第15話 キョウキ
鳴神アヤメが滞在しているゲストルームに橘健午が訪れた。
アヤメは健午にとって義母であり、また病院にとっては貴重な心療内科師である。
ただ健午はアヤメを苦手にしていて普段から関りを持たない様にしていた。
なので、この珍しい行動にアヤメは驚くと共に警戒した。
健午にも「いぐるみ」は放たれている、それは彼女の意思ではない。
健午の娘、五月の決定であった。
それ故に心を読んで方向性に注意していないと暴走する懸念も在る。
それこそ「いぐるみ」のオーバードーズである。
狂え。
「院長、何でしょう?」
「明日、夏初と紅葉が退院して戻ってきますね」
(何故、自分の妻より兄の娘の名前の方が先に口から出るのだ)
アヤメは怒りの感情を表に出さず、そっと健午の心を覗こうとしていた。
だが不思議と心波が感知出来ない、ただの空洞にしか見えなかった。
「義母さんも兄さんの家に戻るんでしょう?」
「夏初を独りにする訳には参りません、それが?」
「それで、この鍵を渡さなくちゃと思いましてね」
「鍵?」
それはカードキーであり、それをアヤメは二枚受け取った。
しかし、そんなモノに見覚えは無く意味も分かりかねていた。
「これは?」
「兄さんの家の新しい鍵です、これと暗証番号を合わせるんですよ。
あの事件の部屋をクリーニングしてリフォームしたんです。
そのついでに家中の鍵を新調しておきました。
犯人は事前に侵入していたという事だったので防犯で」
健午から渡された二枚のカードキーをアヤメは眺めた。
確かにコレなら財布の中にも入れておける。
そして暗証番号とセットなら防犯にも適していると言えよう。
「暗証番号はカードキーの枚数と同数に設定出来ますので。
つまり義母さんとナツハちゃんの分を自分で決められます」
麦秋の血で染まった部屋をクリーニングしておくのも当然だった。
夏初が部屋の使用継続を望んだ為でもある。
(あんな惨劇が行われた忌まわしい部屋なのに)
アヤメはナツハの心が読めなくなって久しかった。
五月はアヤメに心を読ませない、だがナツハの方は読む事が出来ない。
その違いが何であるのか、それもアヤメには分からなかった。
(そう言えばナツハは自死した早苗の部屋も、そのままにしていたわ)
「ありがとう、この度は大変に苦労を掛けましたね」
アヤメの健午に対する言葉には、いつも被膜が張られていた。
健午のアヤメに対する言葉には、いつでも嘘が含まれていた。
(このカードキーにはマスターキーが在るんだよ。
その暗証番号はオレにしか分からないがね)
健午は思った、これでいつでもナツハに会えると。
二人の青年がホテルのレストランで食事をしていた。
彼等は屋久島に取材で訪れている「ヒソカ」のスタッフである。
「上冬さんは何してるんだろうなぁ」
「連絡が取れないって心配してたインストラクターじゃないの?」
「だよなぁ」
お互いの部屋で起きた二人は、それぞれ寝落ちしていた事に気付いた。
そこで自分達のスマホに残された上冬のラインを見たのだ。
そして真ん中の上冬の部屋の前で鉢合わせする事になる。
「やっぱりアレだよな、あのメシ喰ってから急に眠くなったよなぁ」
「オレもだよ」
二人は上冬と一緒に昼食を取った後で互いの部屋で休んでいた。
上冬が撮影した素材を自分の部屋で編集する間だけの休憩だった。
だが二人共、寝落ちしてしまったのである。
徹夜に慣れているテレビマンにしては、とても珍しい事だった。
「トビウオの姿揚げで御座います」
ウェイターが見た目にも美味しそうな料理を二人の前に置いた。
二人は同時に覗き込んで、その盛り付けに喜んだ。
「一応、撮っておこうか」
カメラマンの方がスマホで入念に料理を撮り始めた。
さっき迄は音声スタッフ越しに窓の外の庭を撮っていた。
安房港では本日最後のトビウオのロープ曳き漁の網が閉じられる所であった。
一人の漁師が海中に飛び込んでトビウオを網の方へと追い込んでいくのである。
程無くして、その漁師が海面に顔を出して船に慌てて合図を送り始めた。
「どうしたんだ?」
船上の漁師達は、その行動の意味が分からず困惑していた。
だが網が引き揚げられると、それは直ぐに伝わった。
網にトビウオ以外の何かの姿が引っ掛かっているのである。
