第16話 ニンゲン
橘健午は興奮して一晩中、寝付く事が出来なかった。
義母である鳴神アヤメが孫のナツハの退院の為に兄の麦秋邸に向かった。
だが、その周辺に連続殺人犯らしき人影を見ていたのである。
アヤメは只で済む筈が無い、そう考えて一睡も出来なかったのだ。
自分にとって邪魔者であるアヤメに何か起こる事を望んでいた。
(もし殺されてくれれば、それが一番なんだが。
わざわざオレが自分の手を汚さないで済むからな)
健午は一晩中、自分のスマホを見つめていた。
アヤメに何かが在れば真っ先に自分に連絡が来る筈だ、と思いながら。
(朝になればナツハが兄貴の家に戻ってくる。
もし、その時にアヤメを見付ければオレのアリバイにもなる。
カードキーは使用した者の記録を残してくれるからな)
健午はナツハの保護を口実にして自宅に引き取りたかった。
その後で麦秋邸は処分してしまえば良い、と考えていた。
(そうすれば病院も財産もナツハも全てを手に入れられる。
月鳴神会は五月に任せてしまえば良いのだ、それでいい)
健午は、あの麦秋邸の門前の犯人らしき人影を思い浮かべた。
そして何故、犯人が屋敷の中で待ち伏せしなかったのか分かった。
(カードキーだ、きっと鍵を変えたから奴は侵入出来なかったんだ。
…じゃあ今迄は、どうやって出入りしていたんだ?)
鳴神アヤメは橘麦秋邸の近くで、ほんの微かな気配を感じ取って立ち止まる。
まだ夕方と呼べる時間帯、静かとはいえ住宅街の一角で感じるモノではなかった。
(…殺意?)
その気配の漂う中心点に視線を向かわせてみる、そこには人が居た。
黒い服を身に纏い、その夕闇に少しずつ溶けているみたいな佇まい。
だが、その濃厚な殺意はアヤメをもたじろがせる程の強さだった。
(危ないな、これでは夏初を迎える準備どころではない)
アヤメは自分の能力を全開放して、その人影に少しずつ近付いていった。
一般人なら、その能力だけでコントロール出来る位である。
だが、その人影はアヤメに注意を払う様子を見せなかった。
(これは「いぐるみ」?いや、そうではないな…)
アヤメは、その人影の危うさに気が付いた。
距離を置いて通り過ぎる時に、その輪郭を脳裡に刻んでおいた。
(もしかして「いぐるみ」を逆に辿っているのか…?)
アヤメは両手から手袋を外して、その人影に向けた。
人影を見据えながら二度、思念を捉えようと頭の中で試みる。
その瞬間、黒い服を着た女性がアヤメに注意を向ける。
ぱん、ぱん。
二度、手を合わせて音を鳴らす。
乾いた音が住宅街に響いた、その人物が完全にアヤメに顔を向けた。
アヤメは、もう一度その思念を捉えようとする。
(心波共振している…)
その女性は振り返り、その場から立ち去ろうとした。
アヤメは、その殺意の強さから犯人だと確信して留めようとする。
(待ちなさい)
アヤメの、その送られた思念に犯人は強烈な殺意で返す。
その総量が尋常ではなかった為、流石のアヤメでも怯んでしまった。
(これ以上、強く引き止め続けたら危ういな。
正体を知りたかった所ではあるが…)
アヤメは立ち去った人影の後ろ姿に只ならぬ恐怖を感じ取った。
そして確かに自分の娘、自死してしまった早苗に似ていると思った。
(「いぐるみ」の見えざる紐を辿って、この私を狙ったのか?
だが私が麦秋邸に戻るのは、ごく限られた者にしか分からない。
それでは奴は何故、麦秋邸で待ち伏せなどしていたのだ?)
