rkgk:ネットで炎上したアカウントを軽く慰めたら変なオンナに絡まれてしまった件

らいと

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 某大手SNSにリストカットされた手首の画像が投稿されていた。

 

 アカウント名は『ぷぁんぷsun』というらしい。

 

 真っ白な手首には横一文字に赤いラインが引かれている。

 

 しかし投稿された画像に写り込んでいたテーブルの上には赤いマジックが置いてあった。

 

 画像の上には『』つきで自殺してみようと思います、などと不謹慎な一文が躍っている。

 

 案の定このアカウントには多くの批難のコメントが押し寄せ大炎上した。

 

『かまってちゃん』、『不謹慎すぎる』、『モラル欠如』、『精神科逝け。受け入れてくれるか知らんけど』、『マジで切ったら投稿してね嘘つきちゃん』、『こういう投稿で人目を引いて恥ずかしくないんですか?』……etc.

 

 男は真っ暗な部屋でモニターに向かいながら件の投稿画像を見つめていた。エアコンが冷気を吐き出す音に交じってPCから熱を放出するファンのやかましい音が合わさり、耳障りな協奏曲を奏でている。

 

 細くしなやかな指、おそらくこの投稿者は女性だと思われる。

 

 画質が少々粗くテーブルの上に乗っている小物もそれがナニか判別することはできるが細部はぼやけて良く見えない。

 

 しかし腕に引かれたラインはどう見ても血のような色をしていない。あまりにも彩度が高すぎる。なにより手首を切った割には一滴の血も滴っていないのがこの画像が単なる悪ふざけの類であることを物語っていた。

 

 この投稿はすぐに削除された。運営によるものかはたまた投稿者本人によるものかは知りようもないがとにかく件の投稿ごと画像は消え去った。

 

 しかし投稿者の『ぷぁんぷsun』のアカウントは残ったままのようだ。

 

 男はこの相手をフォローし、相手にメール機能を使ってコメントを送った。

 

『大丈夫ですか?』と当たり障りのない一文を送り付ける。

 

 ただなんとなく、男は気まぐれにこの投稿者を慰めてみようと思ったのだ。

 

『お気遣いありがとうございます』という返事くらいはもらえるのではないか、なんてほんの少し期待して。

 

 男は後ろ向きな投稿を見つけては慰めのコメントをするのが半ば癖になっていた。

 

 感情の大小はこの際問わない。『今日は調子が悪い』という内容を見かければ、『大丈夫ですか? あまり無理はしないでくださいね』などと当たり障りないコメントを書き込んで去って行く。

 

 たまに相手から反応があると少しだけ自己肯定感を保管されるような気分になり、男はこの行為を繰り返す。

 

 今回の行動もその一環だった。

 

 いつもと違う点といえばそれは相手が炎上した投稿者であるということ。

 

 仕事に疲れた体を引き摺って自宅へと戻った男はさっそくSNSを立ち上げる。

 

 するとメッセージが一件、彼のアカウントに送信されていた。

 

 男は相手と内容を確認してほんのすこし眉を上に上げた。例の炎上アカウントからだった。

 

『ありがとうございます。優しんですね』と。

 

 簡素な文章だ。しかし正直なところ返事があるとは思っていなかった。炎上までしたアカウント主がまさか普通にメッセージを送ってくるとは考えていなかったからだ。

 

 意表を突かれた男は、しかしそのメッセージに対して自然と返事を打ち込んでいた。

 

『はじめまして

手首は大丈夫ですか?

私もたまに「死にたいな」

なんて思う時もありますが

そんな時は好きなことをして

気分を紛らわせてます

気分が落ち込んだ時は

なにも考えないのも

いいんじゃないですか?』

 

 などと、訳知り顔で文章を書き連ねていく。

 

 確かに実際に死にたくなるような気分に襲われることはあるが、本当に死ぬ勇気も持ちわせているはずもなく、ただ朝が来て「嫌だな」などと思いながら職場へ出社している。

 

 なぜか。生きたいからだ。当然だ。男の死のイメージは傷みと苦しみだ。だから死にたくない。会社と死を選ぶなら一も二もなく会社を選択する。まだ死に安息を見出すほど追い込まれてもいないし、なんやかんやと「なんとかなるだろ」と人生を楽観視しているというのもあるだろう。

 

 だから適当なことしか言えない。

 

 ただその言葉を相手はどう受け取ったのか、翌日にもまた返事があった。

 

『温かいコメント

嬉しいです

好きなことっていうのがよく分かりません

モロさんは普段どんなことをしてるんですか?

参考までに教えてくれると嬉しいです』

 

 正直予想外だ。

 

 モロとは男のアカウント名だ。適当に自分の名前をもじってつけた。

 

 それはいい。男は更にメッセージが送られてきたことに少し困惑していた。

 

 が、男は生真面目な性分だった。送られてきたからには返事をするべきだ、とメッセージが書き込んで送信した。

 

 その日から男と例のアカウントのやりとりは二週間ほど続いた。

 

 一日一通。男が帰宅すると必ず『ぷぁんぷsun』からメッセージが送られてきていた。それに返事をするのが日課になっていた。

 

 後半になると相手から送られてくるメッセージは大抵が愚痴になっていた。男はそれにも律儀にアドバイスまがいのメッセージを送る。彼女からの返事は決まって夜だった。時刻は21:00ピッタリ。決まってその時刻だ。

 

 今日もまた、いつもの時間にメッセージが届いた。

 

 しかし今日の内容はいつもの日常に関する愚痴ではなく、

 

『あなたのこと

 気に入っちゃいました』

 

 と、一言だけ。

 

 男は少し困惑しながらも、『恐縮です』と、短い文章を打ち込み相手に送る。

 

 すると、いつもは翌日まで返ってこないはずの返事がすぐに送られてきた。

 

『では

 また

 明日』

 

 と……

 

 男はそれに対し、『また明日』と返した。

 

 いつもと少しだけ違うやりとりに男は妙な気分になった。

 

 リズムを崩されたような居心地の悪さと、相手から好意的なメッセージが送られてきたことへの高揚感。

 

 男は床に入り、瞼を閉じたところでふと違和感に気付いた。

 

 なし崩し的に続いていたやりとりだったが。そういえばこれまで「明日もまた」などと、ハッキリとお互いの関係を継続させる言葉を使ったのは、この時が初めてであったように思う――

 

 ・1

 

 翌朝。男はその日、休日だった。

 

 しかし目覚まし時計により普段通りに起床する。男は休日に寝て過ごすのをもったいないと考える性質だった。

 

 が、なにか有意義な時間の使い方をしたい、と考えて、結局なにかを完了したためしもほとんどないのだが。

 

 取り合えず家の中にいてもすることはなかったので適当に外へ出て近所をぶらつくことにした。あるいはハウツー本でも買って喫茶店で読んだりするのもいいかもしれない。内容を実践するかは怪しいものだが知識を仕入れたという自己満足くらいには浸れるだろう。

 

 となると、目的地は近所の商店街に絞られた。足がそちらへ進路を取る。

 

 今日は日差しが強い。薄着ではあるがこの暑さはいくらも誤魔化すことはできそうもない。首筋には汗がすでに汗が浮かび上がっている。男は自宅を出たことを少し後悔した。早足に商店街へ向かい、いち早く涼しい環境に入るか、あるいは汗が噴き出すのを極力控えるためにゆっくりと歩くか悩んだ。

 

