3-3
横目で確認した青いビニールシートは、憂いを帯びているかのように黒く沈んで見えた。その下にそのアールがいるなど、お天道様だけではなく、神様さえも思うまい。
モチが安堵の表情になる。私もだ。
いやぁ、全く、良かった良かった。
なるほどなるほど。
はぁ、それは気付かなかったなぁ。
つまり、簡単に言えば。
アールは、同僚にはめられたということか。
アールほど丁寧に仕事をする者などそうそういない。自分の仕事はもちろんのこと、上司や同僚の仕事も把握して、終わっていないと注意喚起をするほどなのである。
そんなアールが、自分の机の上に置かれた資料に気が付かなかった。
絶対にありえない。
机の上のペン立ての中のものがほんの僅か移動していることに勘づいて、誰が勝手に拝借して戻したのかを周りに尋ねるくらいなのだ。机ごと消えていなければ、机の周辺で起きる変化にはすべて気が付くだろう。
命をかけてもいい。
私の命で不十分なら、モチの命も賭けていい。
アールは、妬まれたのだ。
おそらく、スピード出世の噂によって抜かされると危惧した誰か、もしくは置いていかれる、並ばれてしまうと思った誰かが机から資料を取ったのだ。きっと、今戻れば机の抽斗に資料が入っているはずだ。誰かに抜き去られた証拠はなく、重大さからも犯人が出てくるとは思えない。
アール、運の悪い女だ。
しかしまぁ、これでどうにかなった。
あとは、青いビニールシートを外して、仕事はできるが男運と人間関係に恵まれなかった女をティクヴィに紹介するだけである。好きになってしまった人に利用される人生だったのだから、同僚と同期に利用される人生もお似合いのはずだ。ぜひ、身の丈に合った不幸を噛み締めながら適材適所の意味を理解するといい。
助かった。
本当に、良かった。
何の問題もない。
早く帰ろう。
特に、今日は疲れた。
近日中に有給休暇をとってどこか旅行に行こう。
観光して、温泉に入って、美味しいものを食べて、お土産も買おう。
あぁ、ほっとした。
「ティクヴィ様」
「なんだ、ウメハラ」
「一つ、質問をさせて下さい」
「別に、いいけど」
「アールというのは、あくまであだ名です。本名は全く違うので、この署内にいる、本名にアールという文字が入っている誰かという可能性はありませんか」
「いや、あだ名がアールということは聞いていたから、俺もそう呼んでるだけなんだけど」
「そうですか」
私は青いビニールシートを見つめる。
「もう一つだけよろしいですか」
「あぁ、いいよ」
「勇者等の特別な転生は、送付する資料は業務にあたる者と、署長に送るということになっています。つまり、今回はアールだけではなく、業務ミスをしている部下の存在に気付かなかった署長にも責任があり、むしろ監督不行き届きとしての責任が重いということになりませんか」
「送付する資料を業務にあたる者と署長に送る場合は、転生先が特別な時ではなく、転生においてチート能力を付加する場合に限られる。つまり、チート転生じゃないから、今回はそれに該当しねぇの」
「ありがとうございます。失礼しました」
私はティクヴィに笑顔を向けて軽く頭を下げる。
体を青いビニールシートの方へと向ける。
「あの、すみません」
「今度は何だよ」
「勇者に転生するような魂は、強靭である場合が多いと聞きます。今現在、五時間をこえている状態ですが、一般的な魂の消失のタイムリミットである二十四時間をこえていません。さきほど、ティクヴィ様は消失したと言っておりましたが、魂が弱々しくなったことで調査班が見つけられず、ティクヴィ様に間違って消失と報告した可能性があります。再度の調査おすすめいたします」
「いい加減にしろよ」
「誠に失礼いたしました」
私は視界の正面に青いビニールシートを置いて、手を伸ばそうとした。
そして。
「もう一つ質問をよろしいですか」
自分の足が、青いビニールシートに向かって、ただの一歩も出ないことに気が付いた。
ティクヴィが舌打ちをする。もちろん、何かが爆発するような音ではなく、むしろ聞き逃してしまいそうなほどの小さな音量である。けれど、私はその音によって自分の心が大きく揺れたことが分かった。いや、体も僅かに揺れたような気がした。
歯向かった。
歯向かってしまった。
歯向かったように思われるような振る舞いをしてしまった。
私は質問をしただけである。別にティクヴィに反抗したわけではない。神様のことを薄っすらと馬鹿にしていると言葉にしたわけでもない。ただ、ティクヴィに助言をしたのだ。
その考えには穴があり、もしかしたら放置しておくと広がっていき、足元をすくわれる恐れがあります。慎重になりましょう。
そう言ったのだ。
それに、そもそも分かりきったことではあるが。
