10.水に揺蕩う —くらげ—
「わあ、すごい! 綺麗!」
青い光が目に入る。フジコが歓声をあげると、ぴぴー、と肩のスワロも嬉しそうに鳴いた。
機械仕掛けのスワロは、まだ感情表現が乏しいが、それでも興奮することはある。
天井一面にくらげがふわふわと舞い踊っている。上からの陽光が差し込んできていて、その一帯は真っ青で綺麗だ。
そこは、大きな水槽のトンネルだった。そのトンネルの水槽に、まっしろなくらげがふわふわ無数に漂っている。
「ここ、くらげしか残らなかったのか」
奈落のネザアスは、やや残念そうに苦笑する。
ネザアスは、このテーマパーク奈落の保守業務にも多少関わっていたので、施設が保たれていないのが気になるらしい。
テーマパーク奈落は広大で、似たような施設もいくらかある。水族館も一つではなかったが、ここは比較的小規模なのが幸いしてか、無事に残ったようだ。
多少建物は傷んでいたが、水槽は綺麗なままなので、システムがまだ生きているのだろう。
奈落のネザアスが、フジコを連れてきたのは、ここがまだ生きていることがわかったからだ。過酷な旅の合間に、ネザアスはフジコに綺麗なものを見せてくれる。
「前は他にも魚がたくさんいたの?」
「ああ、色とりどりの魚がいたはずだぜ。全部くらげになるとはな。まあ、汚染されるよかマシか」
「くらげって、そんなに強いの?」
「くらげのことはそんな詳しくないけどよ。あいつら大昔から生き残ってるからな。大量絶滅を生き延びてきたってことは、まあ、強い奴らなんだろうよ」
見上げる青い世界では、ただぼんやりとくらげが泳ぐだけだ。
「まあでも、コイツらも、客を待っていたんだろうからな。コイツらだけが、約束を守って待っている。健気なもんさ」
その言葉は切ないが、しかし、それは幻想的な空間だった。
ただ、ぼんやりと水の煌めきとくらげが漂うのを見てしまう。
「凄い、すごく綺麗だね。ネザアスさん」
ぴぴー、とスワロも鳴く。
「そうか? お前らがそんなに喜ぶとは思わなかった。
ネザアスは、崩壊していくこのテーマパークを内心苦く思っているらしかった。それなので、稀に綺麗なものが残っていると、嬉しそうだった。
右半身の負傷を理由に、前線から放り出され、こんな閑職につかされた彼は、きっと本当は面白くなかったと思う。
本来、戦闘のために作られた彼は、来場する子供の面倒なんて見たくなかったろう。それでも、命令されてまじめに向き合って、案内人としてこなしていた彼は、子供が楽しむ姿を見るのが好きらしかった。
「スワロちゃん、向こうまで行ってみよう!」
「おいおい、ウィス、あんまり急ぐと危ないぜ?」
フジコが先に走っていってしまいそうなのを、ネザアスはそう嗜めながら見つめていた。その眼差しはとても満足げだった。
そんな彼等の真上を、まっしろなくらげたちが、時間の経過も、このテーマパークの変化なども関係なく、ただふわふわとたゆたっている。
けれど、客に見せるためだけに造られたであろう、くらげは、きっとどこかで約束を覚えているようですらあった。
そんな廃墟に暮らすくらげと、ネザアスは、全く似ていないのに、どこか似ている気がした。
*
改めてバスタブに湯をためて、ユーネはタオルを腰に巻いたままそこに浸かっていた。
「も、モいっかい、しゃわー?」
「うん。その、黒い所、一応洗ってみたほうが良さそうだし」
「そ、そーか」
普段は、見た目はヒラムシ。黒い不定形生物のユーネだが、先程、白騎士達に家に押し入られた際に、ごまかそうとして人に似せた姿になってみた結果が、これだ。
右半身がうまく復元できないらしく、体もまだらに黒いものの、今の彼はほとんどヒトといって遜色ない姿をしていた。
ただ、用が済んでも、うまく元に戻れないらしく、戸惑っている。
そんな彼のヒトの姿は、かつての黒騎士、奈落のネザアスそのものであり、ウィステリアも内心動揺していた。
