9.扇風機に唸りをあげて —団扇—-1
花札をテーマに作られたこの場所は、一応、その名前の月の気候に合わせられていた。
したがって、葉月から文月のエリアは非常に暑い。
奈落のネザアスは、特段暑がりでもなかったし、彼の特性を考えると寒い場所も暑い場所も平気だったはずだが、どういうわけか普段は人並みに寒暖の差を感じるらしい。
この家屋は、古い家をイメージしているらしく、エアコンの類が全く用意されていない。電気は通っているのだが、あるのはうちわぐらい。
体が痩せ型なことを気にしている彼は、あまり薄着にならないが、もはやそんなことを言っていられる気温でもなく、タンクトップにハーフパンツという稀に見る薄着だった。
そんな服装の時の彼は、ただのちょっとガラの悪い兄ちゃんぽくみえる。
戦闘後にここにもどってきて、とりあえずシャワーを浴びて、汚泥を落とし。
ネザアスは、普段は戦闘後のクールダウンなどしなくて良い設計だ。しかし、熱が体に蓄積するのは良くないらしく、冷やすほうが理想的であるとのこと。
ところが、今日はこの暑さのせいか、体温の戻りが遅いらしく、暑さにうだりつつ、涼しいところを求めて、猫みたいに部屋の片隅に座っていた。風の通り道らしく、涼しいのだとか。
とはいえ、快適とまではいかず、はたはたと優雅にうちわを使っていたのが、徐々に黒騎士の全力を持って、高速でばたばたあおぎ始めて今に至る。
「くそー、うちわ、全然涼しくならねえ」
「人力じゃ限界があるよねえ」
「扇子とどっちが涼しいかなあ」
一応、武士風のデザインがなされているネザアスは、ちゃんと男の嗜みとして扇子を持ち歩いているらしいのだが、扇子よりうちわの方がマシそう、とうちわに乗り換えたところだった。が、当たり前だが大差はない。
スワロと洗面所から戻ってきたフジコの手には、綺麗に洗われた青い扇風機の羽がある。部屋の片隅に放置されているのを見つけたのだ。
それを埃を払った扇風機に組み込み、コンセントを入れて、やたらガチャガチャなるスイッチを押すと、扇風機が勢いよく回り出した。
「ネザアスさん、この扇風機、ちゃんと動くみたいだよ」
「マジか! いっても団扇の上位互換だよな、こいつ!」
溶けそうになっていたネザアスが、ばっと起き上がるが、不意に不安な顔になる。
「しかし、古いからな、爆発しねえかな」
「うーん、それはわからないけど、スワロちゃんは大丈夫って」
ぴー、とスワロが鳴く。一応、チェックはできるのだ。
「まあいいか。それじゃ使おうぜ」
「あたし、冷蔵庫から何か飲み物持ってくるね。冷えてる飲み物ありそうだったよ」
テーマパーク奈落は、放置された時にたくさんの食料や飲料、備品を残していた。賞味期限も長いものも多く、モノの現地調達はさほど困らない。
「じゃあ、ちょっとコイツ独り占めしておくぜ。今日は暑いから体温下がるのが遅いんだ。別に機械じゃねーからオーバーヒートはしねえけどさ、おれたちは、あんまり長い時間体温上がると、記憶領域に支障出ちまうんだよな」
そんなに大きくない扇風機を抱え込むようにして、溶けかけているようなネザアスが風を独占する。ちょっとかわいそうだが、なんだか面白い。
スワロとフジコは、彼を置いて台所にやってきた。
「スワロちゃんは、機械だけど暑いの平気なの?」
暑いと熱暴走することもあるだろうけれど、と思ったが、得意げにぴぴーと鳴いているので、大丈夫なのだろう。
「羨ましいな。あたし、暑くてバテバテだよ」
そう言って、ラムネを持つ。よく冷えた瓶のラムネだが、フジコには開け方がさっぱりわからない。ネザアスなら知っているだろうか。
なんだか、瓶の蓋の代わりにガラス玉がいれてある。キラキラして綺麗だ。
他にも瓶のメロンソーダなどがあって、それなら栓抜きで開けられたから、フジコはそれをガラスコップに入れた。
色が涼やかで綺麗だ。
お盆に乗せてネザアスに持って行こうとしたら、不意にびりびりした獣の唸り声みたいなのが聞こえて、フジコはびくりとする。
「あああああああ゛ーー」
ネザアスが扇風機に向かって、何故か発声練習をしているのだ。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ー。あーーー」
「ネ、ネザアスさん、何やってるの?」
やや引き気味にフジコが声をかけると、ネザアスが我にかえる。
「あ? いや、やらねえ? これ」
ネザアスはまじめに返してきた。
「え、えーっとー」
そりゃあ、もっと子供の時にはやった。
「今はやらないかな?」
「そ、そうかあ。いや、この形の扇風機みてたら、つい。この声がビリビリすんの、良いよな。楽しいぜ?」
そんな子供みたいなことを言うネザアスだ。
そんな彼に吹き出しつつ、フジコはそっと飲み物を差し出す。
「これ、一緒に飲もう。冷えてるよ」
「お! いいな! ラムネもあんのかー」
「でも開け方わからないよ?」
「開けるやつあるかな。もうちょい涼んだら探そうぜ。開けてやるよ」
泡ののぼる炭酸飲料。メロンソーダのおもちゃめいた色彩。
扇風機に当たってもまだ暑そうなネザアスに、うちわをあおいでやりながら、一緒にガラスコップで飲んだ飲み物は、甘ったるいくせに爽やかだった。
*
水の中にたゆたう感覚が、ぼんやりとウィステリアを包む。
天井から降りる青い光。しゅわしゅわと立ち上る無数の泡。
目の前に黒いくらげのようなものが浮かんでいた。しかも、二つ。
(夢の続き?)