「よぉ、ウメハラ。お前、俺に向かって何様なわけ」
アールのような優秀な人間が、ここで潰れていいわけがない。
私はクズだが、それくらいのことは分かる。
ティクヴィが私に近づき、自分の影を私の体に乗せてくる。
「すみません」
「いや、すみませんじゃないでしょ。どういう意味だよ」
「確認が必要かと思いました」
「何の」
「アールの件です」
「誰に言ってんの。ねぇ、誰が誰に向かって何言ってんの」
「申し訳ありませんでした」
「キモい」
「すみません」
「キモい、キモい。キモいキモいキモいキモいキモいキモいキモいキモい」
私の近くにもう一つ影が寄ってくる。
モチだった。
「ティクヴィさん。確かに、僕もウメハラの言っていることは、ちょっと過剰な心配なのではないかと思ってます。でも、決して的外れという感じでもないんじゃないですかね」
「様」
「え」
「ティクヴィ様だろ。てめぇ、何勝手にさん付けにしてんだよ」
ティクヴィの目は、生き物の目をしていなかった。命が宿っていない。熱がない。光っていない。どちらかと言うと、自らのエネルギー量を誇示するかのような発散ではなく、無限に吸収しようとする欲深さのように思えた。
何億羽という烏の死体をワイヤーで繋ぎ合わせて、大きな烏の肉塊を作り、モーターを使って無理やり羽を動かしながら、スピーカーを使って絶えず鳴かせている。
今の表現をどう感じただろうか。
歪で、異臭騒ぎが起きそうで、奇妙で、血が滴っていそうで、地面には骨やら肉片やら大量の黒い羽が落ちていそうで、同じ鳴き声が繰り返し聞こえてきそうで、モーターの無機質な音が響いていそうで、時間の経過とともに烏の死体がワイヤーから千切れて落ちては低い音を立てていそうだと感じたのではないか。
私はそういう不快感と恐怖を、目の前の神から感じていた。
「おい、お前らアールがどこにいるのか知ってんだろ。どこだよ」
モチの目が泳ぐ。
「僕たちは、分かりません」
「なんでだよ、三人一組で行動してんだろ。じゃあ、連絡とれよ」
「とれません」
「はぁ」
「電波が悪いみたいで」
「そんなわけねぇだろ。分かりやすい嘘つくなって。殺すぞ」
ティクヴィが壁を叩き、部屋全体が重く振動した。
私とモチの呼吸音が少しずつ小さくなっていく。意識的ではない。体が行う、本能的な判断である。
「もう、お前らが決めろ。アールじゃなくていい、資料を失くしたのはどっちなのかお前らが決めろ。今から、相談して、ウメハラかモチか、どっちのせいで魂が消失したのかさっさと決めろっ」
私は俯き、一切動かなかった。
沈黙をすることでしか、寿命を延ばす以外に私にできることなど何もない。
ティヴィの圧が増していくのが分かる。
「どっちも犯人になる根性がねぇんだったら、さっさと連れてこいよクソアールをよぉっ。何でアールをかばってんのか知らねぇけどなぁっ、こっちは、あいつが資料を手にした所まで見てんだよっ。早くしろよっ、死ねっ、ボケっ」
アールが資料を手にした所まで見た。
待て。
今、なんと言った。
今、なんと口走った。
最後じゃない。ほんの少し前の発言だ。
アールが資料を手にした所まで見た。
そう言ったな。
今現在の可能性は、アールがスピード出世の嫉妬によって資料を隠された場合である。それは、アールが資料の存在を認識する前に奪われたことが前提だ。何故なら、自分宛の資料を手に取っているなら、消えれば気が付くし、見つかるまで探すだろうし、期限が迫れば慌てるからである。特にアールならば、一年前からスピード出世の話が来ているので、なおのこと業務を失敗しないよう慎重になるはずだ。特に、好かれておかなければならない神様からの資料ならば、鍵のかかった抽斗にでも入れるだろうし、机のどこかに置くようなことは絶対にしない。誰かに奪われるような失敗などするわけがない。私とモチの知っているアールは、そんなに間抜けではない。
ティクヴィは嘘をついている。
ヒモを養うために体を張る女性の集中力を侮ってはならない。
さて、そう考え始めると、他にも怪しいところがある。
例えば、私とモチを犯人にしようとする意味。急いで事件を解決しようとしているから、ここにいないアール以外でもいいと考えていることは分かる。
しかし、その急ぐ理由は一体どこにあるのか。
急いだから、何だと言うのだろう。
むしろ、急ぐ意味などないのではないか。
魂が消失しているということは、この業務の失敗は確定している。つまり、もう急いだところで何の意味もないので、私とモチを急かす必要はない。ティクヴィの言い分からすればアールが資料を手に取ったことは事実なのだから、アールが犯人なのは疑いようがない。それなら、アールがいる時にまた来ればいいだけのことである。何もしなくてもタイミングさえ待てば、私かモチに無理やり濡れ衣を着せなくても万事解決ではないか。
