8.彼等の感触 —さらさら—
「あーあ、また髪の毛伸びちまった!」
奈落のネザアスが、ある朝、開口一番ぼやいた。
着替えを終えたネザアスは、いつもの派手めの着物風の衣装に袴を履いているが、珍しく後ろの髪が長くほどけたままだ。
「あれ、髪、昨日短かったよね?」
たまに、ネザアスは後ろ髪を根元あたりからバッサリ切る。が、気がつくと元に戻っていることが多い。
「フルタイプってのは、ま、体のデザインはあらかじめ決まってるわけだ。だから、ダメージ受けると元のデザインに戻る性質があるんだよな。髪なんかもそう。しかも、ヒトらしい成長というかはあるから、爪が伸びたり、髪が伸びたりは普通にする」
ネザアスの場合、右手が使えないので左手の爪を切るのがたいへんで、フジコもたまに手伝ってあげた。一人の時はどうしてるのかと思ったが、スワロの手を借りたり、爪やすりで整えているらしい。
爪伸びるとか、そんなリアルさいらねえのになあ、と、ぼそっとぼやいている彼を、フジコは見たことがあった。
それは髪の方もそうだ。ネザアスは髪を短く刈り込んでいるが、後ろ髪の一部だけが長く、それをまとめている。長くなったら、街のほうに出向いて行きつけの床屋で整えてくるのが普段の彼らしいが、ところが長髪にしている後ろ髪の伸びるスピードだけがおかしい。
それが、元のデザインを回復させる力によるものらしい。
「でもよー、散髪いくの面倒だし、お前との任務中は無理だしな。で、そういう時は大体結んでるんだが、この辺のエリアは暑いだろ。サッパリしたいぜ。てことで切る!」
そう言って数日前に切ったばかりの後ろの髪が、今朝起きたら元の長さに戻っているのだ。
「ふざけんなだよなー」
あーあ、とネザアスは伸び上がる。暑苦しい、とネザアスは不機嫌だ。肩のスワロが、乱れた髪の毛を摘んで後ろに流す。
「そんなすぐに戻っちゃうの?」
「まあな。大怪我したりすると、特にな。急速修復した反動で髪の長さも元に戻ったり、伸びすぎたりする。だけど、ここんとこ、なんもしてねーのに。あー、もう、これ欠陥だろ」
オオヤギのやつが悪い。と、彼の製作に関わっているらしい、あの心優しい町医者に文句を言う。
「でも、ネザアスさん、髪長いのも素敵だよ?」
短いのもサッパリしてていいけれど。最初に出会った時には長かったから、長い彼の方が見慣れている。
「でも、結ぶのめんどくせえんだよなー。しかも伸びたては要らねえとこまで伸びてるから、ちょっとカミソリで削いだりしねえとなんねーし。あー、面倒くせえ」
ネザアスは紐を口でくわえつつ器用にさらっと髪を結ぶが、左手だけなので大変そうだ。
ちょうどフジコと彼が出会ってから、三ヶ月すこしが過ぎていて、フジコも彼に気安くなっていたこともある。
フジコは自然と申し出た。
「あたしが結んであげようか?」
「へ?」
「えと、ネザアスさんが、よければなんだけど」
言い出しておいて、なんとなく恥ずかしくなり、フジコがトーンダウンする。
「お、おれは別に構わねえけど」
改めて言われると、ネザアスもちょっと照れてしまうらしく、何故かぎこちない。
「そ、それじゃあ、きょ、今日は頼もうかなあー。よろしくな、お嬢様」
そんなわけで、ネザアスを座らせてフジコはその背後に立つ。
普段は、ちょっと危ない不良兄貴なだけのネザアスだが、彼は本来は戦闘用に作られた黒騎士。実は、背中を取られるのが好きではない。
そんなネザアスが、カミソリまで持ったフジコに、背中、まして首筋のすぐ近くを任せるのは、絶対的な信頼のあかしではあり、フジコはそれがちょっと嬉しい。
最初に櫛を入れてみる。ネザアスの髪の毛はもっと針金みたいに硬いのかと思っていたが、ちゃんととかせば意外とさらさらだ。
