第19話 幸せと緊張と、少しの寂しさ

 栞さんとの新たな約束に胸踊らせながらおしゃべりを続けていると。


「そうだ、紗綾さん。せっかくだから私のヴァイオリン聴いてみる?」

「え?……あっ!」


 その時、グランドピアノが私の視界に入った。


 忘れてた……!!

 何てこと!呑気におしゃべりしている間じゃなかった!


「ごめん……!演奏する約束してたのに!」

「いいのよ。私も楽しくて今日何のために来てもらったか忘れていたもの」

「でも今日は栞さんにピアノを聴いてもらうために来たのに忘れるなんて!」


 ピアノを聴かせるという約束をしたあの日から、ちゃんと日々練習を重ねてきた。

 どんな曲がいいだろうか。楽しい気持ちにさせてくれる曲かな。それとも穏やかな曲調の落ち着く曲がいいかな。

 そんなことを思っていたのに、すっかり頭から抜け落ちてしまっていたなんて。


「あら、それだけなの?」

「め、滅相もない!ただ約束したからには果たさねばならぬと言いますか、えっと」

「ごめんなさい、意地悪しちゃったわね。そんなに気にしてないから」

「うぅ……」

「いいのよ、そうしたらまた会えばいいんだもの。そういうものでしょ?」


 私を見つめて問いかける、ちょっぴりお茶目な栞さんも良き……

 ……はっ!いかんいかん、ついヲタク思考になってしまった。


 首を縦に振れば嬉しそうに笑うから、またヲタク思考へと誘われそうになるのをなんとか堪える。


「練習してきたのは『月の光』なんだけど、いいかな?」

「ええ、楽しみだわ」


 鞄から楽譜を取り出して、椅子に座る前に一礼をすると律儀に拍手をしてくれて、照れくささで視線がさ迷ってしまう。

 椅子に座り数秒目を閉じてから、鍵盤に指を添えた。


 ドビュッシー作曲、『月の光』。とても有名な曲で、映画やCMなどでも広く使われていたはず……

 この曲は幻想的で厳かな雰囲気があり、月が優しく照らしてくれているように感じる。音と音の間の空白すら美しく思えて好きな曲だ。

 選んだのは、この曲が好きなのもあるが、栞さんの静かで包み込むような暖かさは太陽よりも月のようで、この曲を聴くと栞さんを思い出すからだった。


 鍵盤に指を滑らせる。

 ピアノを演奏している間、栞さんの様子を見たかったが、目を反らしたらリズムが狂ってしまいそうでできない。

 力強さよりも繊細さを。焼き付けるほど暑い太陽ではなく、柔らかな寄り添うような月を。

 ただひたすら、私の思う月の光を頭の中で描きながら演奏していた。


 最後の1音が部屋に響く。

 ひと息ついてから栞さんの方を見ようとすれば、拍手が聞こえてきた。


「……とっても、素敵だったわ」

「ありがと……すっごく緊張したよ……」


 いや、本当に指震えてガックガクだったよ。

 今もちょっと震えてる気がして、手を握る。


「緊張しなくていいのに」

「それは無理……」


 微笑を浮かべる彼女に、力ない笑いを返した。


「それじゃあ、お礼にヴァイオリンを弾こうと思うのだけど……『ユーモレスク』でもいいかしら?」

「もちろん!」


 それを聞いて頷いた栞さんは、部屋の奥の方へ歩いていった。

 戻ってきた彼女の手にはヴァイオリンが握られており、それを取りに行ったのだと見てから気がついた。


 それからすぐに、ノックの音と共に舞い戻ってきた大森さんが、譜面台がないことを悟っていたのか、ピアノの側に譜面台を置きに来たのには驚きを隠せない。

 ついでにお皿などを下げていったのを私は呆然と見つめることしかできなかった。


 本当に大森さん何者……?スマートすぎやしないか……?

 大森さんの動きを観察してみたいくらい不思議な人だ。


 栞さんは譜面台の前に立つと一礼したため、それに合わせて拍手を送る。


 栞さんが弾いているのは、ドヴォルザーク作曲、『ユーモレスク』。この曲も聴いたことがある人が多いだろう。有名なピアノ曲のひとつだが、ヴァイオリン用に編曲したものだろうか。

