鬼ごっこ

尾手メシ

第1話

 空を低く押し下げて、黒く雲が伸し掛かっている。天から落ちた水滴が、周囲の水滴を巻き込みながらぐんぐんと加速して、強かにアスファルトを打った。飛び散った飛沫が別の飛沫とぶつかり合って、さらに飛沫を生んでいる。


 激しい雨の中を、徹は家路を歩いていた。



 昼飯を食べた後の午後は公園に集まって遊ぶことが、夏休みの徹の日課だった。とくに友達と示し合わせて公園に行くわけではないが、とにかく公園に行きさえすれば誰かしらが来ていて、その場に居合わせた者たちで遊ぶのである。そんな次第であるので、遊び相手は毎回変わる。男女や学年の別なく、公園に居合わせた皆で遊ぶことが暗黙の了解になっていた。


 今日も、午後から公園で遊んでいた。公園に集まったのは、小学三年生の徹を最年少に、上は小学六年生までの男女六人。小六の男の子が中心となって話し合い、鬼ごっこをしようと決まった。

 さっそく皆でじゃんけんをする。


「最初はグー、じゃんけんぽん」


掛け声に合わせて、全員が一斉に手を突き出した。グー、チョキ、パー、見事にバラバラな形の手が並ぶ。


「あいこでしょー」


何度かのあいこの後で、ようやく鬼が決まった。


「いーち、にーい、さーん」


 鬼が数を数え始めるのを合図に、残りの子供は駆け出した。徹も一緒になって駆けていく。鬼が一〇を数え終わる頃には、子供たちはすっかり散り終わっていた。


「よーし、いくぞ」


 一声掛けて、鬼が駆け出した。向かってくる鬼から、ワーキャー騒ぎながら皆が逃げ回る。とはいっても、遊び場の公園自体が大して広くない。遊具が三つばかり置いてあるだげの公園なので、逃げるにも限度がある。ほどなく一人捕まり、二人捕まりしていった。

 それを少し離れた所から見ていた徹と、次の目標を探して頭を巡らした鬼の目が合った。途端に、鬼が徹目掛けて走り出す。くるりと背中を向けて、徹も必死に鬼から逃げた。鬼は、年下と遊び慣れているからだろう、相応に加減して追いかけていたが、それでもやがては徹の背中に追いついた。


「捕まえた」


ぽんっと徹の肩が叩かれる。そのまま力を抜くと、走っていた勢いのまま四、五歩進んだところでようやく立ち止まった。すっかり息が上がっていた。思わず膝に両手をついて、大きく息を吐き出す。顔を上げた時には、鬼は残りの二人を捕まえに走っていってしまっていた。

 悔しいやら楽しいやらで、徹は先に捕まっていた二人の元に駆け寄っていった。

 そうして全員が捕まってしまうと、


「最初はグー」


とじゃんけんが始まり、次の鬼が決まる。そうやって次々と鬼を交代しながら遊んでいると、一人二人と遅れてやってきた子供が遊びに加わっていく。知らない顔の子供も混じっている。いつの間にか、一〇人ほどで鬼ごっこをしていた。


「最初はグー、じゃんけんぽん」


掛け声に合わせて出された手は、てんでバラバラだった。


「あいこでしょー」


 一〇人からなる子供がじゃんけんをすれば、なかなか決まらないものだ。そうこうしているうちに風が出てきた。鬼が決まる頃には、さっきまでの蒸し暑さが嘘のように涼しくなっていた。

 鬼ごっこが始まって少し経った頃だった。すでに三人を捕まえて、鬼が四人目を追いかけていた時である。急に辺りが薄暗くなったと思ったら、ぽつりぽつりと水滴が顔にかかった。雨だと思う暇もなく、大粒の雨がどっと降ってきた。

 あまりの雨脚の強さに、鬼ごっこの終了を告げる声さえも聞こえない。「さよなら」もろくすっぽ交わさぬままに、子供たちはそのまま家路を駆けていった。



 徹も家路を駆け出した。何とか濡れる前に家に帰りつけないかと思ったが、雨は轟々と降っている。公園を出ていくらも行かない間に、洋服はおろか、下着までぐっしょりと濡れてしまった。こうなってくると、急いで家に帰るのが何だが馬鹿らしくなってくる。急いで帰ろうがゆっくり帰ろうが、濡れて帰った時点で母に小言を言われるのだ。それならば、急いで帰る必要もないように思えた。単純に、嫌なことをなるべく遅らせたかっただけでもあるが。

 豪雨の中を、徹は一人歩いていく。濡れた服は肌に張り付き、水を吸ったスニーカーは重い。初めは不快だったが、慣れてくると、これはこれで案外悪くないなと思えてきた。肌に張り付く服は煩わしいけれど、濡れた靴でアスファルトを踏んだときのグジュっという音が心を浮き立たせる。踏み降ろした足裏で、靴の中に溜まった水が指の間を流れる感触がこそばゆかった。


 強くアスファルトに足を踏み降ろす。グジュっと音が鳴る。時々はわざと水たまりを踏んでみる。そうすると、バシャングジュっと大きく鳴った。そうやって、賑やかに住宅街の道を歩いていたところ。


「いーち、にーい」


 轟々と降る雨音に、数を数える声が混じった。高い、子供が数を数える声がする。顔を上げて振り返ると、雨でけぶる向こうに小さい影が見える。どうやらそれが数えているようだった。

