第5話 引っ越したい人間とそうでない人間

「引っ越しって、冗談でしょ?」


 草城風寺さんのいきなりの提案に、俺は驚きを隠せなかった。

 他人に引っ越ししてほしいなんて言う人の正気は疑わずにはいられなかった。


「いえ、本気で言ってます」


 しかし彼女はくもりのない目をこちらに向けてきた。

 それだけで彼女が冗談でないことは明らかだった。というかすごい整った顔をしていた。


「……い、いきなりなんで引っ越しをさせたがるんだ? 引っ越しをする理由なんて皆目かいもく見当もつかないが」

「私がもっと瑞樹くんと一緒の時間を過ごしたい、という理由です」


 彼女ははっきりと言った。よくわからないことを。


「どうして引っ越しをすると一緒の時間が過ごせるようになるんだ?」

「引っ越し先が私の家の真横だからです」

「真横」


 最初に頭に浮かんだのは、ほのぼのとした田舎で一軒家が立ち並んでいる光景。

 だがすぐに思い出した。彼女の家はお金持ちだ。


 とすると思い浮かぶのは、東京ドームレベルの広さを誇る領地の本邸の横にある犬小屋みたいな光景だ。

 ヴェルサイユ宮殿くらいの庭にひっそりと佇む犬小屋のイメージである。


「なあ父さん、お金持ちの犬小屋ってどのくらいの広さだ?」

「たぶんお前んとこの学校のグラウンドくらいだ」

「まじか……」

「えっと、一体どういう想像をされているのでしょうか……?」


 俺と父が小声で話していた会話の内容が聞こえたらしく、草城風寺さんは困惑している。


「え、だって俺たちが引っ越しさせられる先は犬小屋でしょ?」

「普通の一軒家です」

「なん……だと?」


 お金持ちにもなると犬小屋も一軒家になるのか。

 恐ろしい話だ。


「普通の家ですからね! うちのイメージというか、お金を持っている人たちに対してどんなイメージをしてるんですか!」

「あぁ、いや、それはたしかにそうだ。失礼しました」


 頬を膨らませる草城風寺さんは、いつもの上品な姿のギャップもあってかなりかわいかった。


「でもね、紅ちゃん。私たちもそう簡単にここを離れるわけにもいかないのよ」


 俺と父がアホな会話をしているさなか、母が口を開いた。


「瑞樹が生まれた時からこのマンションに住んでるのよ、私たち。だから瑞樹の思い出の場所をそう簡単に捨てたりはできないわ」

「母さん……」


 真剣な顔で母が言った。

 母の真剣な顔を見るのは相当久しぶりのことだった。


 さすがに草城風寺さんも家庭内の話には躊躇なく、というわけにもいかないらしい。

 彼女の語気が弱くなった。


「で、でも、引っ越し先はお母様の仕事先からも電車で一駅のところですし、もしよろしければ家事ができるものも手配しますが……」

「引っ越しましょう」

「母さん?」


 ばっと立ち上がる母親。


「ちょっと待てよ、さっきまでのいい話はなんだったんだ」

「うるさいわね、思い出とかどうでもいいわよ。ただでさえこのマンション、駅から歩くし会社まで乗り換えは2回もあるし満員電車にすし詰めにされるしで最悪だと思ってたのよ。家政婦さんまでつけてくれるなら引っ越すしかないでしょ」

「ちょっとでも母さんのことを見直した俺を返してくれ!」


 意外と俺のこと大事にしてくれてたんだなってちょっとウルっときたのに。

 全部台無しだ。


「で、でも父さんは反対してくれるよな?」


 こうなったら頼みの綱は父である。


「ああ、もちろん。ここに引っ越してくる時も、もっと便利な物件はたくさんあった。でも瑞樹のためにはここがいいって二人で決めたんだ。そんな不埒ふらちな理由で引っ越すわけにはいかん」

「父さん……」


 たまに頼りになる父だ。大事なところは一線を踏み越えさせない。

 母のことも俺のことも愛してくれる、自慢の父親だ。


「あんた、棚の裏に20万円近くへそくりを隠してるでしょ。引っ越さないんだったら没収するよ」

「すまんっ、瑞樹…………!」


 ダメだった。全く頼りにならない父親だった。

 というかなんだ20万円近くのへそくりって。なにに使おうとしてたんだよ。


「いやあ〜ラッキーな話ね〜。これで家賃も払わなくて済むわ〜そのまま家賃分が私のお小遣いになるのねぇ〜」

「父さんがへそくりを使ってでもお金を貯めようとした理由がわかった気がするな!」


 お金にゲスい母が父のお小遣いを相当渋っていることは容易に想像がついてしまった。

 親たちの株がどんどん下がっていく。


「というわけで引っ越しましょう。配達業者も既に手配させています」

「さっすが紅ちゃんね。瑞樹、あんた紅ちゃん泣かせたらただじゃおかないからね。縁切っちゃうから」


 ロクでもないことを言っている母の先導の下、引っ越し作業が始まった。


 日が暮れる頃には俺の家は新居になっていた。

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