風の名前

小烏 つむぎ

野分(のわき)

~金木犀の嫁取り~

 商家が並ぶ賑やかな大通りを過ぎて木戸を抜け、長屋が続く細道の二つ目の路地を少し入ったところに、小さな川があった。川ともいえない細い流れで少し大きな子どもがその気になれば、えいやぁと飛び越えられるくらいの小さな川である。


 その細い流れのすぐ脇の古いお稲荷さんの小さな祠の手前には、大きな金木犀の木が立っていた。誰がそこに植えたのか。いつからそこにあるのか。今はもう金木犀しか知らないが、火の見櫓の半分ほども大きく育った金木犀は、小さな祠とその周りに屋根のように枝葉をひろげていた。この金木犀は男木おぎで毎年蜜柑色の小さくて香りのいい花をたくさんつけて町の人たちを喜ばせたが、この日本ひのもとには女木めぎは一本もなかったので金木犀が実を結ぶことはなかった。

  

 その日は朝からどんよりとしていた。


 曇っているからなのか、いつもはかすかにしか聞こえないような音も屋敷内に響いていた。おたなの味噌蔵で作業している職人たちの声、作業の音。井戸端での年配の女中たちの他愛のないおしゃべり。母屋で御寮さんがまだ幼い坊ちゃまと遊ぶ声。

 

 お店の奉公人で一番年下のミツはそんな日常の音を聞くともなく聞きながら昼餉の後片付けを手伝っていた。すると隣で洗いものをしていたカヨがミツの脇腹を軽くつついた。ミツが顔をあげると板の間に大奥様が来られてミツを呼んでいるようだった。

ミツは左の耳が聞こえない。昔おとっつぁんが酒に飲まれてミツを打った時から聞こえなくなってしまった。だから左側から話しかけられるとわからない時があるのだ。


 ミツは前掛けで手を拭くと板の間へ近づいた。

「おミツ。これをいつもの『西』に届けておくれ。」

「へえ。」

ミツは大奥様が差し出すいい香りが焚き込められた薄い包みを受け取ると、大奥様に頭を下げカヨにも目礼して勝手口に向かった。

土間の明り取りの窓の脇に掛けられた花入れの萩の小枝が、ミツの作った風にふわりと揺れた。


 ミツがお屋敷を出ていくらか過ぎた頃、空から風に乗って雨がポツリと一粒落ちてきた。

落ちた雨粒はふわりと金木犀の葉末に留まって何か相談事でもしているようにユラユラと揺れ、薄い蜜柑色の蕾を愛でたあとパタリとお稲荷さんの目前の地面に消えていった。


 昨日までの蒸し暑さに閉口していミツは、擦りきれた襟元にひゅうと吹いてきたひんやりした風にひと息ついて空を見上げた。

「あいや、このままでは雨に捕まってしまう。」

大奥様から言付かった小さな包みを右手で胸に押し当てると、左手で着物の褄を取り小走りに駆け出した。

ようようお稲荷さんの祠まで走ったミツは、大きな金木犀の根元に身を寄せて祠にぺこりと頭を下げた。

「お稲荷さん、木の傘をしばらくお借りします。」

このこじんまりとしたお稲荷さんはミツの隠れ家のような場所で、小さい時はおとっつあんが酒に飲まれてだんだん声が大きくなると、今は奉公先でつらいことがあった時、逃げるようにやってくる場所だった。お稲荷さんの祠に手を合わせ金木犀の根方にちょこんと座っていると、梢のざわめきや木漏れ日、花の時期にはそのあたたかい甘やかな香りに慰められているような心持ちになるのだった。


 ポツリ 

 ポツ ポツ

雨粒が道に落ちていく。乾いた土に雨粒が小さな黒い模様を描くが、それを見ているものは誰もいなかった。人は皆、空を見上げそのまま目的の方向に急ぎ足で去っていく。雨が音をたてはじめた頃には、通りには人っ子一人いなくなっていた。


 ザアザア

雨は降り続く。大きな木の下とはいえ雨だれがミツのやっと結えるようになった島田を濡らし始めた。額にポツリと雨粒を感じてミツは上を見上げた。幾重にも重なる金木犀の枝のはざまにキラリと光るものが見えた。

