5.獣の性(さが) —線香花火—-2
夜になってもユーネは目を覚さずに、すやすや寝ている。
そんな彼に釣られて、ウィステリアも黄昏の儀式と夕飯の後、反対側のソファで、ブランケットをかぶったままうっかり寝落ちしていた。
いつのまにか、雨の音が止んでいる。心地よい闇の気配。夜が深まっている。
代わりに、ぱちぱち音がした。
ちかちか。
夢の中で、線香花火の火花が散っている。そばにはあの人の気配がした。
けれど、何か違和感がある。彼女は、うっすら彼から距離を取っていた。
——ウィス。
あの人が口を開く。
その声がほんの少し寂しげだ。
——おれのことが怖いか?
そう尋ねられて、忘れていた記憶が、感覚と共に思い出されて、彼女は夢から現実に引き戻された。
一瞬、ぞっと寒気がして、彼女は目を覚ます。
暗い室内に誰かの気配があった。
すす、ささ。と音がして、窓際になにか大きな黒いものが蠢いていた。
「んー、よく寝タ……」
その濁った声は、あの泥の獣のユーネだった。
雨は上がっているらしく、窓から月明かりが差し込んでいた。
「月、キレーだナ」
ユーネはそれを眺めたあと、ウィステリアが用意した水を飲んでいた。不定形の体の左の方から腕のようなものが伸びて、コップで水を飲む。
さささ、とユーネが動く。ウィステリアが寝ているソファの後側で、ユーネが止まった気配がした。
ユーネが自分を見ている。視線を感じる。
その瞬間、なぜか悪寒が走った。
大人しいことを知っていても、彼は泥の獣。一つ目の真っ黒な人外の異形。その大きな目で見られている。
(あれ? どうして、あたし)
思わず胸元で手を握ると、かけたブランケットが床に滑り落ちる。
(あたし、どうして、ふるえてるの?)
もし、ユーネが本当に凶暴な獣だったら、きっとこのまま殺される。身を守ってくれるジャックより、彼の方が当然格上。今彼がほんの少し動くだけで、簡単に彼女は殺される。
(なんで? あたし)
ウィステリアは、別に彼に殺されても構わないと思っていた。しかし、その背中に黒い獣の気配を感じると、怖くて仕方ない。
その大きな目は、やはり異形のもの。何を考えているのかわからない。得体が、しれない。
(でも、別に……)
彼女は恐怖を飲み込みながら、言い聞かせる。
(あたしが死んだって、悲しむ人もいないし。誰も待ってないし。それだから。そ、それに、彼は可愛いところがあって、あたし、彼と仲良くなりたくて)
そうなってもいいと思って、彼を家に招き入れたのに。
なのに。
(今更、後ろにいるものがこわい!)
身動きができない。かすかに呼吸があがる。
「寒イのカ?」
そんなふるえがわかったのか、ユーネの声が聞こえた。
「毛布、落ちテる。風邪、ヒいちゃウ」
ユーネはソファの前にやってきて、落ちたブランケットを引っ張り上げて、ウィステリアにかける。
「これデよし」
彼が笑った気配がした。
しばらく沈黙が流れる。
「ウィすてりア」
不意に声をかけられてどきりとする。しかし、彼の声は潰れているが穏やかだった。
「ヤッパり、おレ、怖イだロ?」
ユーネの声には、諦めが混じっている。
「おレ、多分、お前たちニとっテ怖イ。おレのカラダ、あの泥ダシ、きっと、ヨクないモノ。怖いノ当然。気ニするナ」
彼女が聞いているのかどうか、確認もせずにそう言って。
「オれな、夜、ここにイルのヨクないと思ウ。夜、おレ達の時間。怖いノ当然。ダカラな、オれ、入江ニ帰ル。今日、泊めてクレてアリガとう」
ユーネの声は、寂しさを押し殺したような明るさがある。
「おやスミ。良イ夢ヲ」
そういうと、ふわふわっと彼が出て行く気配がした。
——おやすみ。良い夢を。