そんなふうに思った時、くらげのようなものが激しく争い、いっそう白い泡が沸き立った。
そして、くらげの一つがウィステリアを呼んだ気がした。伸ばされた手のようなものがウィステリアを担ぎあげる。
引き上げられて、海面に顔を出し、ようやく息を吸う。げほげほ咳き込みながら、ウィステリアはようやく、自分が海に引き込まれていたのだと知った。
「ウィス、だいじょブ?」
自分を抱えている、温かな黒いものはユーネだ。
「ユーさん」
そんなユーネの右側の一部が細やかに引き裂かれている。先ほどの感触は彼のそれだ。
きっとあの時、彼にかばわれた。
「ユーさん! 傷……!」
「おレはへーき! こんナの、すグなおる!」
ユーネはウィステリアを桟橋にひきあげて、きっと相手を睨んだ。
「それより、アイツ、まだウィスのお守リ、持ってル! 取り返ス! ここデまってテ!」
「あ、ユーさん!」
心配するウィステリアを振り切って、ユーネは海に戻る。
ざっとユーネは左のひらひらを変形させる。攻撃態勢の彼のそこには、刃物のようなものが埋まっている。それを使って彼は相手を斬るのが、常套手段だった。
しかし、くらげみたいな囚人も、やはり強敵だった。ユーネの見立て通り、それはかなり体が大きい。弱い囚人を相当共食いしているということだ。
ユーネはコアのエネルギーしか食べなかったが、普通の囚人はその体ごと取り込む。自らの
くらげの本体の一部に、ウィステリアのペンダントトップが埋まりかけている。
(あれ、ネザアスさんの? だからかな?)
あのくらげは、ペンダントを正確に狙っていた気がする。ペンダントのガラス瓶の中には、ネザアスが血文字で書いたお守りのメモが入っているが、ネザアスの血文字とは、彼を構成するナノマシン
弱い汚泥や囚人なら、確実に怯える。そんな黒物質上位互換の物質が
だが、あのように大きくなり、ユーネすら捕食対象としてみているような泥の獣は、きっとネザアスの一部すら欲しがる。
ユーネとくらげは激しく争っている。ユーネは、海でも息が続くらしいので、そう簡単に不覚を取ることはないが、彼女はユーネの怪我が心配だった。
しかし。ざあっとユーネが水上に飛び上がる。普段の不定形の体から、今の彼は魚のフォルムに近い姿をしていたが、水上に姿を見せた彼は少し人間に近い姿だった。人間というより、三本足の虫のような。
その姿は確かに恐ろしく、ユーネはウィステリアの前でその姿を基本的に見せない。
「お前ッ、そレ、カエセ!」
ユーネは怒りに任せて、くらげを襲う。ざっ、ざば、と何度か海中で揉み合っている気配があって、黒い液体が飛び散る。
不意にきらきらと空中に何かが舞い踊る。それを追いかけて大きな口の異形が飛び上がり、噛み砕く。
その破片を続けて追いかけてきたユーネが力任せにぶんどると、そのまま獣を頭からまっすぐに斬り下ろし、中のコアを突き刺した。
くらげの囚人は、黒い体液を撒き散らしながらそのまま海に溶けていく。
「ユーさん!」
ウィステリアが駆け寄る。
「ごめン、ウィス。割れちゃタ……」
ユーネは元のヒラムシみたいな姿に戻りながら、コアを求めて追いかけることもなく、泳いで戻ってきて桟橋を登る。
その手に、バキバキに割られたあのペンダントの破片があった。
「……ごめん。ウィス」
「ううん。ユーさんこそ大丈夫?」
大切なペンダントだ。それが傷ついたことは、もちろんウィステリアにはショックだったけれど、自分のせいで怪我をしたはずのユーネも心配だった。ユーネの右側は、まだ修復途中で不自然に黒い組織が垂れ下がっていた。
「おレ、すぐ治ル。ウィス、大丈夫ダッタ? 怪我シテない?」
「うん、あたしは大丈夫」
ユーネに抱きつくウィステリアの手は、少しふるえていた。
「コレ、破片ダケド、中身無事。ウィスに返ス」
元気付けようと、ユーネがペンダントの破片を渡そうとして、そしてふと手を止めた。
「ア」
ユーネが声を上げる。
ガラスの破片の中のメモ。水に濡れて溶けかけたそれ。
あのネザアスの血文字のメモが、何故かユーネの体にうまっていく。すうっとユーネの体に溶けていってしまう。
「あ、ダメ! だメ!」
慌てて手を振るが、メモはそのまま消えてしまった。ユーネは手を振ったり、体をゆすったりしたが、紙切れは戻ってこない。
「ど、どうシヨ……。おレ、おマモリ、飲みコンじゃッタ」
ユーネは、狼狽した様子でぽつりとつぶやいた。
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