 気紛れな曲想で、でもどこか哀愁を感じさせる。


 そして何より、演奏する姿が美しいのなんの。写真とか絵画にして眺めたいくらいに素敵だわ。

 ゲームだったらスチルになるやつですねこれ。


 視覚も聴覚も存分に味わっていたらあっという間に演奏が終わった。こちらを向いてにっこりと笑ってから一礼する栞さんに拍手を送った。


「わぁー!素敵!!」

「ありがとう。……確かに発表会とは違うわね。変に緊張したわ」

「だよね!」


 親しい人ほど気になっちゃうというか……

 あるいは初めて演奏を聴いてもらったかもしれないが。


 ふたりとも少し疲れてしまって、楽器などの片付けをしてから椅子に座ってほっと息を吐く。


「紅茶のおかわりが必要ね」

「あ、大丈夫だよ」

「そう?……私が必要だから頼んでくるわね。ちょっと待ってて」


 栞さんはテーブルの上の空っぽになったカップを見てそう言うと、扉へと歩いていく。

 様子を伺っていると、扉を開けて向こう側へ消えていった。


 ……あれ? 今の時間何したらいいんだ?

 頼んでくるということは、おそらく大森さんを探しに行ったのだろう。

 このお家の広さからして、栞さんが帰ってくるのはいつ頃なのか想定できない。


 改めて部屋の中を見渡してみると、その広さに驚嘆する。

 私の家のリビングの数倍はありそうで、それならこのお家のリビングや栞さんのお部屋はどれくらい広いのか想像もつかない。


 考えると少し怖くなってきた。

 物音もしないこの空間にひとりでいることが。


 ……栞さん、早く帰ってきてくれないかな。

 こんなに広い部屋にひとりでいると、ひとりぼっちみたいな感じがして嫌だ……


 ひとり寂しく待っていると、扉が開く音がした。

 そこに立っていたのは、待ち望んでいた栞さんでも、執事さんのような大森さんでもなく、榎本くんだった。


「こんにちは。帰る前に会えて良かった」

「榎本くん……」

「……どうしたの?何かあった?」


 ひとりではなくなったことに安堵して思わずうつむく。

 心配してくれたのか近づいてきた榎本くんは、体操服を着ていた。


「なんでもないよ。榎本くんは部活があったの?」

「あぁ、うん。終わって帰ってきたら小松さんが来てるって聞いて驚いたよ」

「あれ?栞さんからは聞いてなかったの?」


 てっきり栞さんが榎本くんにも知らせているものだと思っていたが違ったらしい。


「そうなんだよ、」


 不満そうにに口をへの字にしたまま続けようとした榎本くんの話を、扉が開く音が遮った。


「あら、おかえりなさい」

「ただいま。ねぇ、僕知らなかったんだけど」

「何のことかしら?」

「絶対わかってるでしょ」


 部屋に入ってきたのは栞さんで、入ってきて早々にお話(言い合いを)している。

 話の流れ的に、榎本くんは私が家に来ることを知らなくて、事前に教えてほしかったってことだよね。


「小松さんが家に来ることだよ。知ってたら急いで帰ってきたのに」

「ああ、言ってなかったかしら。ごめんなさいね」


 栞さん。それは謝罪の思いがこもってなさそうです。

 それが榎本くんもわかったのか、深いため息を吐いた。


「えーっと、私も榎本くんに伝えておいた方が良かったかな。ごめんね」

「いや。小松さんが謝るとこはないよ」

「そうよ」

「栞……」


 わお。栞さん結構強いなぁ……

 榎本くんが押され気味というか、呆れているのか。


「とりあえず、小松さんは気にしないでいいから」

「……そう?」


 ふたりとも同じように頷くから、やっぱり双子なんだと実感する。

 ひとまず穏便に収まったようで安心した。


「じゃあ、私はもうそろそろおいとまするね」

「え?もう?」

「もう少し居ていいのよ?」

「ううん。だいぶお邪魔しちゃったし今日は帰るよ」


 思ったより大きなお家に、栞さんの前で演奏したのもあってちょっぴり疲れてしまった。

 このままだと長居してしまいそうだし。


「そう……次はもっとゆっくりしていってね」

「そうだね。次は僕も仲間に入れてね」


 ………もしや仲間はずれが嫌だったんだろうか?


「うん。榎本くんも時間が合うといいよね」


 こうして帰ることにしたのだが、なんと榎本くんが家まで送ると言ってきた。


「まだ明るいから大丈夫だよ」

「いや、心配だよ」

「大丈夫大丈夫!そんなに遠くないから遅くならないよ」

「本当?」

「本当!」


 ふたりとも心配性すぎる。確かに油断大敵ってことはあるかもしれないけどさ。


「気をつけてね」

「帰ったら連絡してちょうだいね」

「はーい」


 そうしてやっと別れたかと思いきや、栞さんに引き留められた。


「紗綾さん。今度は一緒に演奏できたらいいわね」

「……うん!」


 初めてのお家訪問は、幸せと緊張と、少しの寂しさを味わった忙しないものであった。

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