第14話 カゲロウ

 始和のスマホの着信音が鳴った、その番号を見て一気に血の気が引く。

 彼が第一発見者となってしまった、その殺された芳歳のものだったからだ。


(これって、つまり殺人犯からって事だよな…)


 取り敢えず始和は録音モードにしてから電話に出た。

 だが予想に反して明るい口調が聞こえてきたので焦ってしまう。


「あ、すいません。

 このスマホを拾ったんですけど誰も電話に出てくれなくてですね…」


(…被害者のスマホを拾ったって?)


「持ち主の方を御存知でしたら教えて頂きたいと思いまして、ですね」


(近くの交番に届けて貰うのがベストだろうけど、それじゃ…。

 もしかしてスマホに何か残されていて犯人が分かるかも知れないし)


「ありがとう御座います、それは自分の仕事仲間のスマホです」


「その方の住所を教えて頂ければ着払いで、お送りしますが」


(ここの住所を教えようか…、でも少し危ないかも知れない)


「彼は今、旅行中なので自分が受け取りに参ります。

 どちらへ伺えば、よろしいでしょうか?」


「本日でしたら清水公園駅なら大丈夫ですが」


「じゃあ、そこで御願い致します」


 始和は警察に届ける前に、どうしてもスマホの中身が見たかった。

 自分と会う直前に殺された被害者の為にも犯人を探し出したい。

 彼もまた、そんな自分自身の思いに呪われ始めていた。






 ユキは自分達の城に帰ってきた、それは普通の2DKのアパート。

 屋久島での話は置いておいて決勝のネタ合わせを確認したかった。

 だが部屋で彼女を待っていたのは、どこか沈んだ表情のコッコだった。


「ミルクラテが出てくるなんて反則じゃない?」


「そうだよね、いくらゼニーズが大きい事務所だからってさ」


「これで今年も優勝は出来そうもないか…」


「うん、そうかもね」


 優勝は視聴者のSNS投票で決まる、となればフォロワーが多い方が有利。

 インフルエンサー同士を組ませたミルクラテは勝って当たり前の存在であった。

 本来なら新人で「レディワン」出場枠は無いのだがゼニーズ事務所がゴリ押し。

 彼女達エイプリルフールズは、その踏み台にされる可能性が高かった。


「でも、また来年も決勝に残れるかどうかは分かんないよ」


「うん、そうだね」


「あんな新人にチャンスを潰されるのって悔しくない?」


「そりゃ悔しいよ、もし負けるぐらいなら死んだ方がマシだよ」


「ワタシ達が死ぬぐらいだったら」


 急にユキが真顔になり、その声は冷たさを帯びていた。


「アイツ等を殺しちゃえば、いいんだよ」


 彼女達も、また自らの思いに呪われ始めていた。






 ホテルの部屋に戻った上冬は漠然とした不安を感じていた。

 ユキと始和は東京に帰り、この島に残ったのは自分だけ。

 昨日迄の一連の出来事に何だか現実感が無かったのである。

 カメラと録音スタッフは同じホテルに宿泊しているし心配事は無い。

 取材の撮れ高も充分で、もう帰京しても問題は無い程だった。

 だが何かが、まだ片付いていない様な気がして仕方が無かったのである。


(ユキからラインが来たか…)


 東京に着いた、とのユキに返信してる途中で始和からもラインが入る。

 始和の取材予定の相手が殺されていた、というものであった。


(殺されていたってマジかよ…、これもガチじゃないか)


 上冬の不安は段々と大きくなっていった。

 そして始和の続く質問にハッとさせられる。


(「乾さんと連絡は取れましたか?」)