「人だ…」
鮮やかな銀色に輝くトビウオの間から黒いウェットスーツが覗いている。
しかも、それは二人だった。
一人が、もう一人の身体にしがみついている状態のままだった。
「溺れた方を、もう一人が助けようとしたんだな…」
見ていた漁師の呟きを聞いて、もう一人が合掌をした。
他の者は警察に連絡して、この状況を説明していた。
「でもウェットスーツを着ている程の人が溺れるなんてな…」
「それを助けようとした方もだ」
漁師達は、どんどん言葉を失っていった。
それは、この風光明媚な島には似つかわしくない事件だった。
網の中では、まるで断末魔の様にトビウオが跳ねていた。
どんどん港が近付いてくる、この不穏な出来事を迎えるみたいに。
「トビウオって、こんなに旨いんだねぇ」
頬張りながらカメラマンが音声スタッフに言った。
二人は上冬を待ち切れず先に食事を始めてしまっていた。
コテージから一緒にホテル本館へと来た二人はフロントへ行った。
そこで上冬が知人の部屋を訪ねた事を聞かされる。
最初はフロアで待っていたものの、その内にレストランへ。
こうして二人で屋久島名物を堪能していたのだ。
「オレ姿揚げって苦手なんだよねぇ」
「どうしてです、こんなに旨いのに?」
「だって尾頭付きだと魚と目が合うじゃん、それが怖くてさぁ」
「目が合う?」
「最後の目で、まるでオレを見てるみたいじゃん?」
「目がねえ…」
そう言った音声スタッフの肩越しに何かが動いたのが見えた。
窓ガラス一面の外の景色の中に何かが混ざり始めた瞬間だった。
それは窓の最上部から洩れて流れ落ちてきた様に見えた。
「目が…」
逆さまになって窓を覗いているみたいに顔が現われた。
まるでスローモーションの如く、ゆっくりと誰かの顔が見えた。
その顔は驚いている表情をしたままだった、そして目が合った。
目が合ってしまったのだ。
その人の姿が、どんどん露わになり首から胴体まで見えてくる。
そしてホテルの庭に落ちていった。
時間にしたら、ほんの一瞬の出来事だった筈だがカメラマンには永遠に思えた。
ぐしゃ
鈍くて嫌な音が食事時の静かなレストランに響き渡った。
上から下へ通り過ぎていった、その人はアスファルトに叩き付けられたのだ。
そしてデザートのソルベに掛かっているラズベリーソース色に染まっていった。
「え…?」
音声スタッフが、その音を聴き付けて振り返って窓の外を見た。
そこには、かつて人間だった何かが不自然な恰好で折り畳まれていた。
顔が身体とは反対の方へ向いてしまっていた。
青い海の手前の赤い海、血の海。
「え、え…」
音声スタッフは間近の光景の凄惨さに震え上がっていた。
席を立とうにも膝が震えて立ち上がれない、とうとう椅子から崩れ落ちた。
それと同時にレストラン内に悲鳴が上がった、それは伝染していく。
まるで、それが合図みたいにパニックになった客が入り口へと殺到していく。
レストランの従業員が走ってきて必死に何かを誰かに叫んでいた。
「おい…」
真っ青な顔色で振り返った音声スタッフがカメラマンに声を掛けた。
カメラマンの目は見開かれたまま瞬きもしなかった。
そして自分自身から、たった一言だけ絞り出した。
「上冬…さん」
鶴と亀が滑った、後ろの正面だあれ
始和は「噂ノ深層」編集部で上冬の配信を見ながら原稿を書いていた。
スマホに残っていた不穏な電話番号に編集部で掛け直してみた。
だが、もう既に番号は使われていなかった。
これでは誰が童謡を、いや暗示を始和に仕掛けてきたのか分からない。
(まあ月鳴神会の者なのは間違い無いだろうけど)
何気なく見続けていた上冬の配信に急に動きが出た。
誰も居なかった筈の部屋に急に人が入り始めていた。
その只ならぬ気配に画面に釘付けになって見ていた。
(何だ、どうしたんだ?)
その出入りしている者達が警察官だという事に気付いた。
始和は慌てながら直ぐに上冬のスマホに電話を入れた。
少しのコールで誰かが電話に出た、だが何も言ってはこない。
「もしもし上冬さん?」
やはり返事はなく沈黙だけが流れ出てきた。
画面では警察官が慌ただしく上冬の荷物を調べている。
その上冬のスマホの向こう側では誰かが息を殺している。
(絶対に上冬さんに何かが起こったんだ!)