 男はハンカチを持っていなかった。汗を拭く物を持ってない。大量の汗を垂らして人前に出るのは避けたい、と男は足を急がせることなく、建物の陰に隠れながら商店街を目指すことにした。

 

 それでも快晴から降り注ぐ陽光はこちらの眼を容赦なく焼いてくるかのようだった。喉も乾いてきた。自動販売機でも見かけたら何買おうと心に決める。

 

 ――と、しばらく歩いていると最近できたばかりのマンションの日陰にヒトカゲを認めた。

 

 ちょうど探していた自動販売機も一緒に発見する。ヒトカゲはその隣で電柱を支えにして立っていた。が、男はその出で立ちの奇妙さに思わず相手を凝視してしまう。

 

 この暑さの中、ヒトカゲが着ているのは派手な色合いパーカーだった。パンクファッションというのだろうか。フードの内にキャップを被り、かなり際どいミニスカートを着用。ボーダー柄のソックスは太腿を半ばまで隠してはいるが、スカートとの隙間に見える肌色が強調されて妙な色香を漂わせている。

 

 ただでさえ暑苦しい外気の中、見ているだけでこちらまで体温が上がってきそうな錯覚に襲われる。

 

 フードとキャップの隙間からは真っ黒な髪がはみ出していた。しかし相手の容姿は陰になっていて分からない。スマホに視線を落として忙しなく指が動いている。

 

 なんとなく近寄りがたい雰囲気を感じながらも、喉の渇きが限界を迎えつつあった男はまるで不審者のようにコソコソとした足取りで自販機に近付く。

 

 が、男の気配に気づいたのか、ヒトカゲは貌を上げた。不意に二人の視線が交わる。キャップの奥に見えた眸に男はつい見入ってしまった。

 

 直後、我を取り戻す同時に気まずくなり慌てて目を逸らす。

 

 難癖をつけられるかもしれないと男は自販機を通り過ぎることにした。とにかく居たたまれない気分から逃れたくて足の回転が自然と早くなる。

 

「ねぇ、ちょっと」

 

 後ろから声を掛けられた。高い声質。ショウジョのものだ。であれば声の主は一人しかおるまい。

 

 男の体がビクリと震える。熱さとは別種の汗が噴き出てきて、なんなら寒気さえ覚えた。

 

 大の大人がショウジョ相手にビクついている情けなさに思い至るより前に、男は奇妙なまでの恐怖に支配されて心臓が鳴っていた。

 

「こんにちは、お兄さん」

 

 気配が近づく。振り返るのにやたらと勇気を絞り出す必要があった。

 

 ジャリっと靴底を擦る様に後ろへ振り返る。

 

 そこにいたのは先ほど目が合ったパーカーの人物だった。

 

「な、なにか……」

 

 自分の声が震えていることにすぐ気が付く。男は人付き合いがうまい方ではないがそこまで対人能力に欠陥を抱えているわけでもない。だのに今、彼はただのショウジョ相手に怯えを滲ませている。相手のファッションのせいだろうか。男の持つ偏見な知識が彼女をガラの悪いアブナイ相手だと判断したのだろうか。

 

 自分の内側と向き合うことで冷静さを取り戻そうとしてみる。

 

 が、それはカノジョの言葉によって試みごと粉砕される。

 

「はじめまして――モロさん、だよね?」

 

「え?」

 

「あ、やっぱりそうなんだ。はじめして。アタシ――『ぷぁんぷ』です」

 

 ・2

 

 男は『ぷぁんぷ』を名乗るショウジョに訳も変わらぬまま腕を引かれ、いずこかへと連れ去られようとしていた。

 

 ショウジョが男の腕を引く力は思いの他つよかった。それでも振りほどこうと思えばできた。しかしそうしようという考えが彼の頭に浮かばなかったのだ。

 

 まるで夢魔に魅了されたかのように男はショウジョの動きに忠実だった。

 

 進路は商店街とは真逆の住宅街。傾斜地の多いこの土地は至る所に上へと続く階段が設けられている。区画が複雑に入り組んでおり土地勘のない者がここを訪れると大抵が迷う。

 

 そんな住宅街の中をショウジョは迷いなく進んでいく。

 

 その後ろ姿を前に男はどこへ連れて行かれるのかなんとなくのアタリを付け始めていた。

 

 右に折れ左に折れ階段をいくらか昇って行くと山を沿うようにカーブする通りに出た。車どころか人すら通らぬ閑散とした通りは山の上へと道が続いている。

 

 この先になにがあるのかを男は知っていた。彼に限らずこの土地に住む人間であれば誰もが既知としている。

 

 この先には時代錯誤な建築様式の古びた洋館が建っている。かつてはこの辺り一帯の大地主が住まうお屋敷だったが……

 

 30年ほど前、当時20代半ばの男が屋敷に盗みに入ったのだが、おり悪く屋敷の主と鉢合わせてしまい、懐に忍ばせていた刃物で刺したのだ。しかも騒ぎを聞きつけた家人を半狂乱になった男は刃物を手に追い掛け回し皆殺しにしたという。犯人はその場で自殺した。防犯カメラの記録映像から犯行の状況が判明し容疑者死亡でこの事件は当時おおきくニュースなどで取り上げられて世間を騒がせた。

 

 しかし事件に関して窃盗目的であったというのは後付けで説明された内容にすぎない。そもそもなぜ犯人は犯行を目撃された時に“逃げる”のではなく刃物を持って“殺す”ことを選んだのか。家人にしても、全員を追いかけましてまで殺害した点は多いに世間の疑念を刺激した。

 

 報道によると犯人は精神になんらかの異常をきたしており、犯行当時も正常な判断能力を失っていたのではないかと専門家は分析していた。

 

 だが男の過去には精神疾患を患ったという履歴は存在せず、その説はほぼ否定された。結論として男は咄嗟の事に錯乱し凶行に及んだということでまとめられた。

 

 が、問題なのはその後に立て続けに起きた不可解な出来事であり、それにより近隣住民が坂の上の屋敷を恐れる切っ掛けとなったのだ。

 

 まず、屋敷が取り壊されることが決定し、地元の業者が入ったのだが従業員が立て続けに不幸な事故に見舞われたのだ。それは一度ではなく、いくつもの業者がこの屋敷を取り壊そうと試みたが、都度不幸に襲われて遂にはどこの業者からもこの屋敷は敬遠されることとなった。

 

 ついで、そんな噂を聞き付けたオカルトマニアや向こう見ずな若者たちが幾人も子の屋敷を訪れた。好奇心のままに屋敷を訪れた人間たちはそのほとんどが屋敷へ向かったあとの消息が用として知れず、誰一人として帰ってはこなかったという。

 

 事件後から起きたこの不可解な出来事の数々を間近で見聞きしてきた地元住民はこの屋敷をたいそう気味悪がり、話題にするのもはばかるような有様であった。

 

 男も当然ながら屋敷についての知識は持っていた。しかし幼い頃は無謀な好奇心に後押しされてこの坂を見つけ出して屋敷を目指したこともある。

 

 が、坂を上って行く途中、言い知れぬ不気味で奇怪な寒気、怖気が幼少期の彼の足を地面に縫い付ける様に進ませなかった。顔を上げれば、そこには確かに山の木々から顔を覗かせた屋敷の一部を垣間見ることができた。

 