 乾どころか、その捜索を頼んだ木染からも連絡は無かった。

 上冬は隣室のスタッフ二人に招集を掛けた。

 ディレクターの権限で同室で夜を過ごそうというのである。

 ユキと始和に配信の監視を頼む返事を送り返した。

 昨夜みたいに自室の状況をスマホで生中継しておこうという考えだった。

 ユキと始和は録画をしておく事を了承してくれた。





 橘健午は悩んでいた、それにより不眠症に陥っていた。

 院長就任という地位と病院の経営権という実利を手に入れた。

 兄は亡くなってしまったが、それにより棚ボタで得たのである。

 兄の娘である夏初は愛おしい存在だった。

 自分の娘、五月と交換してでも手に入れたかった程である。

 その夏初が退院して自宅療養の為に戻って来る。

 手に入れようと思えば手に入る、だがそれには邪魔者が居る。

 鳴神菖蒲、義理の母であり夏初と五月の祖母である。

 夏初の母、早苗が自死してから夏初の面倒を見ているのだ。


(アヤメさえ消えてしまえば、それで全てが手に入る)


 健午は既に正気を保てなくなっていた、それは自分でも抑えられない。

 何かに操られているみたいだが、それもハッキリしなかった。

 身体の奥底から何故か熱くなってきている気がしたが、その理由も分からない。


(まだ兄を殺して俺を傷付けた犯人は捕まっていない筈だ。

 今ならアヤメが殺されても、まず俺は疑われないだろう)


