7月29日
7月29日、この日も晴れているが、少し雲が見える。今日も朝からセミの鳴き声が聞こえる。とてもけたたましい。
シゲは昨日の夜遅くに戻ってきた。和夫はすでに眠っていた。和夫は何なのか聞いた。だが、何があったのか話さない。きっと教えられたくないんだろう。
朝食で、和夫はシゲによく目をやった。シゲは何かを隠しているに違いない。きっと重大な病気なんだ。もし病気だったら、自分に教えてほしい。
「和ちゃん、どうした?」
和夫の表情を見て、シゲは心配した。まだ何か悩み事があるんじゃないか?
「な、何でもないよ」
和夫は何も悩んでないかのようなふりをした。だが、本当は悩んでいる。そのせいか、あまり箸が進まない。
和夫は何とか食べ終えたが、いつもより満腹感がある。食事がいつもより長い。明らかにそれが原因だ。
和夫は外を眺めていた。この景色をいつまで見る事ができるんだろう。シゲがいなくなったらこの家はどうなっちゃうんだろう。
歯磨きを終えた和夫は朝から勉強をしていた。やらなければいけないんじゃない。シゲの不安を忘れるためだ。
「おじゃましますー」
突然、誰かの声が聞こえた。鈴木だ。一体何だろう。だが、今は遊んでいる時間じゃない。悩んでいるんだ。
「和ちゃんいる?」
和夫を読んでいるようだ。逃げたい。隠れたい。だが、逆らえない。
「おお。和夫ー!」
和夫はシゲの声に反応した。行かなければならない。和夫は下に降りてきた。本当は降りたくないのに。こんな時だし。
「はーい、あっ、鈴木さん」
玄関には鈴木がいる。鈴木は半袖にライフジャケットを着ている。これから川で釣りをするんだろうか?
「今日は鮎を釣るぞ」
和夫は驚いた。まさかこんな事をするとは。だが、今はこんなことしてられない。だが、鈴木に誘われたら断れない。
「どこで?」
「近くの川で」
「ふーん」
和夫は乗り気ではないが、鈴木に誘われたのなら断れない。結局、和夫は鈴木の誘いで川に行く事にした。本当は行く気はないのに。
車で走って約10分、2人は川岸にやって来た。川岸にはそこそこ人がいる。その人の多くは釣りをしている。この時期は鮎や岩魚を狙っている人が多いらしい。彼らの中にはテントを張っている人もいる。ここで寝泊まりするんだろうか?
車のドアを開けると、川のせせらぎが聞こえる。水は東京と比べ物にならないほど澄んでいる。
「さぁ、着いたぞ」
鈴木は嬉しそうな表情だ。これから釣りをする。今日は思う存分楽しもう。
「どうした? 元気がないぞ」
だが、和夫は元気がなかった。シゲの病気の事だ。とても心配だ。あと何年生きられるんだろうか?
「な、何でもないよ」
戸惑いつつ和夫は何でもないような表情を見せた。だが、本当はもちろん大丈夫じゃない。鈴木は不審に思った。
「さぁ、始めようか」
鈴木は車から釣り道具を取り出した。そして、半分を和夫に渡した。
「うん」
釣り道具を受け取った和夫は準備をし始めた。これから鮎を釣るようで、鈴木はおとりの鮎を釣り針に刺している。だが、和夫は元気がない。
2人は釣りを始めた。だが、なかなか釣れない。鈴木は焦っていた。いつもはけっこう釣れるのに。
「なかなか釣れないなー」
2人は暇そうに釣りをしていた。辺りは静かだ。川のせせらぎしか聞こえない。
その時、釣り竿がしなった。獲物が食らいついたようだ。鈴木は嬉しそうな表情を見せた。
「おっ、きたきた!」
鈴木はリールを巻いた。徐々に食らいついた魚が見えてきた。鮎のようだ。鈴木は嬉しそうだ。
「よし、釣れた!」
鈴木は釣れた鮎を水の入ったバケツに入れた。鮎は再び元気に泳ぎ出した。
「あっ、僕も!」
そう思っていると、和夫の釣り竿もしなった。和夫にも当たりが来たようだ。和夫は笑みを浮かべつつ、リールを引いた。
引き続けると、鮎が釣れた。鮎は元気そうに暴れている。和夫は釣れた鮎を高々に掲げた。
「よっしゃ釣れたー」
それを見て、鈴木も笑顔を見せた。和夫は釣れた鮎をバケツに入れた。
「嬉しいだろ?」
「うん」
和夫はシゲの病気の事を忘れることができたようだ。なぜ落ち込んでいたのかわからなかったが、鈴木は和夫が笑顔を浮かべて嬉しかった。
それからしばらく釣っていると、4尾釣れた。お昼になり、釣りに来た人の中には食事にする人も出始めている。