そういえば、彼もよくそんなことを言っていた。何かの定型句みたいに。
いや、多分あれは本当に定型句で、きっと彼のかつての仕事のおやすみの挨拶だったのだろうけれど。
「おれのことが怖いか?」
あの時のネザアスの声がきこえた。
さっき見た夢の内容が、ウィステリアの脳裏に再生される。
*
泥の獣の気配は、彼ら黒騎士の戦闘本能をくすぐる。ネザアスは特に攻撃的な性格の騎士であるらしく、必要以上に好戦的だった。
奈落のネザアスが好きだった彼女でも、そんな暴力的な彼を、怖いと思ったことがないわけではない。
「はっはー!」
奈落のネザアスの、狂気めいた笑い声が響いていた。
強化された特殊な刀を操る彼は、自分の生体エネルギーを熱源に変えて、そこに流し込むことができるらしい。左手の手首の皮膚の下に直接ケーブルを繋げ、感覚を共有しながら戦うのだ。
そういう時の彼は、戦闘の高揚感に酔いやすい。戦闘兵器として作られた彼は、相手を翻弄して倒すことに、特別な愉悦を感じるように作られていたし、戦うことこそ彼の存在意義。それを満たすその行為を、肌で感じることができることが、彼を狂気めいた暴力の快楽に落とし込んでいく。
「ふははっ、今日はイイ気分だぜ!」
泥の獣の返り血は、真っ黒な汚泥だ。顔までその泥に塗れて、奈落のネザアスは愉悦に浸って笑っていた。
そんな彼が、ふとフジコに目を向けた。思わず彼女は身をすくめた。
そんな彼女を見た瞬間、ネザアスがはっと我に返ったようだった。
今日、宿舎にしている一軒家は、古い一般的な家庭の家をモデルにして建てられている。庭があまり荒れていないのは、まだシステムが生きていて、ずっと現状維持を続けているからのようだった。
縁側に腰掛けて、風呂上がり、浴衣めいた服装のネザアスと、フジコは線香花火をした。
点火すると、ちかちか、ぱっぱっと線香花火は燃えて光を放つ。
「線香花火って、可愛いよな」
ネザアスの声が聞こえた。フジコは答えなかった。
やがてその光が小さくなって、燃え尽きて重たくなった火の玉が、静かに地面に落ちていく。
儚い。ほんのり物悲しい。
「終わっちゃった」
ほのかに明るかった場が真っ暗になり、フジコはぽつんとつぶやいた。
「ウィス」
フジコの手の先を眺めていたネザアスが、ため息をついた。
「おれのことが怖いか?」
「え?」
いきなりのことに、フジコはどきりとした。
けれど、あれから、確かにフジコは、少しネザアスを避けていた。夕飯の時も、ネザアスが気を遣って話を振るが、フジコは言葉少なでぎこちなくなるばかり。
花火に誘われなければ、きっと自分の部屋に引きこもっていた。
「別に無理しなくていいぜ。おれ、性格、あんまり良くねえし」
ネザアスは俯き加減にいう。
「おれは、ほら、見境ねえとこあるし。冷徹な方だし。顔も怖いし。あと、その、な、人間じゃねえし」
ネザアスの言葉が、じんわりとにじむ。
ネザアスは、自分が人間でないことを十分自覚しているが、それを告げるときはいつも悲しそうだった。
「おれは、戦闘用に作られた化け物だからよ、怖くて当然だ。だからな」
ネザアスは深くため息をついた。
「だから、その、な。おれが怖いなら、無理しなくていいからな。おれ、自分でそういうの加減できねえのよく知ってる。おれ、結局、戦闘狂の化け物だから」
ネザアスは立ち上がった。
「そのな、元気出たらと思って、花火誘ってみたけど、余計気を遣わせたかも。そばにいられたくなかったら、ちゃんと距離をとるから」
ごめんな、とネザアスが謝る声が聞こえた。
「おやすみ。良い夢を」
フジコははっと立ち上がって、歩きかけたネザアスに後ろから抱きついた。