 健午は洗面台で火照って赤くなった顔を洗った。

 鏡には顔色以上に赤くなった目をした自分自身が映っていた。

 その自分の目を見つめてしまって動けなくなった。

 映っている自分が見ている自分から視線を逸らした。

 まるで眼球が廻っているみたいに。






 リビングのソファで寛ぐ五月の元にアヤメが歩み寄って来る。

 五月は、そのアヤメの気配に只ならぬものが潜んでいるのを感じ取った。


「会長、何か?」


「月詠み様、事態が少し傾いた模様で御座います」


「どちらに?」


「後手に廻らされております」


「どの様に?」


「夏初のカードを切り札に使われてしまう恐れが出て参りました」


「ナツハちゃん…」


 橘夏初は実の父親である麦秋に襲われている最中に殺人犯に救われる。

 その過程で麦秋は犯人に殺害され、その犯人も逃亡中。

 しかし警察発表では麦秋が犯人からナツハを守る為に殺害された事になっていた。

 ナツハが未成年である事に加え、とある圧力が警察に働いた故である。

 表向きには未成年児童保護法が作用した事にはなっているのだが。


「捜査本部に潜入させている者より危惧の声が上がっております」


「確固たる証拠を握られているのですか?」


「証拠は警察内部にしか在りません、ただ鑑識の捜査報告書が漏れているとか」


「コピーね…」


「データをダウンロードした形跡を見付けたらしいのです」


「どこの組織の者なのでしょう?」


「おそらくは亜細亜天和了連盟ではないか、と」


「アジア…」


 鑑識の結果、被害者である夏初の爪から犯人の皮膚が検出された。

 警察は麦秋を殺害した犯人のモノだと当初は見込んでいた。

 だが、その皮膚は麦秋のモノだと断定されてしまったのである。

 父親が実の娘を襲っているのを救った犯人により殺害されたという事になる。

 もし、この事実が公表されたら世間を揺るがすスキャンダルになる。

 橘病院も夏初も、そして五月とアヤメも月鳴神会も共に全てが終わる。

 五月とアヤメは、そう確信している。


「捜査は進展しているのですか?」


「犯人の潜伏先どころか手掛かりすら殆ど無いとの事らしいのです。

 只ハッキリしたのは犯人が天和了の者ではない、という事実です」


「とても単独犯の仕業には思えないのですけれど」


「月詠み様に読めないのであれば、とても私には…」


 五月は少しストレスを感じ始めていた、だがその原因が掴めない。

 何かが見えていない、そんな気がしているのである。

 その気配だけは、どんどん濃厚になっていく。

 だが視線がズレているみたいに死角が出来てしまっている。

 まるで月が雲に隠れて陰り、その風景を見えなくしてしまうみたいに。


「もし、その者が特定出来たら?」


「会の者が特定の為の証拠を集めております。

 特定出来次第『いぐるみ』を発動、処分致します。

 その後、実行者は自滅へ導こうと考えております」






 飛鳥署の特別捜査本部、遅くなった昼休憩を挟んで定例会議が続けられていた。

 殺害された芳歳ディレクターの検死結果報告が清水公園署から回ってきたからだ。

 芳歳は頸動脈圧迫で意識を喪失、頭部を強い力により回転させられ死亡。

 つまり生きたまま首を捩じ切られた、という事が判明した。


「生きたままかぁ…残酷なホシだなぁ」


 境は吐き捨てる様に呟いた。

 その後、死亡推定時刻が報告された。

 その途端、竹春の雰囲気が硬化した事に気付いた。


(この頃、竹春の様子がおかしいなぁ。

 明らかに何かを隠しているとしか思えん、だが何を…)


 境は長年、刑事として捜査に携わってきた勘で感じ取っていた。

 橘麦秋と穂張涼の殺害犯人の手掛かりは一切、掴めていない。

 雁来蘭の不審死も死亡原因以外が謎に包まれたままである。

 そこに明らかな殺人事件が加わって、もう捜査本部は手一杯であった。

 芳歳の事件は現場が清水署の管轄ではあったが関連は明らかだった。


「…という訳で清水署との合同で捜査する運びとなった。

 飛鳥署としても土地勘を持つ者を増員して捜査拡大を図る」


 そこで梅木塁巡査が派出所勤務を暫く離れて加わる事になったのである。






 始和は、かれこれ三十分以上は改札の近くで立っていた。

 芳歳のスマホを拾ったという者の連絡を受けて待ち合わせをしていた。

 だが、その当事者は姿を見せていない。

 それどころか連絡すら入ってこない有様であった。


(やっぱり警察に届けて貰った方が良かったのかな…)


 そんな事を考えて諦めかけた、そして帰宅しようと改札方面に戻ろうとした。

 その時、始和のスマホに着信が入る。

 相手の名前は「ヨシトシ」であった。


「もしもし、こちらは駅改札の外で待っていますが…?」


 だが相手は何も答えない、ただ沈黙だけが存在していた。

 始和はイヤホンに神経を集中させて相手からの返事を待った。

 駅の改札特有の人が行き交う雑踏の音だけが周囲に漂っている。


「…さん…ての…ほう…」


 何かが微かに聞こえている、だが明確に聴き取れない。

 始和は周囲の雑踏を意識的に遮断して、その音を拾った。


「鬼…此方…鳴る…」


 小さいながらもハッキリと聴こえてきたのは唄だった。

 始和は背筋に冷たいものが走り鳥肌が立つのを感じていた。


「鬼さん此方、手の鳴る方へ…」


 そのフレーズだけが静かに繰り返されている。

 始和は、その童謡を聴き続けながら周囲を見回した。

 だが、そこに自分に注意を払う者の姿は見当たらなかった。






 橘健午はキッチンへ晩酌の為の酒を取りにいった。

 退院して以来、夕食にはアルコールを常に共にしていた。

 キッチンに向かうにはリビングを通らなければならない。

 そこで五月とアヤメの姿を認めて静かに挨拶して通り過ぎる。


「失礼、晩酌が欠かせなくてね」


 五月とアヤメは何も言葉を返さなかった、まるで関心を向けていない。

 家の主人と娘と義母、世間的には仲の良い理想的な家族のモデルケース。

 だが、そこには静かな地獄が横たわっていた。

 五月もアヤメも健午に視線を向ける事も無かった。


 キッチンに入った健午は刃物類の入った戸棚を開けた。

 そこには妻の料理用の包丁等が綺麗に並べられて収納してあった。

 比較的長くて細身の菜切り包丁を手に取って眺める。

 刃先に一瞬映った顔には赤く濁った眼が並んでいた。


(もう直ぐ夏初が退院してくるから、その支度をする筈だ。

 アヤメは兄貴の家で独りになる、それがチャンスだ。

 ウチに紅葉が帰ってくる前に片付けてやる)


