9.扇風機に唸りをあげて —団扇—-2


 ざあざあと、シャワーの音。ぼんやりそれをきいていて、ふと我にかえる。

 きゅっとシャワーの栓を締める。

 ウィステリアが濡れた体を拭いてから、着替えて戻ってきても、玄関でユーネはしょんぼりしたままだった。

 シャワーを浴びたのは、ユーネが急かすからだった。泥の獣、囚人プリズナーの体液は汚泥。浴びると、感染する危険はある。魔女のウィステリアは、一般人に比べて汚染に対する抵抗力はあったけれど、絶対ではない。

「ユーさん、あたし、気にしてないのよ」

 ユーネは家に入るまでに、軽く外のホースで獣の返り血を洗い流していた。まだ水気が残っている。

 このところのユーネは、海から上がってくると、シャワーを浴びてから部屋にきてくれる。今日はウィスにシャワーを浴びてほしいので、自分は応急処置にとどめたのだろうが。

「デも、あレ、写真のやつノ。ウィス、大切ニしてタ」

「大切にはしていたけれど」

 もちろん、それは本当に大切なものだ。

 だって、それは奈落のネザアスの約束の残滓なのだ。ぼろぼろに砕けたペンダントトップを見ると、彼女の心だって揺れ動いてしまう。

 けれど。

「でも、もういいの。お守りは、役目が終わると割れるものだもの」

 寂しいけれど、近頃聞こえなくなったネザアスの声のように、きっとそれの役割は終えたのかもしれない。

 彼なら、いつまでも彼女がそれに縛られることをよしとしない気がした。前からそんなふうに思ってはいたのだ。それは彼から、いい加減こんなものに頼っていないで、独り立ちしろと言われているかのようだ。

「でモ、おレ、取り返ス思っタのに。中ノ大切なノ、飲み込んデしまっタ」

 ユーネは俯く。

「ごメンなサイ。吐き出そウとしたケド、あれ、溶けテて、どこにあるかわかンなイ」

「あれはネザアスさんの一部だったから、きっと、貴方とも波長が合うのよ。くらげだってあれを狙ってたでしょ?」

 あのメモは、ネザアスの血文字に侵食されていた。きっとユーネやくらげのような、泥の獣は、それ自体を同化させてしまう。

「うン。でも。……ごめン、ウィス」

「あたしこそごめんなさい」

 ウィステリアはそっとユーネの右側をなでた。ウィステリアがシャワーを浴びている間に、そこはかなり修復されていたが、まだ痕が残っている。

「あたしがボーッとしていたから。ユーさんに怪我をさせちゃった」

「こんナノ、すぐ治る。ウィスの方が心配」

「あたしは大丈夫よ」

「でんワのひとも? 怒らレない?」

 どうやら、グリシネの通話のことも心配してくれているらしい。通信端末は防水仕様で、壊れてはいなかったが、あの衝撃で通話が途切れてしまった。その後、囚人に襲われたが無事であることを伝えていた。

 グリシネの態度はわかりづらいものの、無関心そうだったので、ユーネのことはバレていないだろう。

「うん。大丈夫。グリシネのことはうまくやっておいたから」

 ぎゅっとユーネを抱きしめて、ウィステリアは言った。

「ごめんね、ユーさん。でも、ユーさんがお守りの欠片でも取り返してくれたの、嬉しいのよ。あのメモだって、あんなやつに取り込まれるなら、ユーさんが持っていてくれて嬉しい。だから、ね、気にしないで。ありがとう」