始和は無駄だと思いつつも最悪の事態の回避を願った。
その時、通話口の向こうから微かに唄が聞こえてきた。
「鬼さん此方、手の鳴る方へ…」
無機質な、その声に全身に鳥肌が立ってきた。
誰かが中継しているスマホに気付いたのか上冬の配信が途絶えていた。
塁と境が打ち合わせをしていた特別捜査本部、田無と竹春が戻ってきた。
彼等は昼食の買い出しのついでに派出所に塁を迎えに行ったのである。
「ああ梅見巡査、擦れ違いだったんですね」
「一応、昼食は買っておきましたが」
二人は行き付けのハンバーガー店の袋を嬉しそうに開けていた。
そこに不自然さは無く、とても仲が良さそうに見えた。
二人きりの時に境が言った言葉を塁は思い出していた。
(「時々、態度が変なんだよ」
「何だか田無と上手くいってねぇんじゃねぇか、と思ってさ」)
塁には二人は寧ろ上手くいってるとしか見えなかった。
田無よりも境が心配していた竹春の方を、より多く見てしまっていた。
そんな中、竹春のスマホに着信が在り部屋を出ていった。
境と田無は期間限定のカレーバーガーを頬張っていた。
しかし境だけが部屋を出ていく竹春を目で追っていた。
だがカレーバーガーを食べ始めていた塁は、それに気付かなかった。
(早く犯人を確保して事件を終わらせないと)
塁は事件を解決して兄の睦に報告したかったのだ。
母の葬儀以来、会っていないどころか連絡も疎らであった。
それでも睦とは、どこか繋がっている感じがしていた。
双子だからなのか、いつでも自分の中に兄が居る気がした。
橘健午は自室でフェルネットブランカを嗜んでいた。
肴は厚切りのベーコンにクリームチーズを乗せた物だった。
ベーコンを塊から好みの厚さに切り分けて食べた。
切るのには小型の調理用ナイフを使う、それは麦秋邸から持ち出した物。
わざわざ自死した夏初の母、早苗の道具を持ってきたのである。
(コレなら頸動脈を切る位は容易い、それに隠して戻すのも簡単だ)
健午の思考は既に常軌を逸していた。
連続殺人犯の犯行と見せかけて鳴神菖蒲を殺害するつもりである。
だが、そのことはアヤメはおろか五月にも薄々感づかれていた。
世間的には幸福なイメージの家族三世代間に横たわる地獄絵図。
五月も以前に健午を自分の生活圏から排除しようと考えた事も在った。
だが母、紅葉の思いを汲んで止めていた。
祖母であるアヤメは五月の命で「いぐるみ」で健午を縛った。
五月が思うだけで、いつでも健午の心は壊せるだろう。
狂え。
だがしかし五月やアヤメの読み以上に健午は狂っていた。
それは兄への思いと夏初への思いが混ざり合い膨張した結果である。
その思いがベクトルを変えて自分の肉親に向けられていった。
電話を受けた竹春は捜査本部室から廊下に出てきた。
相手の名前が珍しく、その真面目そうな顔が直ぐに浮かんだ。
わざわざ電話にしたという事は、それが緊急を要すると考えた。
「こちら竹春ですが」
「始和です」
始和は簡潔に現在の屋久島における上冬の状況を説明した。
竹春は直ぐに調べて折り返し掛け直すと言って通話を切った。
(昨晩の続きで、まだ安全じゃなかったなんて。
上冬ってテレビマンは大丈夫なんだろうか)
昨日と同じ要領で屋久島警察に電話を掛けて調べる事にした。
そして直ぐに事態が最悪な方向を向いている事を知る。
「ええ、とすると転落死したのは上冬で間違い無いと。
事故ですか、それとも…」
竹春は説明を受けながら軽い眩暈を覚えていた。
昨晩、配信で見ていた飄々とした顔が思い出されてきた。
ユキや始和との三人で月鳴神会の調査をしていたテレビマン。
「はい、じゃ撮っていた筈の映像は全部消えていたんですか?