アヤメの娘でナツハの母、早苗は自死してしまっている。
早苗の双子の妹、麗は交通事故死してしまった。
末の妹、紅葉はナツハと一緒に退院する予定である。
その娘でアヤメにとっては孫の五月は健午邸に居る。
まるで皆を合わせたかの様な黒い服の女、実態が掴めなかった。
だが確実に二人を殺害している凶悪な殺人犯なのは確かだと思った。
竹春は眠気の限界が来る迄、始和から送られた資料を漁っていた。
特に彼が知らなかった屋久島での連続不審火焼死事件について興味を持った。
原因不明の火災で焼死者を出している被害者宅が全て月鳴神会の反対勢力。
焼死者は全て火の気が無い部屋で炎に包まれている。
しかも、その直前には電話が掛かってきていたという証言が在る。
(それがアヤメではなく幼児の声、催眠で人が焼き殺されるなんて…)
始和の説明を聞いても余りに荒唐無稽に思えて仕方が無かった。
人体自然発火…スポンティニアス・コンバッション。
(暗示で人が自分を殺せるものだろうか、もし可能だとしたら)
此の世は地獄に変わってしまう、そう考えるのを自分で喰い止めた。
そして一連の事件について続けて考えてみる。
(看護師のアナフィラキシーショック死については、どうなんだ?
あれも結局、蜂に刺されたという痕跡は見付からなかった。
只その症状だけが身体に残されていただけだ、そんな事が…)
結局、雁来看護師の死因は原因不明のまま心不全という事になっていた。
勿論、特別捜査本部の誰も納得してはいなかったのだが。
(そして芳歳ディレクター殺人事件、一番人間の匂いが残っている。
あれは絶対に計画的なモノで衝動的な犯行じゃない。
しかも状況証拠から見て顔見知りにしか出来ない犯行でもある)
芳歳殺人事件は清水公園署の管轄なので報告でしか分からないのだった。
だが、どうしても関連付けて考えざるを得なかった。
(そして屋久島での二人の行方不明と一人の転落死。
俯瞰で見れば全て月鳴神会の何らかの関係者でもある)
状況的に見ると橘病院の関係者は全て被害者的立場であった。
だが、どうしても加害者的な視線で見てしまうのである。
(亜細亜天和了連盟の関連も噂レベルでしかないし、その裏付けも無い)
竹春の思考回路は処理が追い付かずに混乱してきていた。
どうしても月鳴神会の方が加害者に思えて仕方が無いのだった。
(始和さんが言っていた「いぐるみ」が本当に存在するとして…。
どうして橘病院側の人達が被害者になってしまうんだ?)
竹春は始和からの資料に、もう一度目を通してみた。
資料には被害者しか載っていない、まるで容疑者が浮かばないのである。
捜査も、その時点で混乱していた。
(そもそも、どうして橘麦秋がナツハを襲っている現場に現れたのだ?
どうやって、どうして麦秋邸に入れたのだ?
犯行後に現場から立ち去る映像は残されているというのに)
竹春の思考回路は、その時点で停止して眠気が襲ってきた。
竹春への電話を済ませてから始和は、また原稿を纏めていた。
同じ敵を相手にしているのが刑事なので少し安心していたのだった。
そんな時、再び着信が入る。
ディスプレイには「芳歳太郎」、相手の名前を見た途端に胃がキリリと痛んだ。
今度は通話モードにせずに放っておいた、だが着信音は止まらない。
始和は、そっとスマホの電源を切った。
編集部の静寂が、どんどん大きく重くなっていくのが分かる。
(電源を落とした事は相手には伝わる、そうしたら次はどう出る?)
編集部では個人情報も扱っているので一応、警備はシッカリとしていた。
個人のIDカードじゃないとドアも開かない設備になっていた。
だが相手は始和の行動を掴んでいる、そう考えていた。
(この編集部に居る間は安全な筈だ、だがしかし…)
始和は自分にも何かが迫っている事を、よく分かっていた。
だが、そのリスクを考慮しても犯人が知りたかった。
特に動機が分からない、その行動の理由が想像出来なかったのだ。
これは自分自身を餌にしても、どうしても突き止めたかった。
彼の思考回路は、その時点で停止して眠気が襲ってきた。
朝日が完全に上りきった頃、健午邸にアヤメが戻ってきた。
麦秋邸での夏初を迎える準備を済ませ帰ってきたのである。
アヤメの帰還を目の当たりにして健午は心から動揺した。
麦秋邸で犯人の可能性が高い人物が待ち伏せしていた筈だからだ。
(どうして義母さんは無事なんだ…絶対に鉢合わせしている筈なのに。
もしかして義母さんとは顔見知りで待ち合わせしていただけなのか?)