 刃物をしまった健午は酒類のキャビネットを開けた。

 そしてフェルネット・ブランカを手に取り扉を閉める。


(全てを殺人犯に押し付けてやるさ)


 健午の脳裏には愛おしい夏初の笑顔が浮かんでは消えた。






 始和は、その童謡を最後迄聴かずに通話を切った。

 ただ単に立っているだけなのに膝が震えていた。

 そして、その悪寒は全身に拡がっていく。


(「鬼さん此方、手の鳴る方へ…」)


 それは無機質な男の声で唄われていた、その声に聞き覚えは無い。

 始和の額から一筋、汗が青褪めた顔を伝って流れていく。

 心臓の鼓動が、いつもより速くなっているのが分かった。


(今、何処からか見られているのは確かだろう。

 理由を話して交番に行こうか、でも信じて貰えるかどうか。

 とにかく真っ直ぐに家に帰るのは居所が知られてしまう、どうする?)


 始和は改札に入っていった。

 電車を使って移動しながら周囲の乗客を観察する事にした。

 不自然な乗り換えを繰り返せば、その相手が露見するだろうと考えた。

 最寄り駅で降りずに、やや手前で降車して歩くつもりである。


(そうだ乗換駅で降りてタクシーを使えばいい)


 もし後続のタクシーが同じルートを走行してくれば、それが相手である。

 始和は少しづつ冷静さを取り戻し始めていた。

 乗り換えの接続駅で、わざと改札を出てコーヒーショップに入る。

 始和は敢えて入口近くだが外からは死角になっている席に着いた。


「エチオピア・モカ・ラデュースを」






 部屋で撮影された映像を仮編集していた上冬、着信に気付く。

 見知らぬ電話番号からだったが非通知ではないので対応した。


「もしもし、どなた?」


 返事が返ってこなかったので、そのまま耳を澄ましてみる。

 何も聞こえていないのに何かの気配は感じ取れていた。


「もしもし…」


 それは少しづつ聞こえてきた、まるで囁きの様な微かな唄だった。

 上冬は全身に悪寒が走るのを感じていた。


「…かごめ…かごめ…」


 確かに、そう唄っている。

 小さい頃からの聞き覚えの在る童謡なのだが、まるで違って響いてくる。

 その唄には昨日も脅威を感じさせられた、だが何事も無かった。

 始和やユキと一緒に対策を練り、それを実行した為だと自負している。

 上冬はメディアの人間としての矜持も持ち合わせていた。

 ペンは剣よりも強し、を気持ちの何処かで信じていたのだ。


(脅しになんか屈して堪るもんか)


 今日だって、ちゃんと対策は実行されている。

 離れているとはいえ始和やユキとは配信で繋がっている。

 自分達に何かが起こった場合には、それが証拠となってくれる。

 上冬は、そう思いながらもスタッフの来室を待ち侘びていた。


(早く来ないかな、やっぱ独りは心細いって…)






 運ばれてきたモカ・ラデュースに口を付けた途端にスマホに着信。

 少し悩んだ始和は再び通話ボタンを押して耳を澄ませた。

 前回、流れた童謡どころか何も聞こえてはこなかった。


(何故、何も聞こえてこないんだ…?)


 珈琲によるものではない苦味が口の中に拡がっていき時間だけが過ぎる。

 スマホに耳を傾けながらも、その視線は店内と入口に注がれていた。

 誰もスマホで通話している様子は無く、また誰も入店してはいない。


(どういう事だ…?)