スマホは部屋に残されて中継し続けていた物だけ、と」
(これは事件に巻き込まれたか、それとも最初から狙われたのか…)
「東京の事件と関連性が在るので何か在りましたら…」
竹春は、そう言って通話を切った。
そして始和やユキへの連絡を思って更に眩暈がした。
竹春からの最悪の報せを受けて始和は何も言葉を返す事が出来なかった。
記憶の中の上冬が生々し過ぎて、そんな事実を受け容れられなかった。
竹春は今日の配信で何かを見たかどうか、と尋ねてきた。
「中継では何も見る事が出来ませんでした、だけど…。
事件が起きて部屋に警官が入ってきたので直ぐに電話したんです」
「上冬に?」
「はい、そうしたら誰かが出たんですけど無言で。
その内に微かな声で童謡を唄い始めました」
「童謡を?」
「ええ、『鬼さん此方、手の鳴る方へ』です」
「…」
(間違い無く上冬は殺されたのだろう、それも月鳴神会の者に。
取材した内容の中に何か外に出ちゃヤバいモノが混ざったんだな)
竹春は始和に月鳴神会に関する記事が書けたら送って欲しい、と頼んだ。
始和はラフの段階で資料と一緒に送る、と了承した。
(これで何か分かるかも知れない、それにしても手当たり次第だな)
竹春は始和にユキへの連絡を頼んだ、そして通話を切った。
その後、何も無かったみたいに素知らぬ顔で捜査本部に戻っていった。
境や田無には上冬の件を隠しておく事にした。
何喰わぬ顔で席に戻り、そこに残っていたカレーバーガーを喰った。
美味しいがカレーの味しか分からなかった。
(色々と辛くなってきたなぁ)
始和からのメールを読んでいたユキが突然、号泣しだした。
慌ててコッコがユキの部屋に入ってきて様子を窺った。
「どどど、どうしたの?」
「上冬さんが亡くなったって…」
「えええ」
号泣しているユキの横でコッコは呆気に取られていた。
昨日迄、一緒に取材していた男性が死んでしまったなんて実感が湧かない。
「ななな何で、どうして?」
「転落死で事故じゃないかって始和さんは言ってる」
「転落事故…」
(番組スタッフが事故で亡くなったなら放送も無くなるんじゃ…)
コッコは、そう思ったがユキに言うのは控えて黙っていた。
ユキも全く同じ事を考えたが、やはりコッコには言えなかった。
これでレディワン本選の前に名前を売るのは不可能になるだろう。
彼女達エイプリルフールズはミルクラテに勝ち目が無くなっていた。
本選生中継直前の「ヒソカ」のゴールデン特番。
そこからエイプリルフールズの名前が消えるのは必然だろう。
二人は絶望した。
「負けたくないよね」
「負けたくないよ」
その言葉は、もう既に二人の口癖になっていた。
ふとコッコが小さな声で漏らした。
「ミルクラテだって事故で亡くなったら…」
そう囁いた彼女は別の何かに囁かれていた。
狂え。
清水公園駅の周辺は栄えている、だが昼と夜は別の栄え方である。
昼の商店街の賑やかさと夜の繁華街の喧騒は全く別物であった。
その繁華街の一角で事務所を構えている反社会的勢力が在った。
裏側ではアジア諸国と繋がっていて、そこからの受け皿にもなっていた。
新興宗教である亜細亜天和了連盟との繋がりも噂されている組織である。
阿吽連合、関東最大クラスの規模を誇っていた。
「どうしても合わねぇってか!」
その阿吽連合本部が、ざわついていた。
総長代理の前で若い構成員が怒鳴られ続けていた。
夜の繁華街で若者に合成麻薬を流して利益を貪っている。
なので警察の強制捜査も割と頻繁に行われていた。
昨日も捜査が行われるとの情報が警察側から洩れてきた。
そこで違法な武器等は隠される事になったのである。
方法は割と簡単でシンプルだった。
武器を粗大ゴミ置き場にカムフラージュして運び出す。
何人かのホームレスに一晩中、見張らせる。