 途端、幼かった彼は弾かれたように坂を下った。全力だった。一秒たりともそこにいたくなかった。自宅に戻り扉を閉めて、鍵までかけた。なにか、得体の知れないものが後ろから追いかけてきているのではないかという錯覚に襲われた。こうして少年時代の男の冒険は終わったのだ。

 

 屋敷への通りにさしかかったところで男はハッと理性が舞い戻ってくるのを実感しショウジョの手を振りほどこうと試みた。

 

「ダメ♪」

 

 しかし抵抗は弱々しくショウジョはいよいよ通りに足をかけた。

 

 せめて下へ足を向けてくれることを僅かに願ったが、その望みは虚しくも裏切られショウジョは坂の上を目指した。

 

 嫌な気分になってきた。すごい嫌悪感だ。男の頭は正常に体を動かす命令を体に送っているはずなのに、まるで自由を感じない。やたらと派手な服装のショウジョは男の様子など気にも留めずどんどん坂を上って行く。

 

 車の通りも少ないだろうに道は雑草が繁っている様子もなくアスファルトの劣化もほとんど見られない。

 

「ふふ。あともうちょっとだよ」

 

 楽しそうな声だ。男としてはこの先になにが待ち受けているかを知っているため気分は最悪だ。忘れかけていた幼い頃の記憶が蘇ってくる。内容が鮮明になるにつれてジワジワと男の中に恐怖が滲みだしてくるかのようだった。

 

「あ、あの」

 

「うん?」

 

「お、俺……この先に、行きたくないんだけど」

 

 言った。ここにきて男はようやくショウジョの奇妙な束縛を一部やぶって言葉を絞り出した。

 

 振り返ったショウジョは目をパチクリと数回瞬くと、にっと口角を持ち上げた。

 

「大丈夫。なんか昔は変な事件とか噂とかいっぱいあったみたいだけど、今あそこ、アタシのお家だから」

 

「え? 君の、うち?」

 

「そっ!」

 

 驚愕する男の反応に気を良くしたのか、ショウジョは彼の手を取ったまま坂を駆け上がって行った。

 

 そして遂に、男はかつて立ち止まった場所も駆け抜けて、例の屋敷の前まで到達した。

 

 見上げるような鉄門扉の奥にそびえるお屋敷は噂に聞くような悍ましさはなく、白を基調した外壁に黒い切妻屋根はどこか現代風で親近感も覚える。庭も手入れが行き届いており、幼い時に見かけたような荒れ果てた印象はそこにもなかった。

 

「ようこそ我が家へ。ささ、中にどうぞ」

 

 ショウジョは門扉の横に見る通用口の扉を開き、男を中へと招き入れた。

 

 庭の中央に噴水があるようなことはないが、一般的な家庭に生まれた彼には十分に立派な庭だった。名前も知らない草花が屋敷への道を彩っている。現状はおぞましさの片鱗はどこにも見受けられない。

 

 ショウジョの正体もいまだに知れぬというのに、男は目の前の屋敷の様相を前に気が抜けていた。

 

 噂は所詮、噂という事なのか。

 

 屋敷の豪奢な扉が開き、中へと案内された男はその内装に目を見張った。

 

 高い天井の玄関ホール、左右には二階へと続く階段が伸びており左右に奥へと続く通路が見て取れる。

 

 空調が利いているのか中の空気はひんやりとして心地よかった。

 

「ただいま~♪ は~い今日はお客様一名ご案な~い♪」

 

 陽気にショウジョはホールで挨拶の声を張り上げ音を響かせた。

 

 しかし誰の出迎えもなく声だけが虚しく屋敷の中を駆け巡る。

 

「お兄さん、こっち」

 

 ショウジョは再び男の手を取り、屋敷の最奥――彼女の部屋だという一室へと案内された。

 

 ・3

 

 綺麗なショウジョだった。さながら効率を追求した美しさとでも言うのだろうか。顔パーツの配置における黄金律、男が理想とするスタイル、どれでも完璧だ。出来が良すぎていっそ人間味を感じない。ショウジョの髪を男は最初黒だと思っていた。だが光の反射により玉虫のように七色の輝きを帯びる。なんとなく男はゲーミングハイライトなんて言葉を思い出していた。

 

 男はショウジョに連れ込まれた屋敷でゲームをしたり、映画を連続視聴させれたりと、まる一日突き合わされた。

 

 フードとキャップを取ってその美しい面立ちを露わにし、やたらと距離を詰めてくる彼女に男は当惑した。異性と接触していることの興奮よりも先に、ジンジンと痺れるような不可解な感覚が胃を中心にして手足へと拡がった。

 

「君は……なに?」

 

 夜も更けて、さて解散しようかという話になった時、男はカノジョに問い掛けた。

 

「なにって、それアタシどう答えたらいいの?」

 

 ショウジョが首を傾げる。

 

 男は先程の自分の問いかけが漠然としていることを悟りなにか鈍くなっている思考を強引に働かせる。

 

「えっと、君……ぷぁんぷさんは、なんで俺がモロだって」

 

「ああ、知ってたのかって? 知らなかったよ? だって会ったのは今日がはじめてだし。でも、モロさんのアカウントの投稿とか見てたら、どこに住んでてどこまでが行動範囲はわかっちゃったり? まぁそんな感じ。投稿する内容には気を付けた方がいいよ? 案外わかるひとにはわかっちゃうものだから」

 

「なんで、オレに会いに来たの?」

 

「投稿が炎上しちゃった時、なにげにショックだったんだよねぇ。アタシ、『ホントウ』に手首ザグッてやったんだけどなぁ。ウソツキ呼ばわりされちゃった。でも、あなたはそんなアタシを心配してくれた。大丈夫ですか? って。送られてくるメッセージなんて全部アンチコメントばっかりだったから、最初はちょっと不思議だったの。なんで? って。で、興味が湧いちゃったから、お返事してみたって感じ。そしたらまた律儀に返信くれるから、なんだか楽しくなっちゃって。それで何回かやり取りしてるときに、こんな炎上したアカウントに付き合ってくれるってどんな人なんだろう、って気になっちゃったのね。だから、会ってみたいな、直接話してみたいな、って、そう思ったわけ。ストーカーみたいなことしてごめんね?」

 

 ストーカーまがいのことをしている自覚はあったようだ。いや、それよりもショウジョは気になる一言を口にしていた。

 

「本当に切ったって……だって、傷から血なんて」

 

「あ、お兄さんも実は疑ってたの? ちょっとショックだよ~。実際に切ったんだよ? こんな風に」

 

「へ?」

 

 ショウジョはおもむろにカッターを取り出した。キチキチと音を立てて伸びる刃を手首に当てて、なんの躊躇もなく、

 

「えい」

 

 勢いよく血が噴き出した。男の顔にびちゃっと滑る感触が触れる。初めて見た。現実にこれだけ派手に血飛沫が躍る光景を見たことがなかった。どれだけ深く切ったのだろう? 浅く切りつけてもこんな風に血が出たりはしない。

 

「あ、ごめん。かかっちゃった。てへ」

 

「っ!?」

 

 溢れた鮮血はショウジョの服と白い顔を赤く汚していた。なのにどこまでも軽い調子のショウジョはあまりにも不気味だった。

 

 だが男の思考はそれよりも先にショウジョの手首から滴る血を止めることに向いていた。

 

「なにやってんの!?」

 

「あ、大丈夫、大丈夫――って、ちょっ!?」

 

