第2話
何も考えずに駅まで来た明美は、閉じられたシャッターを前に愕然とした。慌ててスマホを取り出して時刻を確認すると、午前一時を回っていた。
――お前のさ、猪突猛進っぷりっていうか……。そういうところ、悪くねえよな。
「自分がそう言って褒めたんだから、文句言わないでよね」
俊哉から以前言われた言葉を右腕に宿し、空高く手のひらを開いて車道に伸ばすと、魔法でも使ったかのように気持ちよく一台のタクシーが吸い寄せられて明美の前に停まった。
「学園前駅まで」
未来まで連れて行ってくれそうなタクシーに乗り込み、自分の未来を少しでも明るくすべく、明美は目的地をドライバーに告げた。控えめの音量で流れる車内のラジオは、曲名は知らなかったが、よく耳にした洋楽だ。自然と鼻歌を乗せる自分に、明美は少し可笑しくなった。これから別れたばかりの男に、どうして自分を振ったのか聞き出そうとしているというのに、その心は軽い。
ドアの鍵を閉める音がそうさせたのか、鍵を握り締めた拳がそうさせたのか。あるいは、過去に俊哉から言われた自分への賛美の数々か、どこか能天気に歌うラジオか。昼間は交通量の多い市街地を快調に走るタクシーが、傷を癒す時間さえも割増にしているのかもしれない。
「五四三〇円です」
目的地に着いて言われた金額と、降車後に残された財布の中身に、明美の意気揚々とした気分はあっけなく沈んだ。
「取り返さなきゃ」
タクシーに支払った授業料分を、きっちり俊哉からの言葉で取り返してやろうと、心を新たに俊哉のマンションの前で明美は大きく深呼吸をした。
普段から明け方近くまで起きている俊哉に、この時間だからと遠慮することはない。部屋番号の後に、呼出ボタンを押そうとした明美の指がふと止まった。
「女……連れ込んでたりして」
あり得ない話ではない。
躊躇した明美だったが、それならばそれで、自分と新しい女との違いが確かめられると、意を決してボタンを押した。
「遅かったな」
部屋で解像度の低いモニターを見ながら応答しているであろう俊哉からの、予想とは随分違った対応に明美はだらしなく口を開いたまま静止した。スピーカーから、笑いを堪えきれず俊哉から漏れた息の音が聞こえ、エントランスの自動ドアが開いた。
「上がって来いよ」
明美が用心深く、人の心にはいくつもの影が差している事実を常に意識していたなら、このまま俊哉の誘い通りに、エレベーターのボタンを押していなかったかもしれない。また、常に希望の光が未来を照らしているものだと信じる楽天家でなければ、部屋には上がらず過去の己の愚かさだけを持ち帰っていただろう。
だが、明美は前を向き、とりあえず先に進む性分だ。俊哉の失笑の意味は分からなくとも、やや茫然として俊哉の部屋へと向かった。
足音を消すために敷かれたマットが、地を踏みしめる足元も浮かんでいるような不安感を明美に与えた。それでも引き返すという選択肢は明美のフローチャートには用意されていない。
明美が部屋の前に立つと、ドアチャイムを鳴らすより早くドアが開いた。
「返事、早速聞いてもいいかな?」
僅かな緊張を含んだ俊哉の笑顔を見た瞬間、テレビに奪われていた意識の中で、微かに明美の脳が記録していた信号が再整列された。
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