そう思った途端に健午の頭の中にバチっと音を立てて何かが閃いた。
その閃きはドス黒い考えとなって、どんどん思考回路を占拠していった。
(もしかして兄貴は義母さんの依頼で殺されたんじゃないのか?
義母さんが手引きしたんなら簡単に家で待ち伏せ出来るし…。
でも、どうして犯人はオレを助けたんだ?)
健午は犯人らしき人物に自分が救われた事を思い出していた。
兄を殺した人物が、どうして自分を助けたのか。
(そうか、この病院の経営権か。
オレが死んでしまえば、この病院は終わってしまうからな)
健午は刃物を隠し入れた往診用の医療鞄の位置を確かめた。
自分自身では気付いていないが、その殺意は身体から漏れ出していた。
(よくも兄貴を殺してくれたな、よくも…)
健午の中の「いぐるみ」がオーバードーズを誘発していた。
狂え。
ハンバーガーチェーンの袋を抱えて田無が特別捜査本部に入ってきた。
部屋の中には、まだ境しか出勤していなかった。
「お早う御座います、これ朝食です。
期間限定でチキンフライバーガーが出たんです、どうぞ」
「おう、ありがとお。
竹春から、ちょっとだけ遅刻するって連絡が在ったぞぉ」
「あら、それじゃ珈琲が冷めてしまいますね」
「まあ署の自販機の珈琲で大丈夫だろぉ」
「これダークローストだから美味しいんですけどね」
「それな」
その会話を遮る様に竹春が部屋に入ってきた。
田無が朝の挨拶と一緒に紙袋を差し出した、それを受け取って開ける。
「イイ匂いがしますね、この珈琲」
「ブラジルダークローストです」
「あざっす」
境が微笑んだ、やっと最近会話に付いていける様になったのである。
そして竹春の田無への態度にも不自然さが無かったのも、その理由だった。
「昨日、一晩掛けて入手した情報の裏を取ってみました」
「ほぅ、どんな塩梅だぁ?」
竹春は始和の身分はボカシたまま屋久島での出来事の説明をした。
過去に起きた不審火連続焼死事件と昨日の転落死と行方不明について。
その全員が月鳴神会にアンチ的に関わっている人達であるという事実も。
「スポンティニアス・コンバッション…」
「人体自然発火による焼死だとぉ、またオカルト臭い事件だなぁ」
「スキューバのダイバーが行方不明だなんて、それも二人も」
「転落死は事故じゃなくて事件性が在るのかぁ?」
「全部、現地の署からの報告待ちなんですけどね」
「何で屋久島の情報なんて仕入れられたんだぁ?」
「自分にも情報屋が居るんですよね」
そう竹春が言った途端、田無の眉間に微かに皺が寄ったのに境は気付いた。
やはり、この二人の間には微妙な緊張感が漂っていると感じ取った。
それは長年、刑事を勤めてきた彼の勘とでも呼べるものだった。
(お互いが、お互いの事を完全に信用しとらんなぁ。
だが、その理由がオレにはよく分からん)
チキンフライバーガーを頬張りながら境は思った。
その時、竹春のデスクのパソコンにメールが届けられた。
それこそ彼等が今、一番欲していた屋久島からの報告書だった。
竹春はプリントアウトした報告書を境と田無に、それぞれ渡した。
「…!」
暫く無言で目を通していた三人が殆ど同時に大きい溜息を吐いた。
そして、それぞれが違った戦慄を覚えていた。
特に竹春は明らかに顔色が青褪めていった。
それと同様に三人の珈琲も、どんどん冷めていった。
健午邸の車庫の電動シャッターが開けられ、そこに病院の車が停まった。
現在、病院の運営を任されている早緑副院長がナツハを送ってきたのだ。
アヤメと五月がリビングでナツハを待っていた。
だが健午自身は自室から出てくる気配が無い、まだ就寝中だと思われていた。
「こちらです」
ドアを開けて誘導してきた早緑に続いてナツハが姿を現わした。
その瞬間、明らかに部屋の温度と明度が上がったかに思われた。
「御心配を、お掛けしました」
「夏初、退院おめでとう」
「ナツハちゃん、もう大丈夫よ」
まだ疲れた表情のナツハにアヤメと五月が優しく声を掛けた。
ナツハは五月の正面に腰掛けた、それを見て早緑が一礼をして部屋を出た。
「夏初、院長の事は御愁傷様でした」
「ナツハちゃん、また一緒に登校しましょう」
「うん、ありがとう。
でも、どうして五月ちゃん家に集まったの?」
「ナツハちゃん家の鍵を新しくしたからよ」
