どちらか
「この資料を明日までに。あとこの会合には────」
秘書に指示を出していたら、執務机が割れた。割れたというよりは、樹木が生え、本来の姿に戻ったと云うべきか。触れれば消えるそれは、妻の異能。どうやら機嫌を損ねたらしい。
「卯羅、どうしたの?」
椅子の後ろに隠した扉を叩き、中の人物に声を掛けると、今度は
「消えて」
呼び掛けに返された声に息が詰まった。
本当に嫌い。そういう太宰さんは嫌い。私以外の女を重用する太宰さんは嫌い。そんなの消えてしまえば佳い。
「卯羅」
「詰まらないの」
部屋一面に花を咲かせたのに。
首領の代わりにあの女が覗きに来たら、そのまま殺す算段だったの。とはいえ、光景に怯んだのか、彼は半歩脚を下げた。
「睨まないでよ。仕事が片付いたら、一緒にお茶会をしようよ。君が好きなお菓子を取り寄せたんだ」
「だから?そんなので機嫌を取る心算?」
食虫植物の液で寝台と私を繋ぐ鎖を断って、寝台棚から銃を取り出し、彼の左胸に突き付けた。
「佳いよ。君に殺されるなら本望だ。本望なんてものじゃあない。私の最上の願いだよ」
優しい声で、慈しむような顔で、手つきで、髪を撫でながら云われたら。
「卯羅、私が君を愛しているのは事実だ」
「私の代わりは無いのではなくって?」
「無いよ。銀ちゃんは君の代わりじゃあない」
「じゃあ別枠ってこと?」私しか居ないと云って。あの女もただの駒だと。「本当に最低ね」
「卯羅、あのね」
彼の右頬を引っ叩いた。乾いた音が執務室に反響する。流石に護衛と秘書も私達に注意を向けざるを得なかったよう。
「尾崎、手前、剰り調子に乗んじゃねェぞ?」
「中也、夫婦の問題だ。口を挟まないでくれ」
私は目の前の男を睨み付けた。「結局私って何なの?」
「私の愛しい妻」
「嘘つき」
パキパキと空気が割れる。身体中が締め付けられる感覚。吐き気の様な勢いを伴って、足元には花畑。
「解いてくれ」
「なら触れれば佳いでしょ?何時もみたいに抱き締めれば佳いじゃない」
「君が納得した上で解いてほしい」
「だったらその女をこの場で消して」
「それは出来ない。彼女は今後の作戦に───」
彼の右をすり抜け、執務机を飛び越え、秘書との間合いを詰める。「尾崎!」
飛び出してきた中也さんを遮るように雪柳。腰から抜いた短刀で女の喉笛を掻くように薙ぐ。
「避けるなよ」脚を払って、組み伏せる。
「マフィアに属しているなら、何時でも死ぬ覚悟は出来ているわよね?」
無言は肯定とみなす。
頚を締め、行き場を失った血流に動脈を示させる。そこを鋒で突けば、こいつは死ぬ。
「首領、何もなさらないなら、殺して佳いとみなすわ。止めるなら、この女とそういう関係だと理解しますけど」
時間が経てば経つほど私の殺意は膨らむ。答えをすぐに導けない首領が悪い。「私の愛らしい世話人は何処へいったの?」
愛憎ってこれかしら。
愛おしいのに憎たらしい。
憎たらしいのに愛したい。
「首領は何のために私を閉じ込めたの?」
「君を喪いたくないから」
「貴方の云う君って、花のように愛らしい世話人の事かしら?」
「そうだ。花の妖精と見紛う私の世話人。私に愛を囁き、注いでくれたその子だ」
「そんなの、貴方が首領になった時点で消えたわ」
あの日、私はある種の覚悟を決めた。
恩師と母を超えた立場となるために。彼を支えるためなら、今まで以上に全てを捧げようと。
だが彼は何をした?
私を幽閉し、最後の仕事として自身の代用品を用意させた。そしてその女に媚を売り、挙げ句勘違いまでさせる始末。何度怒っても改めないなら、手を下すだけ。けれど彼は怒るの。
「愛故の行為だと解ってくれ」
「随分と簡単な愛なのね」
くるくると指を回せば、女の両掌を貫くように薊が咲く。痛みに叫ぶ姿は滑稽だった。
「首領、私を愛しているなら、私以外の女はこの部屋に入れないで。それが出来ないなら、どちらかを始末して」
愉快ね。あの太宰治が女に板挟まれて、混乱しかけている。情婦と妻、どちらを選ぶのかしら。
「卯羅、卯羅、卯羅!」
自室へ戻る彼女を追い掛けた。とはいえ、今までで一番の怒りを見せた彼女に呆気を取られ、私も為す術が無かった訳だが。寝台に寝転び、背を向ける妻。その腰の近くに腰を下ろし、少しでも顔を見ようと近付いた。
「卯羅、話を聞いておくれ」
「嫌よ。女が絡んだ貴方の弁解なんて、何の価値もないわ」
全てを話してしまおうか。この壮大な計画を。いいや、そうしたら今度は彼女が自分を追い詰める。
「この指輪も嘘だと思う?」
「思いたくない」
「これこそが番の証だろう?」
「私にしか贈っていないという証明は?」
「出来るよ」
私は襟締を取り、襯衣の下に隠した自分の指輪を首から外した。そして、妻の左薬指に嵌める。二つの石座が合わさると、五片の葩を持つ花が現れる。
「
「程遠い話ね」
「私にとっては、君が日溜まりなんだ」
唯一安らげる場所として、君が居てくれれば佳い。
私を初めから怖がらなかった君へ。
少しでも理解しようと手を伸ばしてくれた君へ。
そして、幸せになれる筈だった君への懺悔として。
頬に口付け、自分が持つべき指輪を抜き、然るべき場所へ嵌めた。私の誠実を示すために。
「ご機嫌が治ったら、呼鈴を鳴らして。あと少しだけ仕事をしてくるから」
「……治さん」
「なあに?」
「愛してる」
その呼び方と、その言葉が、一番好きだよ。「私も愛しているよ」
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