(なるほど。白騎士の奴らが、変なこと言って出ていったの、フォーゼスさんと間違えたのね)
ユーネ曰く、顔を見られたくないことと、顔の右半分が黒いままだったので、風呂上がりに涼もうと、脱衣所に持ってきていたうちわで、右半分の顔を隠したらしい。
確かに、今の彼ならそれだけで、あのルーテナント・フォーゼスに見えただろう。
白騎士達は、ウィステリアとフォーゼスの関係を誤解したのだろう。そう考えると、フォーゼスには悪いことをした。
(うーん、しかし、なんて釈明したらいいかわからないなあ。後で考えよう)
ウィステリアは、ひとまずそれを脇に置く。そして、ユーネの髪などをもう一度洗ってみるが、黒いのは落ちない。いっぽう、くらげの囚人の汚泥はちゃんと落ちているようだった。
(くらげか。あれ、よく考えると、くらげには似ていなかったな)
なんだか、大きな牙のある口や爪もあったし。
それに比べると、目の前で体育座りで膝を抱えたまま、泡風呂に困惑しているユーネなどは、後ろだけ長い髪が広がって、なんだか彼の方がよほどくらげっぽかった。
彼は、体の右側はうまく変化できていないのか、右腕は形成されていない。黒い色が残るのも右側に集中していた。
左胸の削れた製造番号は、この姿でも相変わらず判別不能なままだった。
(でも、これって)
ウィステリアはふとため息をつく。
(この姿は、どう考えても、ネザアスさんなのよね)
白く濁った右目。
顔の傷は黒くてわからないけれど、おそらくあるし。赤い髪も後ろ髪の一部だけが長いのも、夕陽みたいな赤っぽい褐色をした左目もやはりネザアスだ。
(これは、ユーさんが、ネザアスさんの血文字のメモを取り込んじゃったせい?)
そうかもしれない。
「この体の黒いのは、多分、もとのユーさんの影響が強いからかな? 落ちないし、悪いものじゃないみたい」
一通りシャワーをかけてから、ウィステリアはそう判断した。
「ほんト? じゃア、お風呂アガる」
あ、と、ユーネは困った顔になった。
「で、デモ、服ナイ。おレ、元に戻ルのマダうまくできなさソう」
「そっか。落ち着けば、またうまくいくようになるかも。でも服は要るわね。何かないか探してくる」
ウィステリアは新しいタオルをユーネに渡しつつ、外に出た。
行くのは地下倉庫だ。
ジャックがいつも探し物をしているそこは、前任の灯台守の荷物がたくさん残されてある。といっても、直前にいたマルチアのものではなく、もっと前、ここに人が複数人派遣されていた時のものだ。その頃には灯台守に男もいたらしく、残された衣類がある。
本当は、この地下に残されているネザアスの部屋の服を使えれば良いのだが、あれの鍵はネザアス本人の生体認証だった。
かつて、お守りの血文字の力で、中に入ったことがあったけれど、ネザアスの痕跡を踏み荒らしてしまう気がして、ウィステリアはあの部屋に以降ほとんど入っていなかった。
そうこうしているうちに、あのネザアスのお守りを失った。ネザアスの血文字に反応して、扉が開いていたのだから、今はその扉は固く閉ざされていた。ためしに軽く試したが、ドアは開かなかった。
(もっと、中を見ておけばよかったかな)
それは少し寂しいのだけれど。
「いけない。今はユーさんの服を探さなきゃ」
倉庫に、タンスが押し込んであるのを知っている。そこから男物の新品の下着とスウェットらしきものを引き出してくる。
「うーん、サイズ合うかな。ネザアスさんと同じだとしたら、痩せてるけど、背がかなり高いのよね」
とりあえず、フリーサイズのものがあったので、それを選んでみることにした。
(お風呂場に帰ったら、元に戻ってるんじゃないかな)
そう思ったが、風呂場でバスタオルをかぶって部屋の隅に固まっているユーネは、やはり人の姿をしていた。
ユーネに着替えてもらった後、とりあえずリビングに戻る。
今まで不定形のまま、泳ぐように這っていたユーネは、二本の足で歩くのが慣れていない。フラフラしているので、支えてあげると、ユーネは苦笑した。