 ゴシップ系の雑誌記者である始和は注意深い性格ではあった。

 だが、この無言電話が自分を認識する為のものだと気付くのに時間が掛かった。

 今この瞬間、自分を見て確認している者が近くに居る。

 始和は、まるで見えない敵に引きずり込まれている気がしていた。


(これじゃアリジゴクの巣に落ちていく蟻じゃないか)


 脇腹を汗が一筋流れていく、それが酷く冷たく感じられた。

 通話を切ってから珈琲の残りを啜る、だが今度は味がしなかった。


(どうする、こっちは相手の姿が見えていない。

 自宅を教えるのは論外だし、このままじゃ詰められる)


 始和は警察官をしている双子の弟、塁の事を考えていた。

 弟の勤務している派出所は二つ隣の駅前、一時的に避難するには最適な場所だ。






 いくら待っていても上冬の部屋にスタッフは姿を見せなかった。

 段々と体中が冷や汗で冷たくなっていくのが自分でも分かった。


(ラインしても既読が付かない、それも二人共だ)


 上冬は自分を落ち着かせようと必死になっていた。

 スタッフの部屋はコテージの両隣なので行こうと思えば簡単だった。

 だが今、部屋を出るのは危険な気がしていた。


(この部屋にいれば配信されているから大丈夫だ、それは昨夜で分かってる)


 東京の始和とユキと繋がっている、だから安全は担保されていると思っていた。

 だがしかし、このままでは二人のスタッフを見殺しにしてしまうのではないか?

 そんな不安も頭をよぎり始めていた、だが考えても結論が出ない。

 その時、再びスマホの着信音が鳴った。

 期待したスタッフからのラインではなくメールで、しかも乾からだった。


(無事でしたか…)


 メールの内容はホテルを訪れているとの事だった。

 上冬達の宿泊しているのはコテージであり別館の位置付けになる。

 乾はホテルの本館の方に来ているのであろう、そう思った。

 本館はコテージから庭を挟んで歩いて直ぐの距離である。

 上冬は、この乾からのメールで部屋を出る決心が着いた。

 両隣のスタッフの部屋に寄ってから本館に行くつもりだった。






 鳴神アヤメが部屋を出てから五月は状況を整理しようと考え始めた。

 どうしても何かを見落としている気が一向に拭えないのであった。

 

(アヤメ会長は後手に廻らされていると言っていた、それは確かだろう。

 だが一体全体、誰に先手を取られていると言うのだ?)


 橘夏初は実の父に襲われて精神的に壊れ、その当事者の麦秋は殺された。

 弟の健午は襲撃され、その犯人である穂張涼もまた殺された。

 麦秋の愛人だった看護師の雁来蘭は不審死を遂げ、その死因には疑問点が多い。

 穂張涼の上司だった芳歳太郎は自宅で殺害されていた。


(雁来看護師は、おそらく「いぐるみ」同等の力によるものだろう。

 影に隠れてはいるが、きっと犯人…射手は存在している筈。

 そして、その他三件の殺人事件にも犯人が居る。

 だけど…最初の二件は犯人とカテゴライズすべきなんだろうか?

 ナツハと健午は救われているし、そこに動機はおろか殺意も見当たらない。

 しかし後の二件には憎悪を含んだ殺意が充満している。

 犯人は、おそらく複数で繋がりも無いのではないか?)


 五月の眉間に深い縦皺が刻まれていた。

 犯人が複数だとしても、どちらも全く手掛かりが無い事だけは確かだった。

 まるで犯人の実像が頭の中に陽炎みたいに揺らめいている。






 上冬は部屋の状況を配信し続けている仕事用のスマホは、そのままにしておいた。

 僅かの時間、悩んだが無人の部屋を中継し続けるという選択をした。

 乾からのメールを受けた自分のスマホをポケットに入れて、そっとドアを開けた。

 当たり前だが部屋の外に待ち伏せ等はおらず、ただ景色が拡がっていた。

 両隣の部屋のインターホンを押したが全く反応は無かった。

 握った手の平の中に、じっとり汗を掻いているのが自分で分かった。

 誰も近付いて来る気配は無かった、だが何かに距離を詰められている感じはした。


(取り敢えず本館で乾さんと合流してから、また戻ってくれば良いさ)