「あ、ウ、ウィス?」
「ごめんなさい!」
バランスを崩しながら戸惑う彼に、フジコは涙ぐんで言った。
「怖がって、ごめんなさい」
彼がそういうものだって、理解していたつもりなのに。その上で彼が好きだったはずなのに。
「ごめんなさい。でも、行かないで!」
彼のことをわかっているのに、それでも怖くなる自分が、あの時フジコは許せなかった。
*
ウィステリアは、慌てて起き上がり、駆け出した。
「待って!」
「ウィス?」
に出ようとしていたユーネは、びっくりした様子でウィステリアを振り返った。
ウィステリアはたまらずに彼に抱きつく。ふんわりバニラの香りを残した、柔らかい感触が彼女を受け止める。
「ウ、ウィス? ナニ? ど、ドうしタの?」
「怖がって、ごめんなさい」
ユーネは驚いて、大きな目を瞬かせる。
「ごめんなさい」
抱きついたまま、ウィステリアは涙ぐんでいた。ユーネの方が焦り出す。
「なんデ? 謝らなくテイい」
ユーネは、困惑気味になっていた。
「ううん。あたし、ちゃんとわかってて、あなたを招き入れたのに、結局、怖くなってた。あなたのこと、怖くないつもりだったのに」
「ソ、そレは、そノ」
ユーネは困ったようにおろおろしつつ、
「ソレ、普通。おレ、だっテ、エト……」
「ごめんなさい。そばにいて。もう、怖がらないから」
「エ、あ? ナ、泣いテる? な、泣かナイで」
ぎゅっとウィステリアに抱きしめられ、ユーネは困惑気味だったが、やがてそろそろと尋ねる。
「ウィスは、モシカシテ、悪イ夢見タ?」
落ち込んだ様子のウィステリアを見上げて、ユーネは尋ねる。ウィステリアがうすくうなずくと、ユーネは左のひらひらを少し手のようにしてウィステリアの頭を撫でる。
「わ、悪いユメ、怖いよナ。デ、でも大丈夫。ユメはゆメだから」
ウィステリアのそれは、ただの夢でなく、黒騎士の彼の気配に反応して過去を再生してしまっているだけだから、真実あったことだけれど。
ユーネはしばらくそうしていたが、何事かといつのまにか彼等を追いかけてきたジャックをみて、声を上げた。
「あ、そ、そうダ! せんこー花火しヨう!」
ユーネが慌てていった。
「オれ、せんこう花火見タイ! 一緒ニ花火しよウ!」
「え?」
ウィステリアはきょとんとする。
「花火、キレイだかラ、見たら元気ニなる!」
ユーネは焦った様子で言った。
「外、晴れタ! な! ハナビしよ!」
彼はは、慌てて机の上の線香花火を持ってくる。
彼にせかされて、中庭のテラスに出ると、2人で線香花火に点火する。
ぱちぱち音がして、小さな火花がちらちらした。
「ふふ、せんこウ花火ッて、きれーで可愛いな」
なんだかどこかできいた台詞だ。
(そういえば、そうだったな。あの時も)
そういえば、フジコに泣かれて困ったネザアスも、慌てて他の花火を持ち出してきた。打ち上げ花火はなかったが、湿気っていないものがまだあって、一緒に夜遅くまで花火をした。
儚く散っていく線香花火の火花。けれど、見ているとなんだか気持ちが落ち着く。
ユーネがそろっと近づいてきた。
「ウィス、元気デた?」
「ええ。ありがとう」
「そうか、良かっタ」
不思議と、もう彼のことは怖くなかった。けれど、またいつか、彼のことを怖いと思うことがあるかもしれない。
——おれのことが怖いか?
そう尋ねるネザアスに、きっと今でも怖くないと言える自信はないけれど。
視線の先で、線香花火の最後の残火がおちる。
(怖くてもいいから。それでも、そばにいて欲しい)
今ならそう答えられると思う。
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