 男はショウジョに駆け寄り、真っ赤に染まった手首をぎゅっと握った。せめて少しでも出血を抑えなくてはと咄嗟の行動だった。

 

「ど、どうしたら……な、なにか縛る物……いやそれより救急車? あ、ひとの血って触っていいんだっけ?」

 

「……っぷ、あははっ」

 

 慌てふためく男を見下ろし、ショウジョは堪えれ切れないといった様子で吹き出した。

 

「だ、大丈夫だって~! あははっ! おっかしい~! アタシよりお兄さんの方が慌ててるし~!」

 

 男は信じられないものを見た気分になった。これだけ出血していたらいつ死んでしまうかもわからないというのに、カノジョはケタケタとワラっている。

 

「大丈夫。たぶんもう血も止まってるって。それに、そろそろ傷口も塞がった頃かな?」

 

「え?」

 

 そんなはずは……と、男はおそるおそるショウジョの手首から手を放す。

 

「やっぱりお兄さん、優しいひとだね。この前は浅~く切ってすぐ塞がっちゃったから、切ったところに慌ててマーカー引いたの。ああ、でもだからウソツキ呼ばわりされちゃったのか。反省。そんなわけで今回は思いっ切りやってみたけど、ちょっとグロかったね。ごめんごめん」

 

 ショウジョの言葉の半分も男の頭には入ってこない。真っ赤に濡れた肌には、切り傷の痕跡は、なかった。

 

「なん、で……」

 

「ふふ~ん。そ・れ・は・ね~」

 

「あ……」

 

 不意に、ショウジョの顔が近づいてきて、

 

「あ~む」

 

 男の首筋に、噛み付いてきた。

 

 途端、男の意識が――落ちた。

 

 ・よん

 

 ショウジョは言った。

 

『自分には代謝がない』、『成長もない』、『衰えもない』、『食欲もない』、『性欲もない』、『睡眠もない』

『劣化しない肉がある』、『瑞々しい皮がある』、『強靭な骨がある』、『空洞の魂がある』、『悠久がある』

 

 と――

 

 気絶から目覚めると自分の部屋にいた。こちらの顔を覗き込むカノジョの貌もすぐ近くにあった。夢ではなかった。咄嗟に首筋に触れたが傷らしきものはなく。男は再度ショウジョに「ナニモノ」かを尋ねた。

 

 曰く、ひと成らざる夜のモノ、らしい。

 

『昼間に肌を出しているとジンジンするんだよねぇ。あれすっごい気持ち悪いのね。だから夏でもこんな感じ。薄着になると肌なんてすぐに真っ赤っか超えて火傷だよ火傷? もういやんなっちゃう』

 

『え? アタシがいくつかって? お兄さんデリカシーな~い。でもそうだね~……試しに、何歳だと思う?』

 

 男は思い切って100歳くらい、と訊いてみた。

 

『はいハズレ~! 正解は、893才でした~! 誕生日は忘れちゃった。だから毎年一月一日になったら歳をカウントしてる感じかな』

 

『あ、それと見てもらって分かると思うけど、アタシ、そう簡単には死なないから』

 

『え? じゃあなんでリストカットなんてしたのかって? うん、まぁ、それは……」

 

『1000歳になる前に、死んじゃおうかなって思ったから。要は自殺よ、自殺。できなかったけどね』

 

『長く生きるのってけっこうつまらないんだよねぇ。色々できるけどやっぱり飽きるし。同じところに留まってるとアブナイひとたちに見つかるからちょくちょく移動しないといけないし。ほんと、良いことないよ?』

 

『でも今回はお兄さんに会えたし、死ぬのは延期かな。あんまり人と関わることってなかったからちょっと新鮮♪ そんなわけで、また明日、お兄さん♪』

 

 さすがにすぐそんなでたらめな話を信じられるほど男は夢見がちではない。手首を切ったのだってなにかの手品だったのではないか。今はリアルな血糊なんて簡単に手に入る。彼女の話には神妙性が欠けている。

 

 だというのに、意識を失ったあの日から男は例のショウジョとたびたびあっていた。

 

 なぜだか彼女に妙に惹かれてしまっている自分がいる。

 

 仮にカノジョが人外だとするなら、この得体の知れない魅力を自分にもたらしていることこそ、そうなのかもしれない。

 

 あくる日の休日。彼は連日の深夜までの激務に追われて肉体的にも精神的にも疲弊が募っていた。

 

 ようやくの休み。頭が気だるく起き上がるのも億劫だ。

 

 それでも、目覚ましに叩き起こされて身支度を始める。今日はカノジョと会う約束をしている。本音を言えばずっと寝ていたい。炎天下の空の下に出たくない。

 

 しかし約束してしまったのだ。

 

 今日は一緒に過ごすと。

 

 なんの因果だろう。男はカノジョのことを何一つとして理解できてない。なんなら本名すらも知らない。知っているのはカノジョのアカウント名と例のお屋敷に住んでいることくらい。カノジョが口にした自己紹介の大半を男は信じてなどいなかった。

 

 適当な服に着替えて外に出る。相変わらずうだるような暑さだ。今日もカノジョはあのパーカーを着ているのだろうか。ジリジリと粘着く熱気と日差しを手で遮り、男は歩き出した。

 

 商店街へ向かう。

 

 行きつけの喫茶店で今日は待ち合わせだ。

 

 徒歩で20分。背中に汗のシミを浮かび上がらせて入店すると、店の奥から元気よく男に手を振る姿をみつけた。

 

「おはよ。久しぶり。なかなか会えなくて寂しかったよ~。あと暇だった。ねねっ、今日はなにしよっか?」

 

 カノジョは今日もあの派手なパーカーを着ていた。キャップもフードもそのまま。季節感のない格好に周囲の客から訝しげに見られる。

 

「それより先に飲み物たのんでいいか? もう暑くて。ちょっと動きたくない」

 

「りょっ! てかお兄さん、ちょっと顔色良くない感じするけど、大丈夫?」

 

「あんまり大丈夫じゃないかも」

 

「そっか~……じゃあ今日はのんびりしよう! うちに来てマンガ読んだりテレビ見たり、とにかくダラダラする! それに決定!」

 

「まぁ、いいけど」

 

 あの坂を上るのかと思うとそれだけで気が滅入ってくる。

 

 取り合えず男はアイスコーヒーを注文。ショウジョもブラッドオレンジジュースを頼んだ。

 

 暑くなっていた体に冷えた飲料が染みわたる。喉の渇きも手伝って一気に飲み切ってしまった。

 

「冷たいもの一気飲みすると体に悪いよ~」

 

 と、ショウジョは赤みの強いオレンジジュースをストローで吸い上げる。

 

「にひひ。飲む?」

 

 男の目線が口元に行っているのに気づいてか、ショウジョはからかうようにそんなことを口にした。

 

「もらう」

 

「へ?」

 

 が、男は躊躇いなくショウジョの手からグラスを受け取ると、そのままストローに口をつけて飲んでしまった。

 

「ありがと」

 

「ああ、はい。どういたしまして……」

 

 手元に返されたグラスにショウジョの視線が集中する。その頬が少しだけぷくりと膨れた。

 

 男も間接キス程度で動揺する年でもない。しかし思ったより淡泊なその反応がどうやらカノジョはお気に召さなかった様子だ。

 

 男もそれを感じ取ってはいたが実際回し飲みにも抵抗がないのでどうしようもない。それに結局のところ口内を満たすのは濃い酸味のオレンジジュースの味だけだ。そこになんの感慨も沸いてなど来ない。