「夏初、新しい鍵です。
暗証番号は自分で設定できるから」
「鍵を新しくしたの?どうして?」
「どうして、って…」
五月とアヤメは、そのナツハの自然な質問に絶句してしまった。
ナツハは不思議そうな表情でカードキーと二人を交互に見た。
五月とアヤメは視線を合わせて互いに同じ事を同時に思った。
(まさかナツハは記憶を…)
病院のナツハ担当医から、その危険性は指摘されていた。
ナツハは父親が殺害される時に母親を見た、と語っていたらしい。
それはアヤメを通して五月の耳にも届いていた。
五月は自然にナツハに探りを入れてみる事にした。
(ナツハちゃんの心は読めない、まるで始めから無いみたいに。
だから自分自身で言葉にして貰うしか無いんだわ)
「ナツハちゃん、もうゴールデンウィークで連休だよ。
沢山、昔の事とか話が出来るわね」
ナツハは屈託の無い笑顔を五月に向けて、ゆっくり話し始めた。
「小さい頃、連休中ずっと図書館に行ったの覚えてる?」
「小さい頃?図書館?」
五月は予想もしていなかった、その言葉に少し困惑した。
アヤメは意識的に気配を消して二人の会話に耳を傾けていた。
五月とアヤメは再び視線を合わせて同じ事を考えた。
(ナツハちゃんは記憶を失っていない、ほんの少し混乱しているだけだわ)
「私達は本当の姉妹みたいに、いつも一緒に居たよね」
小さかった頃、二人はよく姉妹に間違えられた。
それも双子に間違われる程、何もかもが似ていたのである。
特別捜査本部が沈黙に包まれていた、だが部屋には三人もの刑事が居た。
彼等は屋久島の警察から送られてきた事件に関する資料を読み耽っていた。
誰も会話の口火を切ろうとは、しなかった。
上冬の転落死に関しては当初は自殺と見られていた。
ホテルの屋上に向かう彼の姿だけをカメラが収めていたからである。
だが上冬はレストランで待つ同僚にホテルの客と会うと告げていた。
しかし警察の調査では、そんな事実は無かったとの事だった。
その後、彼の部屋の捜索で撮影された素材の編集用パソコンが出てきた。
だがハードディスクの中身は消去された痕跡が残っていた。
その内容は残されたスタッフ達には皆目見当も付かなかった。
トビウオ漁の網に引っ掛かった二つの遺体は乾と木染であった。
死因は溺死、二人共にダイビングのインストラクターだったのだが。
当初は溺れていた基染を乾が救助しようとして二人共に溺死したと見られていた。
木染の身体に乾の両腕が確りと絡み付いていたからである。
だが死亡推定時刻は乾の方が早かった、それは周囲の人達の証言と一致していた。
そうなると木染に乾の遺体が、しがみついて溺れ死んだという事になる。
だが警察としては、そんな事実を認める訳にはいかなかった。
海岸沿いの駐車場の二人の車からスマホが押収された。
だが通信記録は全て消去されていた、その理由は不明だった。
「どう思います?」
田無が沈黙を破って境と竹春に言葉を向けてみた。
顔色が悪くなり黙ったままの竹春を差し置いて境が答えた。
「データが消されている以上、犯罪の匂いしかしねぇなぁ」
「ですよね」
そこへ新しく参加する事になった塁が部屋に入ってきた。
私服の塁は、とても特別捜査本部の一員には程遠い恰好をしていた。
「お早う御座います、…って皆さん随分と早いんですね」
「おう梅見巡査…お早う」
「お早う梅見巡査、自然と早く出てくる様になっちゃんたんですよね。
連続殺人鬼に舐められ続けていますからね」
「じゃあ自分も明日から早く署に出てきます」
「おう、それは個人の自由だがなぁ」
そう言うと境は笑顔を塁に向けた、それを見て田無が頷く。
竹春は不思議そうな表情を塁に向けた。
「梅見巡査、私服だと随分と雰囲気が変わりますね」
「まるで浪人生みたいだよなぁ」
境や田無はスーツを着ていた、そして竹春はジャケットである。
刑事らしい服装の用意など出来ない塁は薄手のパーカーだった。
その塁を凝視しながら竹春は浮かんでくる既視感に戸惑っていた。
(誰かに似ている、でも誰だったか…)
ナツハは五月に向けて話し続ける、それをアヤメが聞き続けていた。
とても静かに、まるで自分の気配を消しているかの様に。
「ウチも五月ちゃん家も漫画を読むのは禁止されていたじゃない?