「さて、塩焼きにするぞー」
鈴木は持ってきた粗めの塩を鮎にふりかけた。見ているだけでおいしそうだ。塩焼きを作る様子は見たことがあるが、台所以外でするのを見たのは初めてだ。
鈴木はたいまつで火をつけて、串に刺した鮎を焼き始めた。和夫はその様子をじっと見ている。普段、和子が作る様子は見ないのに。それだけ楽しみにしている。
しばらく焼くと、塩焼きがいい具合に焼けてきた。鈴木は串の付いたまま和夫に渡した。
「さぁ、できたぞ!」
「おいしそう!」
和夫は鈴木にもらった鮎の塩焼きを見ていた。テレビでしか見たことがない。どんな味なんだろう。
「いただきまーす」
和夫は鮎の塩焼きにかぶりついた。口にすると、ほのかにいい香りがする。これが鮎の香りなのか。
「おいしいだろ?」
「うん」
和夫はおいしそうに夢中でかぶりついた。こんなにおいしい魚食べたことがない。みんなに教えなくっちゃ。
「東京に戻ったら、こんな体験できないだろうから、しっかり覚えておいてな」
「うん」
こんな経験、都会ではできない。東京に帰ったら、みんなにその事を言わなければ。きっとこれは自慢されるだろうな。
その夜、和夫は星空を見ていた。今日1日、また楽しい事をした。今年の夏はいつもより何倍も楽しい。こんな夏休み、一度っきりかもしれない。思いっきり楽しもう。
だが、少し心残りな事がある。シゲの病気の事だ。和夫は薬の事をまだ覚えていた。一体あの薬は何だろう。どんな病気だろう。
和夫は受話器を取った。話し相手は当然和子だ。
「もしもし」
「お母さん?」
いつも通り和子が電話に出た。いつもと変わりない声だ。
「どうしたの和ちゃん、心配した顔をして」
「・・・」
和夫は何も言うことができなかった。薬の事を話したら、どう言われるかわからない。シゲは何も言わなかった。だから誰にも言ってはならない事だろう。
「どうしたの、和ちゃん」
和子は心配した。何か隠し事をしているんじゃないだろうか? まさか、現地の子供もいじめてしまったんじゃないだろうか? 和子は不安になった。
「な、何でもないんだよ」
和夫は戸惑いながら答えた。だが、本当は悩み事がある。シゲの薬の事だ。だが、言うことができない。
「そう。大変だけど、元気出してね」
「うん」
和夫は受話器を置いた。和子も同じくして受話器を置いた。和子は落ち込んだ。シゲの病気の事を知ってしまったんだろうか? あれほど伝えないようにと言っていたのに。
「どうしたんだい?」
和子の様子を見て、父は和子の肩を叩いた。
「和ちゃん、おじいちゃんの病気、知ってしまったのかなって」
和子は泣きそうになった。和夫には楽しい夏休みを送ってもらいたいのに。病気の事を知ったら夏休みが楽しくなくなるじゃないか。
「そんなことないよ。黙っていよう」
病気の事はバレていない。父は信じていた。シゲは絶対に言わない。
「そうね」
そう思うと、和子は少し元気になった。だが、いつバレるんだろう。不安で不安でしょうがない。
和夫が受話器を置いた直後、シゲが帰ってきた。朝と変わりはないが、腕に小さな絆創膏がある。けがをしたんだろうか? それとも、注射だろうか?
「ただいまー」
「おかえりー」
和夫は元気そうだ。朝の元気のなさが嘘のようだ。今日の釣りですっかり立ち直った。
「和夫、帰ってきていたのか」
「うん」
和夫は何事もなかったかのような表情だ。和夫は腕の小さな絆創膏が目に入った。気になる。外出先で何をしたんだろうか?
「何か見たのか?」
不思議そうな表情の和夫を見て、シゲは問いかけた。ひょっとして、病気の事を知ってしまったんだろうか? あれだけ話さないようにしていたのに。
「何も見てないよ」
「そうか」
シゲは安心した。病気の事を知られたくない。知ったら、夏休みが楽しくなくなる。病気の事なんか気にせず、思いっきり夏休みを楽しんでほしい。
和夫は2階へ向かった。シゲはその様子をじっと見ていた。あとどれぐらい、彼の後姿を見ることができるんだろう。そう思うと、少し悲しくなった。だが、今は悲しんでいる場合じゃない。和夫と過ごす夏休みを思いっきり楽しもう。
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