「この辺りは削いじゃっていい?」
「おお、本当は、バサッとやってもらってもいいんだけどな」
「それは、あたしも怖いよ。髪、変になったら責任取れないもん」
フジコは苦笑する。だから、明らかに変なところを削いで整えて、結んであげるだけだ。
フジコは自分の髪を毎日三つ編みの二つ結びにしているから、髪を結うのは苦手でないが、ネザアスみたいな年上の男の髪を触るのは初めてで、なんとなくドキドキした。
それがネザアスにも伝わったのか、彼が照れた様子でちょっと苦笑する。
「な、なんか、恥ずかしいな」
「そ、そうかな? 美容室でもそうするでしょ」
「お、おれは、そんな洒落たとこいかねぇから」
「で、でも、ネザアスさん、意外とさらさらの髪なんだね」
気恥ずかしくなり、慌ててフジコが話を逸らす。
「悪口じゃないんだけど、もっとゴワッとしてるのかなって」
「はは、まー、でも、前髪とかは短髪がデフォルトの設定だし、後ろに比べて結構硬めかもな。でも、おれはなんてえか、
とネザアスは苦笑する。
「もともと
「へえ、そうなんだ! それでなのね」
「でも、実はサラサラしすぎて髪の毛ゆいにくくてよ。ガッツリ結ぶの大変なんだ」
「あははっ、それはそうかもね。それじゃ、今日は珍しい髪型にしても良い?」
「へ?」
ネザアスがきょとんとする。
気づくとフジコとフジコの肩のスワロが、何故か興味津々になっている。
「前に雑誌で見たモデルの人みたいに、複雑に編み込みとかしてみたいな! まとめにくくても、なんとかやってみればできるかも」
「お、お、おう?」
奈落のネザアスは、女性陣(スワロの性別はよくわからないが)の好奇の眼差しに引き気味だ。
「いいよね? ネザアスさん」
圧がすごい。ネザアスが、気まずそうになる。
「あー、あー、そ、そう、だな。い、いい、よ」
思わず応えたネザアスは、そのまま椅子の上に一時間監禁され、あーだこーだ髪のセットをされたのだった。
その日からネザアスは、時々フジコやスワロのおもちゃになって、編み込みの上細やかな三つ編みを根元でまとめた、ちょっと小洒落た髪型であることもしばしばだった。
*
さらさらと書きつける音。
そんな音で思い出す、奈落のネザアスがあのとき書いてくれたお守りの鏡文字。
ペンダントのガラス瓶に入っているのは、霜月のエリアでの最後の日、巨大な泥の獣との戦いの直前に、奈落のネザアスがフジコの身を守るために作ったお守りだった。
「おはよう、ネザアスさん、スワロちゃん」
夜型なユーネは、最近、真夜中に起き出して、なにやら手帳に書きつけている。その音が耳に入ったのか、今日の朝はそんなことを思い出して、毎日のように写真に挨拶をするウィステリアだ。
未だにあの時のお守りのメモは、ウィステリアのペンダントのガラス瓶の中に入っている。
「そういえば、あれ、何て書いてあるのか、あたし、まだわからないのよね」
短冊の鏡文字もよくわからない。鏡にうつすとアルファベットになるが、英文にするには暗号を解かないといけない。それがわからない。
「ネザアスさんに、暗号、教えてもらいたかったな」
ぽつんと呟きつつも、彼女は以前より寂しそうでなかった。
「ウィスー」
泥の獣ユーネの声が聞こえる。相変わらず、声に歪みがあってかなり濁っているが、慣れると聞き取ることはできる。
「あ、待って。ユーさん。種火持って行くから」
そう、もう外に出ているユーネにこたえて、ウィステリアは写真のネザアスに挨拶をする。
「ふふ、お友達ができてから、少しこの島の生活が楽しくなってきたわ。彼、なんだかネザアスさんに似てるの。行ってくるね」