 

「つまんない。お兄さんってもしかして女慣れしてる?」

 

「まさか。ただ……」

 

 もう、そういうことに一々反応するような時期を過ぎてしまっただけだ。慣れたのではなく、鈍くなっただけ。ただ、大人なんていうのは大なり小なり、子供よりも多くの事に鈍感になって行く。そうしてセンサーの感度を落としていって、社会に適応することを覚えていくのだ。

 

「ふ~ん……てか、お兄さん。最近なんか忙しそうだね。大丈夫? 今日だって普段にもまして顔色悪いし」

 

「普段にもましてって……」

 

 だったらいつもはどんな顔色なんだ、と男は口をひんまげる。とはえい仕事と家を往復して夜はSNS……建設的かつ生産的、更にはあまり健康的な生活ではないなと思い至った。

 

「仕方ないよ。仕事だったんだ」

 

「ふ~ん。でも、それってそんなにけっそりになるまで頑張らないといけないことなの? それとも、お兄さんはそのお仕事がすっごい好きってことなのかな?」

 

「好きなわけないよ。ただ、働かないと生きていけないんだよ」

 

「どうして?」

 

「どうしてって……そりゃお金がもらえないからじゃないか。食べるのも家に住むのだって、なんだってタダじゃないんだから。要は、生きるために働くんだよ」

 

「なるほど。でも、それならお仕事は生きるための手段ってわけだね。なのに、お仕事してなんだかお兄さん、今にも死にそうになってるけど? それって正しいこと?」

 

「それは」

 

「苦しいならお仕事なんて辞めちゃえばいいのに」

 

「そう簡単にいくなら苦労はしないって。だいたい、いきなり辞めたりしたら職場にも迷惑が掛かるし」

 

「え? それっておかしくない? お仕事って生きるための手段だよね? 生きることの支障になってるお仕事を続けるって、本末転倒じゃない? なんで職場のためにお兄さんの目的が入れ替わってるか分からないんだけど?」

 

「そりゃ、人間関係とか色々と」

 

「辞めちゃったら会わなくなるんだし別に良くない?」

 

「そんな身勝手な……」

 

「あははははははっ!」

 

 突然、ショウジョが声を上げ、腹を抱えて笑い始めた。他の客やスタッフが何事かと視線を向けた。

 

「おかしっ、自分以外なんて全部他人じゃん!? お兄さんの世界はお兄さんの中にしかないのに、まるでお兄さんの中には他人がちゃんといるみたいにっ! あははははっ! ねぇっ、その頭を割ったら、中から別の誰かが出てきたりするのっ!?」

 

 男は自分がバカにされているのかと思った。事実、この時カノジョは男の言動を嘲っていた。

 

 彼の人生の矛盾を、嗤ったのだ。

 

 最悪の気分だ。自分より幼い見た目のショウジョに、これまでの生き方を否定されただけでなく、嘲笑われたのだ。

 

 胃の奥がぐらついた。ぎゅっと絞られるような不快感が胸に生じて眉間に皺が寄る。

 

 男は財布か一万円札を取り出しテーブルに叩き付けると、ショウジョを置き去りに乱暴な足取りで喫茶店から飛び出した。

 

「あっ、ちょっと! お兄さん!」

 

 ショウジョが男の後を追う。ズンズンと先を行く男の背中は商店街と住宅街を跨ぐ大通りの向こう側にあった。歩道を結ぶ横断歩道。信号が点滅し始める。ショウジョの足では今から渡るには間に合わない。

 

「待ってよ、お兄さん! お釣り!」

 

 手に喫茶店のお釣りを握り締め、ショウジョは赤に切り替わった信号に構うことなく道路へと飛び出した。

 

 男が苛立たし気に顔だけで後ろを振り返る。いっそカノジョからの優しいなんていう評価をぶち壊して怒鳴りつけてやろうかと思った。

 

 が――

 

「あ」

 

 男が振り返った瞬間、ショウジョは赤信号にも関わらず車道に飛び出し、すぐ近くに大型のトラックが荷台に大量の砕石を積んで迫っているのを見た。

 

 それから瞬きもしない内に、ショウジョのカラダがトラックと接触。あまりにも軽々しく撥ね飛ばされた小さな体躯は、近くの電柱に衝突してぐしゃりという音と共に地面へと落下した。

 

 なにか、赤いものが視えていた。それがショウジョだったものの肉片だと気付くのに、たっぷりと数十秒ほどかかった。近くで悲鳴が上がる。誰のものかわからない。そもそも男に周りの音など聞こえていかなった。

 

 あまりにも呆気なく、ショウジョだったものがただの物言わぬ有機化合物になってしまった。

 

 パーカーから突き出している白いモノの正体がなんであるかなど考えるまでもない。手足が人体の可動域を無視した角度で折れ曲がり、皮膚を突き破って露出する筋肉よりもなお赤い血河が歩道を通じて男の足下まで到達してきた。そこに、カノジョが握っていたお札も一緒に流れて来た。まるで、こんな状態になってなお、それを返そうとしているかのように男には感じられた。

 

 周囲の喧騒は最高潮に達し、誰かが警察へ通報しようとしたその矢先のことであった。

 

 ほんの一瞬。時間にしてわずか一秒にも満たない刹那、事故現場とその周辺全てが、ブレーカーが落ちたかのように暗転した。

 

 しかし、視界はすぐに元の光景に戻った。

 

「お兄さん」

 

 そして、男の前には、先程トラックに跳ね飛ばされて、肉塊となったはずのショウジョの姿もあった。

 

「忘れ物」

 

 病的なまでに白いカノジョの手には、真っ赤に染まったクシャクシャのお札が握られていた。

 

 ・5

 

「仕事なんて辞めちゃえばいいじゃん。生きる手段が欲しいならアタシが用意してあげるよ!

アタシと一緒になろ? 毎日楽しいことをして過ごすの。疲れたらなんにも考えないでダラダラして、思い付いたことがあったら取り合えずやってみる。楽しければ続けければいいし、つまらなければやめたらいい。

なんでも好きになってなんでも嫌いになって愛でてコワスの!

お兄さんの制約はただひとつ。アタシとずっと一緒にいること! それだけ。

あとは自由! お出かけも引きこもりも制限なし!

ふふ……存分にアタシを使って生を満喫しなよ、お兄さん――」

 

 ショウジョは男にそう言った。

 

 トラックの事故は単独で処理されたらしい。運転手や目撃者は一様に首傾げる事態となったのは当然として、事故の検証を行った警察関係者たちも、現場の状況とトラックの車体にできた傷や凹みの因果関係に辿り着くことはできず、無難な落としどころを見つけて今回の一件は処理されることになった。

 

 周囲の監視カメラの映像も、不自然に事故の直前直後のシーンで画面がブラックアウト。この不可解な出来事はしばらく町内で囁かれることになり、地元紙やネットニュースの記事にも取り上げられた。

 

 男は事故が起きた日の翌日にいきなり会社を退職した。

 

 なんの音沙汰もなく職場から去った男の同僚は彼の自宅を訪ねたそうだが、そこは生活感だけを残して住人の姿はなく。以降そこに彼が姿を見せることはなかった。

 

 男の姿は例のショウジョの住まう屋敷にあった。

 

「てれれってれ~! 箪笥ちょき~ん!」

 

