極楽の余り風(ごくらくのあまりかぜ)

~蓮の糸~

 ある日のこと、天上界を散策をしていたお釈迦様はふと蓮池に目を止められました。

朝露を乗せ青々とした大きな蓮の葉。

水面から茎をのばす薄桃色の蕾。

今まさに咲いたばかりのかぐわしい花。


 『なんと美しい姿であろうか。』


 お釈迦様は、昔同じように蓮池に臨み池の底にある地獄から罪人を一人救おうとして果たせなかったことをかなしく思い出されました。

カンダタというその罪人は生前の一匹の蜘蛛を助けた善行によって救われかけたのですが、頼りなく細い蜘蛛の糸を信じることが出来ず自分だけ助かろうとしたために地獄に戻ってしまったのでした。


 その時と同じようにお釈迦様は池の底を覗かれました。

濁った水が澄み、池の底が見えました。


 そこは叫喚地獄きょうかんじごくでした。

生前自らの私利私欲のために人を惑わし、騙し、奪った者たちが、獄卒に追い回され煮えたぎった油の入った大鍋に投げ込まれています。

それが何千年も続くのです。


 『なんと、哀れなこと。』


 お釈迦様はその中の一人が生前、足にすがった物乞ものごいいに使い古した布を投げつけるように与えたことを思い出されました。

そこでご自分の納衣のうえの端の織り糸を一本抜いて、池に垂らそうとなさいました。


 『釈迦如来。およしなさい。』


 それはお釈迦様の脇侍しゅごをしている梵天の声でした。

同じく脇侍しゅごの帝釈天も、池に糸を垂らそうとしていたお釈迦様の手をそっと取って戻されました。


 『カンダタの時の事をお忘れですか?

あの時はあとでずいぶん絞られておられたようですが。』

『全ての裁きには如来も関わられたはず。

ここで情けをかけられますと、如来のみならず三途の川を渡ってからの裁きに間違いがあったといちゃもんをつけるようなものです。』


 そう、人は死んだらまず「不動明王」「釈迦如来」の裁きを受けて三途の川を渡り、その後も七日ごとに「文殊菩薩」、「普賢菩薩」の審判を仰ぎ、かの有名な「閻魔大王」に裁かれるのは35日目。

その後も「弥勒菩薩」の裁きを受け、49日目に最後の「薬師如来」の裁きの後やっと六道の鳥居をくぐるのです。


 哀れに思われた女も、500年ほど前お釈迦さまが地獄行きも止む無しと裁いたのでした。


 『そうですね。

でも蓮の花を手向けるくらいはかまわないでしょう。』


 ほぅとため息をおつきになったあと、お釈迦さまは池の花を一輪折られました。

折られた蓮はつぅと細い糸を数本、池の底へと降ろしていきました。

しかし大鍋で煮られている罪人は誰一人、空から降りてきた細い糸に気づきません。

罪人たちは沈んでいく誰かの上に立とうとして我が足元ばかり見ていたのでした。


 お釈迦さまは悲し気に眉を寄せられると、蓮の花びら1枚ずつ池に散らして立ち去られました。


 その美しい蓮華はなびらはゆっくりと池の中に沈んでいきました。

水の中で枚数を増やし、いつしか無数の蝶に変化へんげしながら叫喚地獄きょうかんじごくの空に降り注ぎました。


 獄卒に追われ逃げ惑う罪人のところへも、大鍋で熱さに苦しみ悶える罪人ところへも、罪人を見張る獄卒のところへも、薄桃色の蝶は舞い降りました。


 お釈迦様が救おうとされた女のところへも蝶はヒラヒラと飛んで来ました。

女がその蝶に気づいて顔を上げたとき、目の前で蝶はふっと力をなくしたように羽ばたきをやめ、そのまま落ちていきました。


 女はとっさに手を出して、手のひらに蝶を受け止めました。 

手の甲がじゅっと油で焼けました。

女は獣のような悲鳴をあげましたが、蝶を手放すことはありませんでした。


 すると蝶は女の手のひらで大きく羽ばたき、女ごと空高く舞い上がっていきました。


 天上の蓮池の岸辺では、お釈迦様を見送ったあと帝釈天が全てを眺めておりました。

蝶が水面から出てくると帝釈天は、蝶が捕まえてきた小さな玉を手のひらで受け止め、蝶に息を吹きかけました。

蝶は元の美しい蓮の花に戻りました。

 

 『さてさて、これを薬師如来のところに連れて行くか。』

帝釈天は手のなかの玉を転がしながら、ゆっくりと立ち上がりました。


 蓮池では何事もなかったように、蓮の花が風に揺れておりました。




           極楽の余り風 ~蓮の糸~

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極楽の余り風(ごくらくのあまりかぜ)

酷暑に吹く涼風のこと。

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