そういって、種火を持って、ウィステリアは部屋を後にする。
いつしか、彼の声の幻聴は聞こえなくなっていたが、ウィステリアは寂しいと思わなかった。
*
いつものように灯台に火を入れにいく。最近は、大体ユーネも泊まっているから、朝は桟橋を一緒に渡る。
灯台の火には、泥の獣を恐れさせるなにかがあるらしいが、ユーネはそれに影響されない。それが彼が強いからなのか、それとも、ユーネが悪いものではないからか。
ウィステリアには判別はできないが、全く反応していないので、多分後者なのだろうと思う。彼は正確には、泥の獣ではないのかもしれない。
それで、いつものように桟橋で歌を歌って、朝ごはん。最近はそこにテーブルと椅子を置いている。
ユーネは、相変わらず人間の食べ物はあまり食べない。ただ、珈琲は気に入ったらしく、椅子に座るというよりよじ登って、ブラック珈琲を一杯まったり飲むのがこのごろだ。
「あの写真ノ、小鳥可愛イなー」
奈落のネザアスには、顔良くない、アイツ絶対悪いやつ、と決めつけるユーネだが、スワロのことは可愛いと高評価だった。
「おレも、あんな小鳥欲しイ」
「ユーさんは小鳥が好きなのね」
「んー、ノワルが小鳥だったラな」
「金魚も可愛いのに?」
「うむ。ノワルは今でも可愛イケド、水槽ノ外出せナイ。小鳥ナラついてキてくれるカラ」
ユーネは、ため息のようなものをつく。
「ソレに、オれ、昔、小鳥飼ってタ。デモ、どこか行っちゃっタみたイ。ズット小鳥探しテル」
「それは、記憶の断片みたいなの?」
「タブン」
ユーネは左のひらひらを手のような形にして珈琲を啜る。ユーネは左側は使えるが、どうも右側は変形がうまくできないらしく、あまり使えないようだ。
「それで小鳥の餌付けしてるの?」
「ソレもあるガ、小鳥、可愛いダロ? 可愛いハ正義」
どこで覚えてきたのか、そんなことを言う彼に思わずふきだしてしまう。
「あ、ソウ、この間貰っタ、ぱんノ屑トカ、リンゴ、あれもいっぱい小鳥キてた!」
ユーネは頭の突起に挟んでいた手帳をぺろんと取り出す。
なるほど、そんなふうに使えるのか。意外と便利だ。
手帳はこの間、ウィステリアが万年筆と一緒にあげたが、ユーネはそれを後生大事に持っている。
「おレ、ちゃんとキロクしてる」
ユーネは文字が書ける。しかも、なかなか字がうまい。
そんな彼が左のひらひらを手のようにして、さらさら書くのは、毎日のウィステリアの歌と、餌場の小鳥の状況だ。意外とまめだ。
「おレ、ここノ木の実しかアゲてなかっタから。餌違うと、きてル鳥も違うミタイだな」
楽しい、と彼はいう。
「ユーさんは小鳥になつかれてるわよね」
「じっトしてると、アイツら来る」
岩と間違えられるのか。餌場にユーネがいるのを見たことがあるが、頭に何羽も小鳥が乗っていて、なんだかほのぼのする光景だった。
「ユーさんは、なんかさらさらするもんね。乗り心地いいのかな?」
「そウ?」
「うん。ちょっとだけ撫でていい?」
きょとんとするユーネの額といってよいのか、目の上あたりを軽く撫でる。これが、すべすべさらさらで、妙に手触りが良い。
「うん。ずーっと触ってたいくらい」
「撫でられるの、スキけど。ちょっト、恥ずかしイなー」
「ふふ、ごめんなさいね」
ユーネは照れてしまうが、ウィステリアはもうちょっと手触りを堪能する。なんだかでかい猫をなでているようで、癒されるのだ。まあ、ユーネにはふわふわの毛はないのだけれど。
(そういえば、昔聞いたな。上質な
ネザアスの髪は、あれで、とてもするりとしてサラサラしていた。
(黒物質って、不思議だな。今では忌み嫌われてるけど、きっと作られた時はそうでもなかったんだろうな)