 家主であるショウジョは箪笥の中身を男に見せた。乱雑に詰め込まれた衣服や下着の他、あらゆる世界の通貨が一杯に敷き詰められていた。中には縛られたままの札束も散見される。異色で異質でグローバルな中身だった。

 

 あまりの適当かつ雑な管理方法に男は唖然とした。

 

「これ、全部ホンモノ?」

 

「そうだよ。これ、自由に使っていいからね」

 

「いや、でもこれ」

 

「あ、そっか。日本円じゃないと使えないよね。換金って面倒だもんね。え~と日本円はどこに入れたけっけなぁ……あれ~?」

 

 ショウジョは服も下着も貨幣や紙幣、あらゆる中身をひっくり返して床にばら撒いていく。

 

「あ、あった! はい。取り合えず今はこれ使ってね」

 

 そう言って渡されたのは、万札の束5つ。500万円だった。この時点で男の貯金額の倍である。それが、なんの苦労もなくものの数秒で彼のモノになった。

 

「はは……」

 

 あまりにも呆気なく大金が転がり込んできたことに乾いた笑みが口をついた。

 

 目の前のショウジョがなぜこんな大金を所持しているのか、などという疑問を抱く段階は当の前に過ぎ去った。

 

 目の前のショウジョは最初から得体が知れなかった。先に起きた事故でカノジョが少なくとも人間のカタチをしただけのナニカであることはハッキリした。もはや以前にカノジョが口にしていた内容ももはや疑う余地はない。

 

「キミは……ナニ?」

 

 男はカノジョと初めて会った時の夜と同じ質問を繰り返した。カノジョはフードとキャップを取り、その不思議な色味の髪を広げながら、

 

「アタシは、ひと成らざる夜のモノ、夜にいきるモノ、えいえんのモノ……いっぱい色んな呼ばれ方してる。でもお兄さんには、ぷぁんぷって呼んで欲しいな♪」

 

「ぷぁんぷ、ちゃん?」

 

「ちゃん! あははっ! めっちゃ『年下の男の子』にちゃん付で呼ばれるとか!」

 

 なにがツボかもわからないところでカノジョは笑った。男もつられて笑った。

 

 そうだった。彼女曰く、歳は893ということだ。なら、はだ半世紀も生きていない自分は、きっとカノジョにはひどく幼く見えていることだろう。

 

 男は手渡された札束をカノジョに返した。

 

「多すぎるよ。必要になったらもらいにくるから」

 

「そう? じゃここに入れておくね。好きに持っていっていいから」

 

「ああ」

 

 ショウジョは床に散乱したモノを再び箪笥の中に適当に詰め込んでいく。最後に日本円の札束を見える位置にしまった。

 

「じゃあ、あそぼ!」

 

 ショウジョは男の手を取る。

 

 男はなんの抵抗もしない。する意味もない。きっともう逃げられない。男はここが自分の人生の終着点であることを悟った。だがそう悪い気分でもない。

 

 形容しがたいカノジョ。美しいショウジョ。男の目にはその二つしか視えていない。

 

 仮に彼が、もっと奥深く、カノジョの正体に近付いていたなら、きっと今ごろ正気ではいられない。

 

 だから、目にみえる情報だけを男は受け入れる。

 

 カノジョのカタチは人間をしている。だったらそれ以外のことを考えない。深くを知覚ろうとしてはいけない。表面の上澄みだけを認識していればいいのだ。

 

「お兄さん、なにか食べる? インスタントいっぱいあるよ!」

 

「あ、お風呂の準備してあるよ。なんなら~、一緒に入る~? にしし」

 

「疲れた? じゃあ寝よっか……ベッド? 一つしかないよ~! あ、一緒に寝るからね? 逃げないでね?」

 

「うん? アタシは寝るのかって? 寝ないよ? だから隣で、お兄さんの寝顔みてるよ。えへへ」

 

「え? アタシの生活リズム? やっぱり夜だよ~。言ったじゃん。お日様は嫌いなの!」

 

「ふぇ? じゃあなんで昼間に出歩いてたのかって? それは当然! お兄さんの生活に合わせてからだよ! どう? アタシって尽くすタイプだって思わない?」

 

「あ、寝ちゃった? うん? …………ふむふむ。あらら~……にしし……『じゃあ君に合わせる』だって~……お兄さん、寝言までやっさしい~……」

 

 奇妙なショウジョと、曰くつきのお屋敷での生活が始まった。

 

 ・ろく

 

 男の時間は昼から夜に変わった。日暮れと共にショウジョを伴って外に出る。

 

 深夜でも人間の世界には娯楽があった。ショウジョと映画館に入ってナイトシアターを鑑賞する。なんともいえないB級ホラーだ。外に出た瞬間にショウジョはケタケタと映画のポスターを指さしながら大爆笑していた。

「くっそつまらなかった!」らしい。

 

 別の日はネットカフェを訪れた。二人用のシートを頼んだ。想像以上に狭い。足は伸ばせるが肩は完全に密着している。「せまい!(小声)」、「なんか変なニオイする!(小声)」、「空調利いてる? なんか暑くない?」、「ドリンクバーミックスジュ~ス~!(小声)」、「ここってエッチなサイトも見れるんだ。あ、有料だ」

 

 ネットカフェは意外とカノジョにも好評なようだった。漫画を大量に持ち込んで肩を並べて読みふける。その間だけはショウジョも静かにしていた。しかしひとたび飽きるとネットに接続して有料アダルトサイトに接続して鑑賞していた。


「これだけはひとりじゃできないんだよねぇ。お兄さん試しにアタシとヤッテみる?」

 

 さすがに男も吹き出す。ショウジョはクツクツとバカにするような嫌な笑みを浮かべていた。腹が立ったので一発脳天にチョップをお見舞いしてみた。「いった~!」と大きな声が出てスタッフに注意されてしまう。その後は二人ともしずかに漫画を読んだりオンラインゲームに興じて明朝まで無駄に時間を過ごした。外に出た時、男の体はバキバキになっていた。同じ体勢でずっといたせいだろう。服にも妙なニオイがこびりついてしまった。暇をつぶすのにはいいかもしれないが長時間の利用は控えようと男は思った。

 

 またある日は屋敷で昼の間に撮り貯めておいた番組をダラダラと垂れ流すという生産性皆無な時間の使い方をした。

 

 ソファで隣り合って座り正面の60インチの画面と対峙。深夜の番組を視聴し、カラーバーが表示されたタイミングで録画を再生する。

 

 休日の朝に放送している定番アニメ、朝ドラがメイン。あとは過去に放送された衝撃映像系の再放送なんかを適当な順番で再生していく。ショウジョが一番興味を示したのは女児向けアニメだった。男はテレビの画面よりもそんなショウジョの反応を追いかけていた。

 

 カノジョは表情をコロコロと変える。見ていて飽きない。

 

 録画を消化していると不意にショウジョは男の膝を枕にゴロンと寝転がる。

 

 男はなんの抵抗もなくカノジョを受け容れた。

 

 番組がCMに入ると、ショウジョはカラダを仰向けにして男の顔を見上げてニッと笑みを見せる。

 

 男も微笑でそれに応えた。こんな一日の使い方も悪くない。

 

 その日は近所の公園を訪れた。深夜の公園に人気はなく、ショウジョと男は街灯の灯りを頼りにキャッチボールに興じた、ショウジョは夜でも昼間と変わらず世界が視えているという。しかし男は落ちた視力も手伝ってボールをよく見失って取り損ねていた。