「何かね?」

それは猫だった。金木犀の幹に似た淡灰褐色の毛皮をまとった猫の、金木犀の花の色の瞳が何かの光を映したらしい。ミツは高い枝に座るその猫に手を伸ばした。

「お前さんも雨宿り?」

猫はしなやかな足取りで枝を渡り、ミツの目の前の大きな枝まで降りてきて

「にぃ。」と鳴いた。

「おや。お前さんは濡れてない。呼んで悪かったね。上にいたほうがよかったね。」

雨だれが猫の毛皮がぽつぽつと濡らし始めたのを見て、自分の頭に乗せようと懐から出していた手ぬぐいをミツは猫の背中にかけてやった。


 ザアザア

雨は降り続く。梢からの雨だれにミツの着物の肩口も色が濃くなり、雨の跳ね返りで足元もすねの半ばあたりまですっかり濡れてしまった。

「どうしよう。こままでは大奥様のお使い物まで濡れてしまう。」

「みつハ濡レナイ場所ニ行キタイノカ?」

「え?」

穏やかであたたかい男の声が、ミツの聞こえない方の耳に響いてきた。

ミツは驚いて四方を見るが、猫のほかに誰もいない。

「コノ雨デ、モウスグ川ガ溢レル。ココモ足元ガ危ナイ。稲荷ノ屋根ニ登ルカ、宿カ決メルガヨイ。」

この猫がしゃべっているのだろうか?とミツは猫を見つめた。

「にぃ。」

決めなよというように、猫が鳴いた。


 ふと見ると小さな細い流れだった小川は水かさが増し茶色く濁った流れになって狭い川岸を叩いている。今にもこちらへ溢れてきそうな流れを見てミツはすっかりおびえてしまった。稲荷の祠はわずかな石段の上にあるので、確かに祠の上なら水には浸かるまいが、祠の上などと畏れ多い。それよりはとミツは金木犀の枝に手をかけた。

「承知。」

先ほどの声が響くと何処からともなく現れた太い男の手が、枝に伸ばしたミツの手を取るとぐいと引き上げた。その拍子に大事に抱えていた包みがミツの胸元から落ちた。

「あ、大奥様の!」

「みつノ代ワリニ届ケヨ。」

かしこまってそうろう。」

聞こえない耳に別の声が答えると同時に、先ほどの猫の尾がグンと伸びて包みを巻き取ると、そのまま姿を掻き消した。



 大雨は二日降り続き、日ごろは土埃の立つ道を泥田か沼のように変えた。

あちこちで川が溢れ近隣の畑も水に浸かって、この秋は野菜が高くなりそうだとおかみさんたちは井戸端で嘆いた。

ミツの奉公先では帰って来ない奉公人を心配して人手を割いて探したが、見つかったのは擦り切れた赤い鼻緒の草履が片方。川のそばの小さな稲荷の祠に引っかかるように落ちていたという。

大奥様の包みはいつの間にやら頼んだ先に届いていた。大雨だったにもかかわらず、ひとつも濡れてはいなかった。


 それから十年がたち、水に流された少女のことを誰も思い出さなくなった頃。

稲荷の祠のすぐそばの大きな金木犀の木の横に、小さな金木犀の女木が一本、小さな枝を懸命に空に向けて伸ばしていた。

小さな金木犀は大きな金木犀に守られて夏の終わりに小さなみかん色の花を咲かせ、冬にはクコの実ほどの実を結んだ。




          野分  ~金木犀の嫁取り~

***************



野分(のわき、のわけ)

台風の古称。野の草を吹き分ける強い風。


江戸味噌

約170軒の小規模の味噌醸造元があった。

庶民は味噌を近くの味噌屋で毎日少量ずつ買いすぐに消費する生活をいていた。


金木犀

花は芳香を放ち、ギンモクセイよりも濃厚で甘い香り。夕方などに強く感じられる。

日本では花付きの良い雄株しか移入されていないため、中国まで行かないと実を見ることはできない。


島田髷(しまだまげ)

若衆髷(わかしゅまげ)を、東海道島田宿の遊女が取り入れて始まったといわれている。その後は町娘などにも大流行し、未婚女性の髪型の定番になった。

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