当時は、きっと夢の万能物質だったのだ。なんにでもできる夢のナノマシンとして、あれは作られたはずだった。それが今では、穢れとして嫌われている。
でも、元のそれ自体はよごれてもいなくて、こんなふうに手触りも良くて、ユーネやジャックやノワルみたいに可愛らしくて。
結局彼らを汚したのはヒトだ。
「ウィス」
ふと、ユーネがテーブルに隠れながら囁く。
「ダレか、いる」
「え?」
ユーネの視線を辿ると、かなり遠くの草原に人の姿がいくつかちらりと見えた。
白い服だ。
ユーネは目は良くないのだが、気配に敏感だ。こんな遠くのものでも、何かしら感づく。
「ああ、フォーゼスさん達の部隊よ」
ウィステリアは、ほっと一息ついた。
「大丈夫。今日は島のあっち側を捜索するとか申請あったの、グリシネ経由できいてるわ。今日は隊長さんは来てないかもしれないけど、近づいてこないと思う」
「ふぉーゼス? アイツ?」
むーとユーネが不機嫌になる。何故かユーネはフォーゼスには厳しい。やきもちなのかもしれないが。
「なんでも、最近、泥の獣の大きなのがいるみたいでね。島の周囲にいるんだとか。ユーさんは、かんじたりしない?」
「うーん、そーダナー」
ユーネは、むーと眉根を寄せる。
「タシかに、オれの縄張り、荒らされテルカンジ。小さいヤツ、最近イナイ。おレにビビってるのもアルけど、食われテルのかも」
「そうなの? あたしの歌が効いてない相手かしらね」
「そうダと思う。あと、タブン、そいツ、ステルスきのーある」
「ステルス機能?」
ユーネが意外と専門家みたいなことを言うので、ウィステリアは目を瞬かせる。
「ん、すてるス。おレの勘でモわかんナイ。気配消シてる。多分ダけド、ウィスの持ってルレーダーでも引っかかっテない。そーゆーヤツ、強いカラでかくなル。あと、より上質ナ相手食うノスキ。オれとか他のでかいヤツ、狙ってクルことも」
ユーネは、ふと珍しい険しい表情をする。
「気をツケないとナ」
「そうね、ユーさん」
と、不意に着信をつげる音がして、ウィステリアは慌てて通信用端末を取り出す。
「ユーさん、そこで待ってて。グリシネだわ」
彼女とのビデオ通話は少ないが、万一、ユーネが映り込んだら面倒だ。遠くから見ている白騎士には、ペットのジャックといえば誤魔化せるが、至近距離で映像に映り込むと、とても誤魔化せない。
慌てて着信に出ようとして、たたたと桟橋を走る。
「はい。こちらはウヅキ……」
そう言いかけた時、不意に桟橋の隣で水の音がした。ざばあと波があがり、何か黒いものが目の端にうつる。
「ウィス!」
ユーネの声が響く。
ウィステリアの目の前に、真っ黒で大きな丸いものが現れていた。うねうねうごく触手のようなもの、まるで真っ黒で大きいくらげのような。
『ウィステリア、どうしました?』
端末からグリシネの声が聞こえたが、ウィステリアは返答できない。
目の前のくらげのような泥の獣は、くらげと違って、真っ黒な瞳とぱかりと開く大きな口を持っている。
ユーネが言う通り、その獣はかなり大きく強いものだ。
一拍おいて黒い触腕が伸ばされる。その時、強い力でウィステリアを後ろから引くものがあった。
触腕がそれを引き裂くがウィステリアには届かない。引き裂かれて細くなった黒いものが、かすかに頬を撫でる。さらさらのなんとなく懐かしい感触がした。
それを押しのけるようにして、ウィステリアの胸元のガラス瓶が、黒い爪に引っ掛けられる。鎖が切れて、それが宙に踊る。
あの中にあるのは、ネザアスのお守りだった。
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