 正面の向こう側に見える本館に向けて注意深く歩き始めた。

 その途端に、またスマホに着信が在った。

 咄嗟に乾だと思った上冬は通話に応じた、どのみち直ぐに会えると思いながら。

 だが流れ出てきた小さな唄声に、まるで殴られてみたいに衝撃を受ける。

 足許にポッカリと穴が開いた様な錯覚に陥っていた。


「かごめ、かごめ…」


 その唄は以前のものと同じで無機質な男の声で唄われていた。

 何か感情を押し殺しているみたいな冷たい気配を感じさせた。

 ホテル本館へ向かっていた上冬の足が震えでもつれた。


 籠の中の鳥は、いついつ出やる

 夜明けの晩に








 飛鳥駅に着いて始和は、わざとドアが閉まる瞬間に降りた。

 もし同じ車両に尾行者が乗っていたとしても、とても降りられないタイミングで。

 わざと交番とは反対側の改札を出た、そしてガード下を潜って向かう。


(塁が勤務中なら助かるんだが…)


 目当ての交番に入っていったが、そこに弟の姿は見当たらなかった。

 わざと道を尋ねる風を装って時間を稼いでいたのである。

 そこへ若い男性たちが入ってきた、その二人は私服だが警察関係者だと分かった。

 巡査が二人を見た途端、敬礼をしたからである。


「御苦労様ですっ」


「御疲れ様、梅見巡査はいないの?」


 始和は唐突に弟の名前を呼ばれて驚いた、そして二人を見た。

 それは飛鳥町連続殺人事件の特別捜査本部の刑事、田無と竹春だった。


「捜査本部に特別捜査協力をすると聞いておりますが…」


「そう、それで食事ついでに迎えに来たんですけど」


「もう本署に向かっております」


「あちゃ~擦れ違いかぁ、この狭い町で」


 始和は、この若者達が刑事だという事にも驚いた。

 テレビや映画で見る刑事とはイメージが全然違ったからである。

 厳格な刑事だった父親とは、まるで水と油な気がした。

 巡査になった弟は、どんな雰囲気に変わっているのかが気になった。






 飛鳥署の特別捜査本部のドアを開けて塁は入っていった。

 殺人事件が続いた為の異例の短期間配置転換である。

 短い間とはいえ刑事と同格の捜査活動が出来る事となった。

 勿論それには飛鳥署のメンツが掛かっているという事情も在った。

 芳歳太郎殺害は隣の清水公園署の管轄内で起きた事件ではある。

 だが穂張涼との関連で飛鳥署との合同捜査が行われる事態になった。

 そうなると清水公園署に先を越される訳にはいかなかった。

 そこで生まれが清水公園の塁の土地勘が必要とされたのである。

 犯人の確保は譲れなかった、それは捜査員全員の思いでもあった。


「失礼します」


「おう、お久し振りだなぁ」


 捜査本部には境しかいなかった、それでも塁は緊張したのだが。

 境は塁が到着する時刻を知っていて独りで迎えたのである。

 田無と竹春には、わざと食事がてら塁を迎えに行くよう指示を出した。

 それは塁とサシで話がしたいという思惑が絡んでいた。


「実はなぁ…折り入って頼みたい事が在るんだがなぁ」


「はっ」


「捜査は勿論だ、だが他にも気を付けてもらいたい事が在るんだよぉ」


「他にも、と言いますと何でしょう?」


「竹春刑事の事なんだがなぁ」


「…は?」


 塁は以前に会った事の在る若い刑事の顔を思い浮かべた。

 そして境の言葉の意味が全く理解出来なかった。

 境は、その塁の呆けた表情を見て指名したのを少しだけ後悔していた。


「竹春刑事が何か?」


「それがなぁ…時々、態度が変なんだよ」


「態度が、ですか?」


「何だか田無と上手くいってねぇんじゃねぇか、と思ってさ」


「田無刑事と」


 塁は、もう一人の若い刑事の顔を思い浮かべた。

 境は、その塁の顔で更に本格的に後悔し始めていた。


(こいつ本当に警察官かぁ、こんな鈍いヤツ使い物になるんかな?)