「二本足デ歩くノ、難しイな」
「その内なれるわ」
と言いつつ、ウィステリアはぎこちない。
表情も違うし、ずっとあどけないものの、ネザアスに似た顔立ちの彼が、至近距離にいるのはまだ初恋を引きずりまくっているウィステリアにとって、まあまあ心臓に悪い。
ユーネは拾ってきた子猫みたいな、弟みたいなものだと思っていたのに、この姿だと妙にドキドキしてしまう。
「そこ座りましょう」
言われてユーネは、寝床にしているソファに座る。が、落ち着かないのか、きょろきょろ視線を泳がせた挙句、パーカーのフードを被って引き下げて顔を隠してしまった。
「や、ヤ、やっぱリ、オれ、顔、隠した方、アンシンすル」
「え、そ、そう?」
(い、いや、あたしも、落ち着くといえば落ち着くけど、それはそれで残念)
「顔、こわイし、おレ、こーイウ顔好キちがう」
「ええ? そ、そんなことないわよ。素敵よ」
慌てて割と本音の入った慰めをしていると、パーカーのフードの上で何かぺろんと動く。なにか耳みたいなのがついているらしい。三角だ。
(は? あ、あれ、フードに猫耳ついてたの? え、は? あのフリーサイズで、猫耳つきのパーカーなの? だ、誰のよ?)
ウィステリアはひっそり動揺する。
(あああ、どうしよう。ネザアスさんに似てるユーさんに、猫耳ついたのとか着せてしまった)
流石のネザアスも、そんな可愛い服だけは着ていなかった。とはいえ。
(なんか見てはいけない気がするけど、ちょっと可愛い)
しかし、なんだか背徳的な気持ちだ。
(い、いやいや、は、初恋の年上の男性にそっくりになった、何もわかってないユーさんに、見たいからって可愛い服着せるとか、ダメだよね。罪深い)
ウィステリアは早速反省して、ユーネに声をかけた。
「あ、あの、ユーさん、あ、あとで服着替える」
「ナンデ?」
「えっ、いや、その。気に入らないんじゃないかなって?」
「お、おレ、似合っテない?」
しゅんと俯くユーネだ。
「そ、そんなことないの! むしろ似合いすぎてて!」
「似合ウの?」
「あ、あー、に、似合って、るの。すごく」
そう、似合っているから困っているんだ。
「あー、に、似合ってるから、そのままにしてる?」
「ウィスが似合っテる言ウなら、イイ」
ユーネが初めてニコッと笑う。そういう笑い方をされると、やたらと似てしまうのだ。奈落のネザアス本人に。
(ううあ、どうしようー。うまく感情が整理できない)
落ち着け落ち着け。と、ウィステリアは呼吸を整える。
(確かに元から雰囲気ちょっと似てたし、外見が似てしまったら似るのは当たり前! 当たり前! あのひとは、製作時に外見モデルがいたんだし、フォーゼスさんみたいに、容姿が似通ってる人だって普通にいるんだし。そもそも、ユーさんは弟みたいな感じなんだし! ここは、ちゃんと切り替えないと)
ウィステリアはため息をついて、深呼吸してみた。時計を見ると、いつのまにかとうに昼の時間が過ぎている。
「そ、そ、そういえば、お昼ご飯食べてなかったわね。ユーさんも、今なら食べられるかな?」
「ゴハン?」
ユーネが目を瞬かせる。
「簡単なものしか用意できないけど、どうかな?」
この姿のユーネに、どうもサプリメントのみというのも気が引ける。
*
水に
白いレトルトパウチが、寸胴鍋のお湯の中でふわふわ浮かんでいる。それを見ながら、なんとなく海の中で泡を見た時の感覚を思い出す。天井一面、青い世界。
今日は時間がないのと、ユーネにいきなり固形物もなんなので、レトルトのパンプキン・ポタージュにした。
(まあ、気候が夏だから、ちょっと暑いんだけど。さっき水に落ちたし、気持ち的に温かいもの食べたい)
昔、奈落の冒険では、よくレストラン跡地からレトルト食品が箱ごと発見された。それで、奈落のネザアスと一緒に食べたものだ。
