方が幸せだったのだろうかと意味もなく考えてしまう。


 彼女を知らないふりをしていても、刻一刻と近づいてくる。

 知っている彼女に近づいていく。

 そこに私はいるのだろうか。いていいのだろうか。


 ───


 榎本くんは私が寂しかったり悲しかったり、心が揺れた時がわかる能力でも備わっているのか。


 朝の教室で少しだけ憂鬱な気分でぼーっとしていると、机の前で榎本くんがしゃがみこんだ。

 しゃがんだことで座っている私より下になり、自然と上目遣いで私を見ることになる。


「元気ない?」

「そんなことないよ」

「そうかな?」


 そうだよとは言わずに、頷いておはようと言う。そうしたら深く聞かずに同じ言葉を返してくれた。


「この前家に来てたけど、何やってたの?」

「んーと……お茶して、ピアノ弾いたり、栞さんのヴァイオリン聴いたりかな」


 でも話の話題が栞さんに関係してて、結局意味ないかも。


「小松さんピアノ演奏できるんだ?」

「習ってるから少しだけね」

「へぇ。僕も聴きたいな」


 来た。

 榎本くんのお願い。

 そして向けられたキラキラとした瞳。

 なんだか純粋にそう願っているように見えて、内心何を考えているのかわからないのに。


 もしかしたらそんな私に気づいてるのかな。


「……今度ね」

「やった」


 あーあ。本当に嬉しそうな顔に弱いなぁ。


「忘れないでね」

「うん」


 以前約束を忘れてしまったことがあって、すごく悲しそうな顔をしていた。それがもう耳が垂れた仔犬みたいに見えて胸がぎゅっと締め付けられたのを覚えている。


 今だって見上げてくる姿が仔犬みたい。

 きゅっと上がった口元も、きゅるきゅるした瞳も可愛く見えて。

(以前の私の年齢を合わせたら)年下の可愛さに胸をうたれる。


 そうして仕方ないなぁと、自然に笑顔が浮かんでいたことに私は気づいていなかった。

 榎本くんがそれを見て満足そうにしているなんてことも。


 ───


「出来た!!」


 キッチンには、ほのかにチョコレートの甘い香りが漂っている。

 学校があった今日は、帰ってきてから明日のバレンタインのために生チョコを作っていた。

 生チョコを冷やし固めるのに時間がかかってしまったが、何とか寝る前に出来上がったことで一安心する。


「出来たの?」

「うん」


 母がキッチンに近寄って声をかけてきた。確かにいつも寝る時間より遅くなってしまっている。

 片付けは母が手伝ってくれたこともあって思ったより早く終わった。



 そして次の日の朝。


「小松さん」


 靴箱で靴を替えていると、ふと誰かに声をかけられた。


「榎本くん、藤堂くん。おはよう」

「おはよう」

「……おはよ」


 今日は学校に来るのが遅かったのか、朝練も終わった時間になっていたようだ。

 せっかくなので教室まで一緒に行くことに。


「あ、そうだ。これどうぞ」


 ふたりに渡したのは、昨日作った生チョコ。

 元々ふたりには渡そうと思っていたので、ちょうど良かった。


「ありがとう」

「……僕のも?」


 嬉しそうに笑う榎本くんに対して、藤堂くんは意表を突かれた顔をしてからありがとうと呟いた。


 それからすぐに別れた私は、榎本くんと藤堂くんの会話を知るよしもなかった。


「良かったな、もらえて」

「友達としてだけどね」


 ───


「栞さん、どうぞ」

「ありがとう」


 昨日作ったお菓子の中で、一番綺麗にできたものを栞さんに差し出した。

 栞さんは朝の挨拶をして早々に渡されたお菓子を優しく鞄の中に入れると、そこから別の何かを出してきた。


「私もこれ、作ったの」

「栞さんが……?」


 少し恥ずかしそうに小さく頷いた仕草が可愛いらしい。


「食べていい?」

「ええ、もちろん」


 紙袋を開ければワックスペーパーに包まれてマスキングテープを留めたものが入っていた。

 少し形の崩れたブラウニー。それが手作りだということを示している。


「どう? 見た目はともかく味はいいかと思うのだけど……」

「…美味しい」

「本当!?」


 きっと頑張って作ってくれたんだろうと想像できて、胸が温かくなると共に胸の奥が針でつつかれているような痛みもあった。

 いつだって優しい、そんなあなたを知る度に苦しくなる。

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