「ん」

 そう諭すように言うと、ユーネがうつむいてぽつんと頷いた。その頭を撫でてやって、ウィステリアは息をつく。

 と、不意にどこからか、ジャックが現れた。

 ジャックは、倉庫の探索が好きだ。倉庫を探しては見つけて、主人に渡しにくる。今はこの空気を変えるのに助かる。

 ウィステリアは明るく言った。

「ジャック、今日は何を見つけたの? えーと、これは、うちわ?」

 前の灯台守のものだろう。水色の団扇に黒い金魚が描いてある。出目金だ。

「ユーさん、これ見て。このうちわ、ノワルちゃんみたい」

「あ、ホントだ!」

 うなだれていたユーネが、顔を上げる。頭の突起もぴんとして、やはり動物感がある。

「こレ、ホントにノワルみたイでかわイイ」

「これ、ユーさんにあげる。使って」

 素直に喜ぶ彼にウィステリアは言う。

「今日、一緒に夕涼みしましょう? ノワルちゃんも連れて。それに、これ、お風呂上がりに使うと涼しいよ」

「そーダナ。暑いシ! 風呂上り使うト体、はやク乾く」

「うん。ね、先にあたしがシャワーいただいたけど、今からユーさんもお風呂入っておいで。傷は痛くないかしら」

「もウ、大体治っテル」

「泥の獣の返り血は、穢れた汚泥だから。ユーさんは強いけど、洗い流した方が安心だからね。この間、いい香りのするボディソープを手に入れたの。ね、ユーさん、それも使って」

「うん。ソーする」

 ようやくユーネが笑顔になる。

 ユーネにタオルを渡すと、ユーネはうちわとタオルを大切に抱え、そのままバスルームに向かっていった。


 ウィステリアはリビングに戻る。ティッシュの上にそっと乗せた、ペンダントトップの破片を手のひらに置く。

「今までありがとう。ネザアスさん」

 喪失感はあったけれど、不思議と、思ったほど悲しくはない。これは自分の支えだったけれど、自分を縛りすぎていたかもしれない。

 そっとそれをチェストの上に置く。その隣には、黒い金魚のようなノワルが入った水槽があった。

 ノワルは主人のユーネが落ち込んでいるのを知っているのか、なにやらすいすいと珍しく落ち着きがなく泳いでいた。

「ノワルちゃん、騒がせてごめんなさいね」

 水槽に指を当てると、ノワルが近寄って口をぱくぱくさせる。

 無害な黒物質ブラック・マテリアルの塊。ノワルは本当に金魚のように見える。 

「かわいいなあ。ふふ、ユーさんが可愛がるの、わかる」

 なんとなく癒されていると、同じ黒物質製のペットのジャックが、するると床を這って現れた。しかし、今度は何かを持ってきたわけではない。

「どうしたのジャック?」

 ジャックが何故か警戒した様子だ。頭を撫でてやりつつ、ジャックが気にする方を確認する。玄関だ。

 と、人の気配がした。声がする。しかも複数の男の。

 はっとウィステリアが玄関に向かうと、ほどなく扉が叩かれた。

「灯台守の魔女殿、ここを開けてください」

 その声はフォーゼスとは違う。

 今日の捜索に関わっていた彼の部隊の部下たちだ。となると、タチの悪さが予想される。

 ウィステリアは気持ちを切り替え、きりりと表情を引き締めた。

「何の御用ですか? 申請なくここには立ち寄れません!」

「こちらに囚人が忍び込んだとの情報がありました。念のために調べます。開けてください!」

 どんどんと扉が乱暴に叩かれる。

 ユーネの姿を見られたのか?

 これを無視すると、余計に勘繰られる。ウィステリアは扉を開けた。

 目の前には、ルーテナント・フォーゼスではない、彼の部下の白騎士が四人。

「それはご苦労様です。けれど、囚人が忍び込めば、魔女のあたしにはわかりますよ。ご心配ありがたいのですが」

 ウィステリアはそういって頭を下げ、

「ですから、中まで調べていただく必要はありません。ご足労をおかけするだけですから……」

 と言いかけた時、強引に白騎士の一人が中にはいる。

「何をするんですか!」

「やっぱり魔女は魔女だな」

 別の一人がウィステリアを押さえつける。

「化け物を引き込んでるだろう? 見たんだ!」

「違うわ! 何言ってるの! 放しなさい! 中央局に報告するわ!」

 ウィステリアが強気にそういうが、その間に白騎士達が室内に入っていく。

 シャワーの音が聞こえている。このままでは、ユーネが見つかる。

「待って! 本当に何もいないから!」

 ジャックを向かわせて、抵抗させてもいいけれど、ジャックはさほど強くはない。相手はくさっても強化兵士白騎士。倒されてしまう。

(ユーさん、勘が鋭いから、この騒ぎにもう気付いているはず。うまく隠れて!)