 一緒に遊んでいた誰かだろうか。不思議に思いながら徹が見ている間にも数は進む。


「さーん、しーい」


数える声が僅かに低くなる。それに合わせて、影が大きくなったように見えた。


「ごーお、ろーく」


明らかに声が低くなっている。初めの子供らしさはなく、今では大人の声になっていた。影はぐんぐんと大きくなり、道の両側にある塀に頭が届きそうなほど。


「しーち、はーち、きゅーう」


低くなっていった声はしわがれた老人の声に変わり、今や街灯に届きそうなほどに大きくなっていた。


「じゅーう」


数を数え終えた時、そこには鬼が立っていた。その様子を、徹は立ち尽くして眺めていた。

 真っ黒な影の鬼が徹を見た気がした。鬼の口が、横に大きく裂けていく。


「じゃあ、いくぞ」


 鬼が徹に向かって一歩を踏み出す。ズジャンっと重い足音が響いた。そこで、ようやく徹は我に返った。身を翻して、一目散に逃げ出した。


 必死に走る徹の背後から、ズジャンズジャンと鬼が追ってくる音がする。鬼の動きはさほど機敏ではないようだった。鬼が一歩を踏み出す間に、徹は三歩ほどを進んでいる。それでも、徹よりも鬼の方がはるかに大きいからだろう、鬼が足を踏み出すたびに、少しずつ音が近づいてくる。


「誰かー、誰か助けて」


 堪らず徹が大声を上げるが、誰かが現れる気配はなかった。どこか他所の家に逃げ込めないかと目を走らせても、道の両側には塀が続くばかりで逃げ込める場所がない。

 走る徹の背後から、どんどん鬼が迫ってくる。このままでは鬼に捕まる。そう思った時、不意に塀が途切れた。いつの間にか十字路に差し掛かっていた。

 徹は迷わず角を曲がった。そうしてそのまま走っていくと、鬼の足音が離れていく。ちらりと後ろを振り返ってみると、鬼も角に差し掛かっていた。もたもたと角を曲がろうとするが、しかし、大きすぎるためか曲がれないようだった。

 ほうっと息をつく。どうやら助かったようだ。そう安心しかけた時だった。もたついていた鬼の足が、ぬうっと歪に伸びた。伸びた足が、角を曲がった先にズジャンとついた。ついた足に引き寄せられるようにして、鬼の体が角を曲がってくる。角を曲がった鬼は、再び徹を追いかけだした。


 必死に走って逃げ、追いつかれそうになれば角を曲がる。そうやって徹は鬼から逃げ続けた。相変わらず道の両側には塀が続き、一向に逃げ込めるような家は現れない。めちゃくちゃに角を曲がって逃げていたため、すでに自分がどこを走っているのかさえも分からなくなっていた。ただ、鬼に捕まらないために逃げていた。

 いくつ目かも分からない角を曲がろうと、徹が右足を踏み出す。その足が水たまりを踏んだ。あっと思った時には遅かった。水たまりを踏んだ右足が横に滑る。咄嗟に手をついたが、そのまま水たまりに転んでしまった。早く逃げないと、と急いで立ち上がろうとするが、焦りと疲れで思うように立ち上がれない。ズジャンズジャンと足音は迫ってくる。焦れば焦るほど上手くはいかない。徹が水たまりでもがいている間に、すぐ背後まで足音は迫っていた。

 恐る恐る振り返った徹の目の前に鬼の足があった。そのまま上を見上げていくと、横に大きく口の裂けた鬼が徹を見下ろしていた。


「つーかまーえたー」


 大きく口を開けて迫ってくる鬼の顔を、徹は呆然と見つめていた。鬼に捕まってしまった。開いた鬼の口の中は、真っ暗で何も見えなかった。

 徹が鬼に捕まるというまさにその時、ぱんっと手を打ち鳴らす音が響いた。


「鬼さん、こちら」


高く澄んだ、少女の声がする。声がした途端、鬼が動きを止めた。


「手の鳴る方へ」


声が続ける。

 徹に向かって屈めていた体を、鬼がぐぐっと起こす。そして、後ろを振り返った。徹も、鬼越しにそちらを見やった。

 少女が一人立っていた。白地に菊の図柄の振り袖に赤い帯を締めて、黒髪はおかっぱに切り揃えられている。

 ぱんっと再び手が打ち鳴らされる。


「鬼さん、こちら。手の鳴る方へ」


少女の澄んだ声に誘われるように、鬼はズジャンズジャンと足音を響かせて少女に近づいていく。そして、鬼が少女のすぐ目の前に立った。


「つーかまーえたー」


言った少女の口が、横に大きく裂けた。口を開けた少女の頭だけが伸び上がる。そうして、鬼を頭から飲み込んでしまった。その光景を、徹はただ眺めていた。



 母親に、帰ってこない息子がようやく見つかったと連絡が来たのは、すっかり日も暮れた頃だった。息子は家から遠く離れた隣町で、道に倒れ込んでいるところを保護された。すぐに病院に搬送され、連絡を受けた母親も急いで病院に向かった。診察した医師の話では、命に別条はないとのことだったが、結局、その晩から三日間高熱が続き、床払いをしたのは一週間を過ぎた頃だった。

 あの日、一体何があったのか。母親は気にはなったが、ついに息子に尋ねることは出来なかった。その話題を出そうとすると、息子が酷く怯えるのだ。がたがた震えながらうわ言のように呟く。


「鬼が来る、鬼が来る」


震える息子を、母親はきつく抱きしめるしかなかった。

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鬼ごっこ 尾手メシ @otame

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