捜査が終了したら、それを直ぐに回収するだけであった。
粗大ゴミはシールに書かれた指定日以外では回収される事は無い。
なのでホームレスを雇って見張らせておけば安全度は高かった。
「全員、詰めたんですが…」
捜査は行われなかった、それはタレコミ情報が不正確だった為だ。
そこで武器が回収されたのだが、どうしても数が合わなかった。
若手が護衛の時に携帯する拳銃が一丁、見付からないのであった。
スミス&ウェッソンM36チーフスペシャル。
銃身が短い38口径の拳銃、比較的隠し易いので重宝されている物だ。
弾丸も6発足らないので込められて盗まれたと思われた。
勿論、警察に盗難届を出せる訳も無い。
見張りのホームレスが疑われ、とことん詰められていた。
「誰かが弾を込めて持ち逃げしたのは間違いねえ、だが…。
この日本でリーマンやパンピーに銃は必要無ぇ。
となると対立組織だが、わざわざ一丁だけとなると…」
事務所に居る誰もが考えたが一向に結論は出なかった。
だが事務所の警備は強化される事となった。
「まさか例の殺人鬼じゃ…」
「殺人鬼?」
「あの病院院長殺しか…」
隣の飛鳥駅の病院関係者連続殺人事件は勿論ニュースで知っていた。
飛鳥駅周辺の繁華街も阿吽連合の縄張りだったからである。
だから、まだその犯人が捕まっていないのも話題には上っていた。
だが刃物で楽々と大人を刺し殺せる犯人が銃を必要とするかどうか。
誰にも答えは出せなかった。
「いくら何でも、まさかな…」
取り敢えず拳銃については箝口令が敷かれた、それは当然の事だった。
飛鳥署の連続殺人事件特別捜査本部は清水公園署と連携していた。
清水公園署の管轄内で起きた芳歳太郎殺人事件との合同捜査本部となっていた。
なので芳歳事件に関しての捜査報告も回って来るのである。
本日最後の捜査会議で境から塁達に報告がなされた。
「ガイシャのヤサには監視カメラなんて付いちゃいねぇ。
だが近所の幾つかの防犯カメラから、どうやらホシは男だと推定された」
境の言葉に、ほんの少し竹春が反応した。
だがそれに気付いたのは境だけで塁や田無は何も感じていなかった。
「黒い服の女じゃなかったんですね」
「犯行の手口も全く違いますしね」
「じゃ、やはり犯人は複数って事なんでしょうか?」
「ガイシャに繋がりが在りそうな連続殺人だがなぁ…。
案外、単独犯が二人って事かも知れねぇんだよなぁ」
「看護師の件は、どちらになります?」
「あれは、また手口が全く別だからなぁ」
「橘病院関係者だけが全く別の犯人に狙われるってのも不自然ですよね」
「どれも動機が今一つハッキリしねぇしなぁ」
特別捜査本部には疲労の色が濃くなってきていた。
そんな中、塁だけは気合がはいっていたのである。
捜査員達は、それぞれのテリトリーに散っていった。
健午は往診用の医療鞄に持ち出していた早苗の料理用包丁を入れた。
兄の麦秋邸で義母のアヤメを亡き者にしようという計画であった。
そして、その罪を未だに捕まらない殺人犯の犯行に仕立てようと目論んでいた。
余りにずさんで無計画であり、ただただ衝動的であった。
だがそれは健午自身にとっては最高の計画でしかない。
(まさかオレが兄貴の家で待ち伏せてるなんて思いもしないだろうよ)
そう思いながら徒歩圏内の麦秋邸へ向かう。
傍目には訪問診療にむかっているとしか見えない筈である。
角を曲がれば麦秋邸が姿を現わす所で、ふと健午は足を止めた。
(…?)
確かに健午邸の門前に誰かが立っていて、その中に入ろうとしていた。
その人影は女性に見えた、それも黒っぽい色の服に見えた。
(義母さんも五月も家に居た、とっくに家政婦は帰っている。
じゃ、あれは誰だ?)
そう思った次の瞬間、健午の脳裏に電気が走った。
無意識的に震えが身体中を這い廻り始めていた。
(犯人!でも何で兄貴の家に?)