 彼女が祈るような気持ちでいると、白騎士が風呂場に踏み込んでいく。きいっとドアが開く音がする。

 と、白騎士達がざわめいた。

「こっ、これは失礼、しました」

 ばたんと、慌てて風呂場のドアを閉める白騎士。

(なに?)

 ウィステリアが思わぬことに呆然としていると、半笑いの白騎士達が、なにやら小声でいいながら戻ってきた。

「なんだよ、堅物のくせに、やることやってんじゃねーか」

「ったく、お盛んなことで」

 戻ってきた白騎士が、ウィステリアをおさえていた白騎士に、もういいぞ、と命じる。

 何故かニヤニヤしていた。

「これは失礼いたしました。お楽しみのところ」

「なんです?」

「なにって? いえいえ、我々もそんなに野暮なことはききません。まあ、せいぜいお楽しみください。魔女様」

 白騎士達はニヤニヤしながら、彼女を置き去りに通り過ぎていく。

(なによ、あれ)

 ばたんとドアが閉められる。立ち去りながら、大声で白騎士達がなにか言って笑い合うが、ウィステリアはそれどころではない。慌てて風呂場に駆け込んだ。

「ユーさん!」

 と、風呂場のドアを開けるが、なぜかユーネがいない。

「え? あれっ? ユーさん、どこ? もうあいつらはいないから」

「ぁ、ゔ、ウィス」

 何故か角の方から声がする。脱衣所のカーテンが丸まっていて、どうやらそこに隠れているらしい。声がふるえている。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛、ヴィスううゔ」

 何故か扇風機前で唸っているかのような、ユーネの声だ。混乱しているらしい。

 ともあれ、ウィステリアはホッとした。

「良かった! もう、あいつらはいないから、出ておいで」

 そう言って近寄ろうとした時、

「あ゛っ、だ、だだだ、ダメ! 来タらダメ!」

「えっ、どうして?」

「おレ、服着テない。ダメ」

 服? 

 ウィステリアはきょとんとした。服もなにも、ユーネは元から服なんか着ていない。

「どうしたの? 大丈夫だから、顔をみせてよ」

「う、ウィス、オれ、そノ……」

 そう言ったユーネが、カーテンの間から手を伸ばす。その手は先が黒くなっていたが、人の手だった。それがうちわを掴んでいる。うちわは少し水に濡れていた。

 はっとしたウィステリアが見守る中、そろそろと何者かが、カーテンからぬっと顔を覗かせる。

 背がかなり高い。

 顔は白いが、右半分は黒くそまっていた。髪は赤く短髪にみえたが、どうやら後ろは長いらしく、ちらりと髪が揺れるのが見える。

右目は白く濁っていて見えていないようだが、左目は夕陽のような色をしていた。

 その容貌に彼女は見覚えがあった。

「ネザアスさ……」

 無意識に言いかけて口をおさえる。

 そんな彼に似た何者かは、うろうろと視線を彷徨わせて、持っていたうちわで顔を隠す。

「ミミみ、顔、あまりミないデ。恥ずかシ」

 そして、あどけない不安げな表情で、口を開く。

「あ、あノ、な。ウィス、おレ、困っタんだ。いつもミタイに、うまク戻レない」

 奈落のネザアスによく似たものは、いつもの濁った声でそう言った。

「ど、ドウシヨ。あいつラ、ごまかすのにヒトに似せヨうしたケド、ここカラ元ニ戻れナイ」

「あ、あなた、まさか、ユーさん?」 

 ウィステリアが呟くようにたずねる。

 目の前の男が、うちわで顔を半分隠しつつうなずく。

「ほ、本当にユーさん、なの?」

 思わず、ウィステリアは呆然としてしまうのだった。

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