「分かりました、それで具体的にはどうすれば良いですか?」


 少し元気に答える塁に境は若干諦めながら、その内容を指示した。

 それは竹春の行動で何か不自然だったら境に報告する、だった。


「捜査の方は独自に動いてもらって構わん。

 何か、ほんの少しでもいいからホシの手掛かりが欲しいんだぁ」


「分かりました」


「これが捜査資料、清水公園の事件のモノも一緒になってるから」


「はい」


 塁は、ついに一時的にせよ父親と同じ刑事になれて高揚していた。

 境は、とにかく猫の手も借りたかったのである。

 塁は何だか兄に会って、この事を無性に報告したかった。


(ムツミ兄ちゃん、とうとう自分も捜査に加われたよ)






 始和は自分の部屋に帰れるか悩んでいた。

 まだ完全に尾行を巻いた、という確信は持てなかった。

 自宅の住所は編集部にも教えていない。

 引っ越してからは友人知人にも住所を公開していなかった。


(家は安全だ、だが帰り路を尾行されたら面倒になる。

 どうすれば完全に大丈夫だと確認出来るだろう?)


 スマホが在れば金銭的に不安は無かった、だが休む場所が無かった。

 始和は取り敢えず編集部に向かった、そこで寝るつもりだった。

 取材の素材をまとめたいと言えば断れる事は無い。


(今夜は編集部に泊めてもらうとしよう、あそこなら安全だろう)


 ゴシップや都市伝説を主に扱う「噂ノ深層」編集部は雑居ビル内に在った。

 雑誌の性質上、防犯カメラも電話の録音機能も完備されていた。

 そして何よりも最寄りの交番から徒歩で直ぐなのが安心材料でもあった。


(今日は一晩中、上冬さんのキャスを見ながら記事を書くか)


 上冬の事を思い出した始和はスマホで動画サイトにアクセスした。

 配信は続いていたが、その部屋には誰の姿も見当たらなかった。

 しかし部屋には荷物が置いてあるのが確認出来た。

 一時的に姿が見えないだけだろうと全く心配はしていなかった。






 上冬はホテル本館のドアを通りラウンジを見渡したが乾は見当たらなかった。

 建物に入ったと同時に膝の震えは収まり、やっと落ち着いてきた。


(乾さんが居ないな…)


 乾に電話を掛けようとポケットからスマホを取り出した、その時である。

 スマホにメールの着信が在った、それは乾からであった。


「403号室に来て下さい」


 メールには、たったそれだけが記されていた。

 上冬は受付で403号室に呼ばれて来た事を告げると内線で確認してくれた。


「どうぞ」


 ラウンジを通りエレベーターの前に立ち止まる。

 直ぐにエレベーターは降りてきた、そのまま乗り込んだ。


(ちゃんとしたホテルだし、これだけ客が居るんだから手は出せまい。

 早く乾さんを連れてコテージに戻らなくちゃ)


 四階をボタンで押すと同時にドアが閉まった。

 その閉まる寸前のドアの隙間から人影が見えたので慌てて開ボタンを押す。

 ドアは開いたが、そこには誰の姿も見えなかった。


(あれ?)


 もう一度、閉ボタンを押すとドアが閉まり始めた。

 その閉まるドアの隙間から、やはり人影が再び見えた。

 黒い服の女が上冬を見て、ほんの微かに嗤っていた。


 かごめ、かごめ

 籠の中の鳥は、いついつ出やる

















































 







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