戦闘用に作られたネザアスは、他の感覚が鋭敏な分、味覚がほとんど機能していなかった。リアルな人間らしさを追求し、与えられながら、その一点を不完全にしたのは、
食べることで感じられる幸せは、ネザアスに与えられなかった。その分、彼は製作者の期待に応じることで、幸福感を得られるようにされていたのだと思う。
「くらげ」
湯の中で揺れるレトルトの袋が、それを想起させた。
ぽつりと呟くと昔のことを思い出す。あれも青い世界だった。
やはり、あの時の水槽で見たくらげと、奈落のネザアスはどこか似ていた。
どこに行くこともできず、約束された誰かの到来を待ちながら、何も変わらない水槽の中を漂っているようなところが。
それは、記憶がないユーネにしてもだ。
ユーネも誰かを待つように、海の中で漂っていた。あの時のくらげみたいに、もはや誰を待っているのかすら忘れてしまっているのに。
そうしたところが、ネザアスと彼を似ていると感じさせるのかも知れなかった。
「あれッ? ノワル? ノワル変? どうしタ?」
袋を破ってボウルにスープを移していると、ユーネの声がした。
「どうしたの?」
トレイにボウルをのせて、リビングにいくと、相変わらず猫耳ついたフードを被ったユーネが水槽の前でしゃがみ込んでいた。動作が幼いので、なんとなくウィステリアの心臓には悪い。
「ノワル、サカナじゃナクなタ!」
ユーネは心配そうな顔で、水槽を覗き込んでいる。
金魚ににていた黒いノワルは、水槽の中でふわふわたゆたっていた。体は真っ黒だが、大きなかさと触手みたいな足があって、まるでくらげだ。
「サッキのやつ、みたいにナッてる?」
ユーネがそう尋ねてきた。
「うーん、黒物質は変化しやすいからね。別に汚染されてるわけじゃないみたいだし、何かの拍子に変わったんだと思う」
いつのまにかジャックがユーネのそばに来て、水槽を覗き込んでいる。そんなジャックを見やりつつ、
「ジャックだってそうよ。形をちゃんと固定してあげないと、変化しやすいの。ユーさんも、ほら、いろんな姿になれたでしょ」
「ん。ノワル、変にナラナい?」
「大丈夫よ。私は多少黒物質に働きかけられるから、ちょっと後で試してみるね。多分元の姿に戻ってくれると思うわ」
「そ、そーか! 良かっタ!」
ぱっとユーネが笑顔になる。そんな彼にウィステリアは、笑いかけた。
「じゃあ、ご飯にしましょう?」
席に着いたユーネが、ぎこちない動きでスプーンを取る。
ウィステリアはパンも食べるが、ユーネにはスープと強化兵士用サプリメント。サプリメントはジャックやノワルの餌でもあるのだが、早い話、黒物質でできた何かが、体の維持に必要な栄養素を集めたものだ。
問題は珈琲しか飲んでいないユーネが、ちゃんと食事ができるかどうかだが。
そんなふうに注目されると恥ずかしいのか、フードを深く被ってしまうので、ユーネのフードの上の耳が垂れる。
そろそろとスプーンを口に運んだところで、ユーネがびくっとした。
「あつ、ッ」
「だ、大丈夫?」
「だ、ダイジョブ。びっくリしただケ」
改めて、スープをすくいなおして、口に運ぶ。舌先でおそるおそる確認してみるのが、余計に動物感がある。
「アタタカ」
ユーネがふと緊張を解き、もう一口口に運ぶ。
「こレ、なんカ、まろヤか」
ユーネはそう言って目を細める。
「温かいタベモノ、珈琲以外初めテ! これ、イイな」
「それなら良かった」
ウィステリアは微笑みながら、ふと、水槽のノワルに目を止めた。相変わらずノワルはくらげだ。
(そういえば、ノワルちゃんは、どうしてくらげになったんだろう? ユーさんやあたしが、くらげのことを考えてたから?)
あんな簡単な黒物質に、他人に感応する力はないはずだが。
(魔女として、
「まさかね」
ウィステリアはぽつりと言って、自分もスープを口に入れる。
確かにまろやかで、甘くて、なんだか懐かしい味がした。
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