何故、そんなに焦って犯人を決めようとする。
というか、そもそも論として。
何故、ティクヴィはここにいるのだ。
監査部隊のトップがわざわざ実務を行うものなのか。トップと呼ばれるくらいなのだから、部下など何人もいるはずであり、指示をすればいいだけではないか。自分が動く必要など全くない。最悪、神様という立場を利用して、現世にいる人間に代わりに見てこいと指示をすることもできたはずである。
おかしい。
絶対におかしい。
私は、間違いなく重要な何かを見落としている。
例えば。
ティクヴィがなんとなく実務をやりたくなった可能性。
そんなことがあるだろうか。却下。
ティクヴィが真面目な神様である可能性。
神様は基本的に不真面目だ。却下。
ティクヴィが人間が好きで会いに来た可能性。
それならここまで私とモチを追い込まない。却下。
実はティクヴィは神様ではない可能性。
月刊神様の表紙を飾れるのは神様だけだ。却下。
つまり、自ら赴いて業務をこなす最大の理由は、誰にも任せてはいけないし、任せられない業務。それは、もはや正式な業務と言えるのだろうか。
言いかえるならば、不正。
「そういうことか」
資料がない。奪われた可能性もない。神様は仕事をよくしくじる。そして、ティクヴィは明らかに嘘をついている。
つまり。
ティクヴィは資料の送付を忘れていたのだ。
では、何故それを隠そうとしているのか。わざわざここまで来なくとも、神という立場で、人間のせいにして誤魔化せばいいだけのことである。しかし、しなかった。いや、真実は違う。理由は単純なはずだ。おそらく、できなかったのだ。何故なら、神様でもどうにもならないほど問題が大きかったからである。
今回は、転生先に勇者が採用されており、この業務の重要性は、最初にティクヴィ自身も言っていた通り、神様でさえもかなり慎重に業務を行い、責任問題は業務担当者だけではなく署長にまで及ぶほどである。当然、罰則も大きいと考えるのが妥当だろう。そうなると、いつものように神様という立場で、警察や人間に責任を押し付けるというパワープレーを行っても、実務担当者を懲戒させるだけでは、収まりがつかない。こうなれば、警察側の幹部たちが、自分の身に降りかかる火の粉を素直に受け入れるわけもなく、責任の所在をはっきりさせるために調査を要求する可能性が高い。結果、神様側もその要求を無視できず、調査は行われる。
アプリの説明の時にモチが話していた通り、資料の送付には承認経路をたどる必要があるため、調査が始まればティクヴィが送っていないことは暴かれてしまう。
そうか。
ティクヴィは私たちの言質が欲しかったのだ。
どんな形でもいいから資料を紛失したと、警察側の実務担当者の口から引き出したかったのだ。そうすれば、調査が始まる前に警察側の失敗として安全に処理できる。そのためだったら、アールでも、モチでも、私でも誰だってよかったのだ。威圧的な雰囲気を出して、追い詰めて、脅迫さえすればいい。失くしました、の一言さえあればすべてが解決するのだ。
確かに、そう考えれば、こんな業務を部下やそれ以外の誰かに任せるのは不可能だ。仮に任せるとしても業務内容を説明した時に、言質をとる意味について上手く説明できなかったり、絶対に必要だということを理解してもらえなかったら、不正を勘付かれてしまう恐れがある。気づかれることが確率的に低いと分かっていたとしても、誰かを信じるというのは難しいものだ。特に、不正を隠そうとしている者の目には、全員が敵として映るだろう。
そうだ。
あぁ、思い出せばすべてそうではないか。
アールが選ばれた時点で、何もかも察するべきだった。
何故、気が付かなかったんだ。
アールが罪を擦り付けられる標的として選ばれた理由。
そして。
私とモチの机が汚いのに濡れ衣を着せる標的として選ばれなかった理由。
それは、アールがスピード出世の候補に挙がったからだ。アールは神様に顔を見せに行ったこともあると自慢をしていた、きっとティクヴィはその時にアールを知ったのだ。もしかしたら、ある程度の役職を持っている神様の中ではアールの資料が出回ったのかもしれない。とにかく、誰に擦り付けてもいいティクヴィにとって、私もモチもアールも大した差はなかったのだ。
荒い。
荒すぎる。
人間を舐め過ぎだ。哀れなる神よ。
もしも、最初に私かモチの名前を出していたら、気づかれずに済んだというのに。
ただし、真実に気付いたとしても。
「おいっ、クソウメハラ黙ってんじゃねぇぞ、クソボケっ」
この状況からの脱出は別の問題である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます