花散らしの風(はなちらしのかぜ)

~神のよりしろ~ 壱

 みやこから遠く離れ山に囲まれた小さな盆地に、川が一筋流れていました。

川の両脇には田んぼが広がっていましたが、何しろ狭い土地のこと人々は山際にしがみつく様に茅葺かやぶきの家を建て暮らしておりました。


 村の中ほどを流れる川が緩やかに曲がったあたりには小さな丘がありました。

その丘には村を見渡すように、それは大きく見事な枝振りの桜の木が一本立っていました。


 古い古い桜の木で、村の長老が童子わらわの頃からもうこの姿だったと言います。

大人が三人がかりでやっと抱えることが出来るほど太い幹には、幾つかのウロがあいておりました。

何本もの丸太で支えられながら、大きく広げた枝いっぱいに薄色の花をつけるさまきりかすみがかかったように見えるほどでした。


 桜の木はその花をもって毎年村人に春を訪れを告げ、野良仕事の始まりを教えていたのです。

今年も枝いっぱいに蕾をつけ、春風がもうひと吹きすれば花も綻び始める風情です。

村人は丘の下の道を通りながらその様子を眺めて、道具の手入れを始めるのでした。


 この桜の根元には程よく平らな岩が一つあって、その昔平家の誰それが都から落ち延びるときに座ったとか、高名な僧がここで一休みされたとか、そんな言い伝えがありました。

今はその岩にひとりの痩せた老人が腰かけています。


 老人は白髪に風折烏帽子かざおりえぼしをつけ、狩衣かりきぬと狩袴は灰茶の生地に浮線桜ふせさくらの柄の上下共裂ともぎれ

その姿はまるで年老いた武士もののふのような出で立ちです。

老人は今日も小高い場所から村を眺め、親に背負われて通りすぎる幼子にニコニコと手を振っています。


 桜の下に老人の姿を見かけて数日がたった頃、暖かい風に誘われるように桜の花が一輪、また一輪と咲き始めました。

さぁ、田植えの季節の到来です。

冬の間雪に閉ざされ静かだった村に活気が戻ってきました。


 そんな早春の吉日。

山に住まう「田の神」様を里へとお迎えする祭りが村総出で行われました。

賑やかなお囃子はやしと共に「田の神」様のための神輿みこしが山の神社に向います。

桜の下の老人は今日も岩に腰をかけてそれを眺めておりました。 


 山から神輿みこしが村へと戻った翌日。

ふわりと一羽のカラスが桜の高い枝にとまり


「神、まいる。」


と告げました。

それを聞き取れたのは桜の下に座る老人だけでしたが、カラスはその老人が深く頷くのを見ると満足そうに山へと戻っていきました。


 『 ―さぁ、今年もお迎えすることにいたしますかな 』


 老人は岩からゆっくりと立ち上がると、細い杖をついて桜の木へと消えていきました。


 翌日のこと。

朝日とともに川上から小さな笹舟が流れに乗って下ってきました。

笹舟は途中の渓流を軽々と越え、桜の立っている丘の川岸にスイと流れ着きました。


 岸辺で迎える桜の老人が笹舟に向かって恭しく手を差し伸ばすと、小さな笹舟の上に万葉いにしえから訪れたようなよそおいの一人の女性が滲み出るように現れました。

その体を包むおおそで背衣からぎぬは淡い新芽の色、浅縹うすきはなだを胸高に錦の 紕帯そえひもで結び、春霞色の紗の薄衣うすごろもを頭から被っています。

その女性は、老人の手を取ると音もなく岸辺へと足を踏み出しました。


 『 ―桜神オウカ

出迎え感謝します 』


その声は木々を渡る風のようでした。


『 ―稲魂イナダマひめ

今年もよくおいでくださいました 』


 桜神オウカと呼ばれた老人が深く腰をかがめると、稲魂イナダマひめはにこりとその頬をゆるめました。


 稲魂イナダマひめは、豊穣ほうじょうというものを体現したように体つきをされていました。

そのお顔立ちはふっくらとしていて、よく肥えた赤子のように首にも手首にもくびれがあり、つきたての餅のように柔らかそうでした。

べにをつける必要もない血色のいい頬と唇。

まあるく盛り上がった頬に埋もれるように若草色のつぶらな瞳が微笑んでおられます。


 老人に促されて霧色の薄衣を頭から外すと、その下から艶やかな黒髪が現れました。

頭上にもとどりを一つ高く結い桜の小枝をこうがい馬酔木あせびの花を釵子かんざしに差し、左右耳のところでくるりと長い角髪みずらにされています。


 『 ―ひめ

今年もまあ、丸くおなりで 』


老人はいたずらな笑みを浮かべました。


 『 ―桜神オウカ、そう言うお前はまた老いぼれましたね

去年は杖などついておらなんだものを 』


稲魂イナダマひめはくすくすと笑いながら古木のゴツゴツとした幹を優しく撫でられました。


『 ―弱々しい若木であったものを

 300年余りの間に、ほんに大きく美しくなった 』


 『 ―そうですな

大きくなりすぎまして、村人が丸太で支えてくれなんだら、雪の重みでずいぶんと枝を折るところでした 』


『 ―それはそれは、人に感謝せねばな 』


稲魂イナダマひめ桜神オウカの楽し気な会話は吹き渡る春の風にとけていきました。


 村では冬の間に壊れた畝が手直しされ、田は牛ですきき起こされ、籾撒もみまきの準備が整えられました。

苗代を作る田の水口に桜の枝を差し、「水口みなぐちの祀り」も行われました。

そこには神職とともに稲魂イナダマひめも参列なさっていましたが、霧色の薄衣を頭から深く被ったそのお姿を目に出来たのは神の憑代よりしろたる桜の老人だけでした。


 苗が青々と育ったら、田植えです。

お囃子衆と旅早乙女たびそうとめたちも呼ばれ、村人総出で皆の田を回って順に行われます。

その田植えの前日には田主たぬしの屋敷で祝いの宴が開かれました。

そこには姿稲魂イナダマひめも混ざっておられました。

この誰よりもまるまるとした旅早乙女たびそうとめに、村の皆も声をかけます。


 「あれま、オイネさん。一年ぶりだね。」


「まあ、あんたは先代の早乙女だったお母さんによぉ似てきたことぉ。」


『 ―よぉ言われますわ。

母ちゃんに瓜二つやって 』


「今年もまた丸々と肥えてぇ、ええ働きをしてくれそうだことぉ。」


『 ―それはもう。

なんといっても田んぼに福を運ばんといけんからねぇ 』


 稲魂イナダマひめも笑いながら、皆に混じって出された芋をつまんでおられました。


「頼もしいのぉ。

オイネさんが来てくれてからこっち、この辺りは豊作続きだもんで。

ありがたいわ。」


 遅くまで灯りの消えない祝いの宴を、桜の老人はいつもの岩に腰かけて満足そうに眺めていました。




     花散らしの風 ~神のよりしろ~ 壱


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花散らしの風(はなちらしのかぜ)

 桜を散らす風

 隠語として、花見の後の男女の交わり


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