 

 取りこぼした球を走って取りに行く。戻ってくる頃には軽く息切れしていた。昔は男ももっと走れていたはずだ。体力の衰えを露骨に感じて気分が落ち込んだ。

 

「なら運動すればいいじゃん。時間はいっぱいあるんだから、好きな時に好きなだけ動きなよ」

 

 キャッチボール後に登ったジャングルジムの上でショウジョは男に言った。運動は嫌いだが、なぜかなんでもできるなると、普段は嫌だと思えることでもやってみようと思えてくる。夕方にランニングする日課でも取り入れてみようか。そういえばフィットネスができるゲームもあったか、と思い出し、男は近々購入を検討する。

 

「じゃあ今度それで一緒に遊ぼうよ。確か対戦できるモードとかあるんでしょ?」

 

 カノジョも乗り気だ。一人ではすぐに飽きるかもしれないが、カノジョが一緒ならなんとなく続くような気がした。

 

 この日の最後はブランコに乗った。

 

 大人になって乗ってみるとブランコは思いのほか狭かった。お尻が鎖と完全に触れている。それでも子供より強くなった力で漕ぐとぐんぐんと振り幅が大きくなって少し怖いと感じる。

 

 隣のショウジョはと言えば、相変わらずケラケラと笑いながら男以上にブランコを漕いでいた。あまりにも勢いが付き過ぎているせいで今にも一回転しそうなほどである。

 

 が、現実にはそうはならず、ショウジョはブランコから飛び出して高く跳び上がった。頭上の青白い月光を背負って舞うショウジョに男は魅入られた。

 

 ほんの一瞬の芸術。

 

 ショウジョはダンと地面に着地して男に向かってVサインを見せつけた。

 

「ほら! お兄さんも! びゅ~ん! って!」

 

 どうやら跳べということらしい。

 

 幼い頃なら何の恐怖もなくやってのけた遊び。しかし怪我のリスクを計算できるようになってしまった大人な彼は躊躇する。

 

 が、ショウジョは両手を広げて男を迎え入れる準備をしていた。

 

 ――ええい、ままよ!

 

 意を決して、男は跳んだ。

 

 が、

 

 ガタンッ、ドスッ、ズシャー……

 

「うわぁ~……」

 

 男のお尻が鎖に挟まれた状態からうまく抜け出せず、前のめりにブランコから落っこちて顔を勢いよく地面に擦らせる結果となった。

 

「だ、大丈夫?」

 

「いってぇ~……」

 

 本当に痛い。怪我をするのなんて何年ぶりだろうか。しかし今は傷みもそうだがなによりもショウジョを前に無様を晒したことへの羞恥が上回った。

 

「ありゃりゃ……血が出ちゃってるね。人間ってこういうときすぐに治らないから不便そう」

 

「そりゃ、トラックに撥ねられても一瞬でケロッとしてるひとみたいなにはなれたらいいな、とは自分も思いますよ」

 

「たはっ。それは無理な相談だ。君は一生人間のままだよ」

 

「え?」

 

「うん? どうかした?」

 

「あ、いや……」

 

 なんとなく。男は勝手に、このまま自分もいつかはカノジョみたいな存在になるものだと思っていた。カノジョが、自分をそうするのだろうと、思い込んでいた。

 

 男の思考に、ショウジョは気付く。

 

「あはっ。お兄さん、アタシは君をどうもしないよ。ただ一緒にいるだけ。それ以上は望まない。でもいつかのオワリはある。だけど、お兄さんをこっち側にするつもりはないよ」

 

「そっか……うん。そっか」

 

「お兄さん」

 

「ああ」

 

「自分が定命であることを喜びなよ。その方が、きっと人生は楽しんだから」

 

「そう、なのかな……」

 

「もうすぐ900になるアタシが言うんだから、間違いないんだよ」

 

「そっか……うん。そっか」

 

 ショウジョは男を隣においても、交わらせるつもりはないらしい。

 

 恐ろしく、おぞましく、形容しがたく、理解できないカノジョ。

 

 そんなカノジョが垣間見せた、小さな拒絶だった。

 

「帰ろっか。コンビニで消毒薬とか買って、ちゃんと治療しないとね。アタシんち、病気も怪我もないから、薬とか、そういうの全然用意してないしね」

 

 そう言って、公園を後にする。

 

 屋敷に戻る途中のコンビニ。明かりの前には、今日に限って妙にガラの悪そうな男たちがたむろしていた。男たちは5人。辺りにゴミを散らかしてゲタゲタと耳障りに騒いでいる。

 

 ショウジョは彼らに構うことなくその脇を通り過ぎようとする。男もその後に続こうとする。

 

 が、目ざとくそれに気付いた集団の一人が二人の――正確にはショウジョの――進路を塞いだ。不自然に金色に染められた髪だった。

 

「……」

 

「うん? なに?」

 

 金髪の男は下からショウジョの貌を覗き込む。フードとキャップに隠されたカノジョの容貌に、金髪は僅かに目を見張り、すぐに口角を上げてなめくじのような笑みを浮かべた。

 

「君、どっかでモデルとかやってる感じ?」

 

「ううん。別に」

 

「そうなの? ぜってぇそうだと思ったんだけどなぁ。君、めっちゃ可愛いじゃん」

 

「はぁ?」

 

 後ろにいる男のことなど眼中にない様子で、ガラの悪い男はショウジョを誉めそやす。

 

 だがショウジョの反応は淡泊で、背中越しにも「邪魔だな」と感じているのが判った。

 

「ねぇ、良かったらさ。これから俺たちと飲みにいかね? いい店しってんのよ。ほらここ。結構近いっしょ? なぁ、お前らもいいよな!?」

 

 男は地図アプリを開いて一件の店を表示して見せて仲間に呼び掛ける。

 

 全員が同じ目をしていた。どろっして気分の悪くなる目だ。

 

 青い間接照明が怪しい雰囲気を演出しているバーの画像が映っている。男はその店に見覚えがあった。

 

 以前に通勤していた道中にある店だ。雑居ビルの地下に設けられた店で、良くない噂が囁かれていた。

 

 曰く、夜な夜な少女を連れ込んでは地下でいかがわしいパーティーが開催されているとのこと。曰く、違法なカジノが経営されているとのこと。曰く、違法薬物の売人が出入りしているとのこと。

 

 内容の真偽のほどは定かではない。が、この連中と関わることが社会的に良い方向へ転ぶことはないだろうことは男にも判断できた。

 

「誘ったのはこっちだし、今回は俺達の奢りってことで。行こうぜ」

 

 もはや決定事項であるかのように金髪は振舞う。

 

 だがショウジョは場の雰囲気にそぐわないマイペースな口調で誘いを断る。

 

「ああダメダメ。アタシ今このひとと一緒にいるから。お誘いは謹んで辞退させてもらうよ」

 

「いやいや、そう言わないでさ。なんなら、そっちのお兄さんも一緒で構ねぇし」

 

 金髪が男を睨みながらショウジョの腕を掴む。どう見ても歓迎している様子ではない。言葉通りに付いて行ったらどんな目に遭わせられるか。

 

 コンビニの中でも店員や他の利用客たちが事の成り行きを不安そうな顔で見守っていた。見てないで警察なりに連絡をしてくれよ、と男は思った。

 

「ちょっ、ちょっと!?」

 

「おら、おめーら行くぞ~」

 