健午は、クルリと向きを変えて自宅へと早足で向かった。
もう夕方になりアヤメが麦秋邸に向かう時間になる。
境が捜査を一段落させてから帰宅した時、珍しく娘の弥生が起きていた。
特別捜査本部に配属されてから話す機会は激減していた。
「どうした弥生、珍しいなぁ」
「それがね、とても嫌な夢をみたの」
「夢って、あの寝て見る夢かぁ?」
「うん」
夕食後、弥生にラインが届く。
それは橘夏初からで明日、退院するという報せだった。
学校へ戻るのはゴールデンウィーク明けになる、との追記も在った。
久し振りにナツハに会える嬉しさで中々寝付けなかった。
それでも、いつもの時間には眠りに落ちていた。
そして夢を見た。
夢の中で境が誰かに対して叫んでいるが、その声は弥生には聞こえない。
その相手に境が銃を向ける、そして撃った。
崩れ落ちる相手に弥生が近寄る、その足下は血の海である。
撃たれた相手の顔が見えそうになる寸前で目が覚めてしまったのだった。
「オレはなぁ弥生、一度も人に銃を向けた事は無いぞぉ」
「知ってる」
「日本の警察はなぁ、そのまま定年になるシステムなんだよぉ」
「分かってる」
「安心しろぉ、もう寝なさい」
「うん」
弥生は部屋に戻っていった、それを微笑みながら見送る境。
境の同僚は例え刑事でも発砲した事の在る者は稀だった。
ましてや人を撃った事の在る者は殆どいなかった。
「夏初は明日の午前中、紅葉は夕方以降の退院となる模様です。
夜の支度は家政婦に任せるとして夏初は私が迎えようと思います。
それでは麦秋邸に戻らさせて頂きます」
アヤメは五月に、そう告げると健午邸から出ていこうとした。
そこへ戻ってきた健午と鉢合わせになる。
「義母さん戻られるんですね」
「ええ、こちらの支度は家政婦に頼んでおきました」
その二人の、やり取りを見ても五月は無表情のままだった。
二人の感情が、まるで動いておらず心中には別の思いが窺えたからである。
(兄貴の家の周りには、あの殺人犯がうろついている。
今、独りで行くなんて殺されに行くみたいなもんだ)
そう健午は、ほくそ笑んでいた。
アヤメは、とにかく一人で夏初を迎える事に高揚していた。
(これからは夏初と二人で病院を切り盛りする必要が在る。
月鳴神会の方は五月と二人三脚で運営していかねばならない。
どちらについても邪魔者は徹底的に排斥せねばならないだろう)
五月は、そんな二人の思惑を悟られずに読み取っていた。
彼女にとってはナツハの状態だけが関心事で、それ以外は些細な事だった。
明日になればナツハが戻る、あの忌まわしい舞台に。
(ナツハちゃんとママが戻ってくれれば、もうそれだけでいい。
二人は私が守る)
始和は編集部で大雑把に纏めた記事のラフを竹春に送った。
そして上冬が殺されたのだとしたら、その理由は何なのか考えてみた。
(やはり屋久島での取材以外だろう、だとすれば月鳴神会が関わっている。
取材の内容が原因なら、あの鳴神アヤメの孫達の話としか思えない)
島で起きた連続不審火、被害者は月鳴神会と対立している人達。
不自然な焼死で事件は未解決、人体自然発火と暗示の関係。
(資料も送ってはみたものの竹春みたいな警察関係者に通じる内容だろうか?)
ふとスマホを見て溜息を吐いた、あれから不審な電話は無かった。
頭の中に「かごめかごめ」が流れ出す、それを止められない。
モニターをテレビに変えて気を紛らわそうとニュースを見始めた。
アナウンサーの「屋久島」という言葉にハッとさせられる。
「屋久島でトビウオ漁の網に二人の遺体が曳き上げられました。
身元は不明、二人共ウェットスーツを着用しておりダイバーだと見られています」
始和は心臓辺りがギュッと何者かに鷲掴みにされた気になった。
動悸が速くなり、どんどん息が苦しくなっていった。
「乾さん…木染さん…、まさか」
画面はCMに変わり、もう直ぐ始まるゴールデンウィークを宣伝していた。
早めに寝ようとしていた竹春に始和からの着信が入る。
屋久島でのインタビューを中心に据えた鳴神アヤメについての話。
上冬が亡くなった事でテレビの方は全く期待出来なかったのでありがたかった。
その屋久島での一連の不審火事件との関係性を知った。
鳴神アヤメの孫娘、夏初と五月について興味を持たざるを得なかった。
(特に五月、月鳴神会の象徴的存在「月詠み」。
信者の内面をアヤメ以上に読み取れる特殊能力者か…)
だが橘病院の一連の事件ではアヤメも五月も被害者側である。
連続殺害犯の動機が不明なばかりか犯人像も曖昧で朦朧としている。
雁来看護師の不審死、芳歳ディレクターの惨殺。
この連続殺人の点が上手く繋がらず線にならない。
その上、屋久島での行方不明と転落死。
刑事の彼が未だに嗅いだ事が無い濃厚な死の匂いが充満していた。
(これだけの事件が別々に独立で起きているとは考えにくい。
だけど犯人像が結べない、こんな事が在るのか。
明日になれば屋久島の事件の詳細も分かるだろう、それでも…)
竹春は鳴神アヤメの孫達について調査する決意をした。
特に橘五月について調べれば答えが分かる気がしていた。
鬼さん此方、手の鳴る方へ
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