 金髪の声に周りの男たちもぞろぞろとその場で移動を始める。

 

 ショウジョの手首は金髪が握っている。そのまま流れで引っ張られていきそうになっていると、男は動いた。

 

 アクセがじゃらついた手首を握り制止させる。

 

「あん、なに?」

 

「悪いけど、その子を勝手に連れて行くのは――」

 

 と、男が抗議の声を上げようとした時、横っ腹に衝撃を受けて吹っ飛んだ。金髪の仲間が蹴りを入れたのだ。

 

「ああ~、やべぇ。なんかしらける。お前さ、ちゃんと空気読めって、空気――なぁっ!」

 

 金髪はショウジョから手を放して地面に倒れ込む男の腹に更に蹴りを入れる。やたら先の細い靴の先がめり込み男は呼吸ができなくなった。

 

 金髪の動きを皮切りにガラの悪い集団は男をサッカーボールでシュートでも決めるかのようなフォームでなんども蹴り転がした。男は体を丸めて暴力に耐える。頭上から「なっさけね~!」と嘲笑が聞こえた。それでも男はひたすらに身を固くして彼らが飽きるのを待つ。

 

 が、暴虐はそう長くは続かなかった。

 

「お兄さんたち、なんか楽しそうだね。それってなにかの遊び?」

 

 ショウジョがそんな問いかけをした。その声にほんの少し彼らの動きは止まる。

 

「そうそう。遊び遊び。こんな感じの――なっ!」

 

 金髪が男の背中を再び蹴った。顔に張り付いた笑みはひととして歪んでいる。ショウジョはそんな金髪を前にニッコリと嗤った。

 

「へぇ、人間ってすごいね。痛みまで遊びにしちゃうなんて。ホントにすごい……じゃあさ、アタシとも、遊ぶ?」

 

「えっ!? なになに!? なんか急に乗り気な感じ!? いいじゃん! いいじゃん!」

 

「あ……や、やめ」

 

 地面から男はショウジョを見上げて恐怖の表情を浮かべた。金髪たちはショウジョの方に集まって行く。男のことなどすでに眼中になく、ショウジョの全身を嬲るような目つきで見つめている。

 

「そんじゃ、今度こそ――」

 

 と、金髪がショウジョに手を伸ばしたとき、彼はなにか妙な違和感を覚えて動きを止めた。

 

 なにか、周りが異様に静かすぎる。動的な気配の一切が、感じられない。コンビニに眼を向けた。明かりは点いているのに、中には誰の姿もない。客だけではない。店員の姿もだ。いつもどこからか聞こえてくる車の音もしない。空気の流れが生む、あらゆる音が、してこない。

 

 ブツン、と……セカイのブレーカーが、落ちたかのようだ。

 

「おにぃさん♪ あ~そびましょ♪」

 

 ショウジョの声だけが、やたらと鮮明に、耳に入ってきた。

 

 直後、ショウジョの足元から影が黒い水のように広がり、金髪たちは足の裏に、激痛を覚えた。

 

「――ッ!? ――――――ッッ! ――――ッッッ~~~~!!」

 

 声を出すことができなかった。地面と靴の間からは血が染み出し、3人の男たちは痛みに耐えきれず影の地面へと倒れ込む。倒れた時に男たちの足裏から皮膚と筋繊維がべりべりと剥がれた。

 

「――――ッッ~~~~!!」

 

 地面に転がった男たちは地面に触れた箇所に更なる激痛に見舞われる。しかも今度は設置している面積が大きい分、苦痛も比較にならなかった。なんとか体を離して痛みから逃れようと悶える様は芋虫を連想させる。

 

 男の一人が強引に体を地面から引き剥がした――一緒に皮膚も剥がれて赤と白の筋肉が剥き出しになって血まみれだ。

 

『アハハハハハハハハハハハハハハハハハハッッッ!!!!!!!』

 

 ショウジョの狂った嗤いが木霊した。

 

 仲間の惨状を前に、この地面に倒れるのはマズいと、残った2人はなんとか踏ん張る。が、もう一人の男は涙だと鼻水を垂らしながら、膝から前に崩れ落ち、よりにもよって顔から影に倒れた。

 

「ッ――――――――――――――――」

 

 男は体をビクビクと痙攣させていた。手足が微妙にバタついている。殺虫剤を掛けられた蟲のごとき無様さだ。

 

 辺りは男たちの血と影の黒で染められている。

 

 最後に残った金髪もガクガクとおぼつかない膝に負けて体が前に倒れる。

 

 が、咄嗟に両手をついて四つん這いの格好になって耐えた。しかし両手からも痛みが生じた。それでも歯を食い縛って体を支え続ける。地面に近付いて金髪はようやく気が付いた。

 

 影からなにか、くちゃくちゃという咀嚼するような音が聞こえていた。

 

『アハッ、痛みは愉しい? 愉しんでくれてる? あ、喋れないか。でも、ちゃんと気に入ってくれたみたいで良かった。みんな、すっごく痛そうだもん。ならすっごく愉しいってことだよね』

 

 金髪はショウジョを見た。そこにいたのは、ナンダッタノカ。ひとのカタチはしていた。でもナカミが違う。肉と皮は人間を模倣しているが……コレは根本的に、チガウ。

 

 悟った。コレはホントウに、ただジュンスイに、アソンデイルのだと。

 

 なら、命を乞うことも無駄なのだ。なぜなら、カノジョにとってイノチの価値とは、アソビの価値にも劣るのだから。

 

 咀嚼音はゆっくりと、着実に、男たちの血肉と骨を削ぎ、しゃぶり、啜り、嚥下していく。

 

 音無しのセカイで、5個の肉玉が、喰われた――

 

 ・■■■

 

 セカイが元の世界に戻った時、そこにはなんの異常も起きてはいなかった。ただ5人がその場から消えただけ。

 

 ショウジョは何事もなかったかのように男に手を貸し、増えた怪我を治療するための薬を買って屋敷に戻った。

 

「――近いうちに引っ越さないとマズいかも。多分、アレに気付かれちゃったと思うから」

 

 ナニに? ――とは、男も訊かなかった。

 

 自分が触れてもいいセカイの話なのかも判断できなかったし、特に知りたいとも思わなかったからだ。

 

 ショウジョは男の傷に不器用な治療をほどこしながら、「お引越しになるから、準備しててね。あ、どこか行きたいところってある? あ、でも京都と東京とロンドンとヴァチカンは絶対にダメね。たぶんお兄さんが死んじゃうから」と、言われた。

 

 じゃあ、と適当に思いついた場所を男は口にする。

 

「おっ、いいじゃん! ならあとで家を探そうね。今度はもっと小さい家でもいいかも。ログハウスとかいいんじゃない!」

 

 このコワイ、コワイ、ショウジョと行動を共にすることからはもう逃げられない。いや、仮に逃げても、きっとソレも遊びに終わって、最後にはカノジョの下に帰って行くことになるんだろう。

 

 死ぬまで、ずっと――

 

「……お兄さん」

 

「うん?」

 

「あなたの死がアタシたちを別つ迄……色んな事、しようね」

 

「ああ」

 

「じゃあ、差し当たり…………シヨッカ」

 

 ショウジョが、男の首筋に貌を埋めた。

 

 男の意識はバチンと切れて、次に目覚めた時には、

 

 ――また、別の夜を歩いていた。

 

 隣を歩く、コワイ、ショウジョと一緒に。

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