でも図書館に行って本を読むのは許して貰えていたでしょ?」
「ええ、よく二人で図書館に行ったけど…」
幼い頃の二人の家は祖母のアヤメの教育方針が多くの割合を占めていた。
特に夏休み等は冷房の効いた図書館で過ごすのが二人は好きだった。
(ナツハちゃんは何を言おうとしているのだろう?)
「五月ちゃんは難しい本を読むのが好きだったじゃない?
ワタシは漫画本のコーナーで漫画ばかり夢中で読んでたの」
確かに、いつもナツハを漫画本のコーナーで見た事を思い出していた。
「その中でね、とても怖い漫画を読んだんだ。
人間の本当の姿を悪魔の視点から見る漫画って言えばいいのかな…」
「人間の本当の姿…?」
五月は不穏な言葉に少し意識が張り詰める、だがナツハは笑顔のままだった。
(悪魔の視点…?)
目を閉じたまま耳を澄ませていたアヤメに、その言葉が引っ掛かった。
薄く目を開けると少し硬い表情の五月、屈託の無い笑顔のナツハが見えた。
「最後の方にね、その悪魔が人間に対して言った言葉が忘れられないの」
ナツハは笑顔のまま五月とアヤメに瞳を向ける、そして静かに言った。
「地獄に落ちろ、人間ども」
五月はナツハを凝視した、そしてアヤメの両目は見開かれた。
ナツハは笑顔のままだった、だが五月とアヤメの心は凍り付いた。
「地獄って幾つ在ると思う?」
「幾つ、…って」
「一つだと思う、だから半分こすれば何とかなるんじゃないかな?
…ワタシと五月ちゃんで」
「夏初…」
思わずアヤメが呟いた、その声が泣いていると五月は思った。
(ナツハちゃんは地獄を見ている、そして片足を踏み込んでしまっている)
アヤメが救いを求める視線を五月に向ける、それを彼女は受け止めた。
ナツハは、まだ微笑みを二人に向けたままである。
三人の再開は、とても哀しいものになってしまっていた。
(ナツハちゃんは精神的に極限状態のままだわ、まだ大丈夫じゃない。
事件が解決する迄は、このワタシが守る)
五月は月鳴神会をあげて犯人を処分しようと決心していた。
それが例え会の信者だったとしても、だ。
アヤメは、そんな二人が不憫でならないと思っていた。
(ナツハちゃんの代わりにワタシが犯人を地獄に落とす)
五月が掛けているメガネが朝日に反射して、その瞳を隠した。
コッコがユキにクローゼットから大きな包みを持ち出してきた。
二人は明日の「レディワン」決勝大会に向けてネタ合わせ中である。
決勝は生中継なので失敗出来ない、とにかくリハーサルを繰り返した。
「その大きな荷物、何なの?」
「明日、使う小道具を準備しといたのさ」
開かれた包みから出てきたのはレトロな小刀であった。
彼女達エイプリルフールズのネタはコント風の漫才である。
渋谷にタイムスリップしてきた戦国武将が、その有様を嘆く設定だった。
このスタイルは「プリフルのコントーク」として好評、定着している。
本来なら決勝はギャルが戦国時代にタイムスリップする設定だった。
「ミルクラテさえ出てこなきゃね~」
「マジそれな」
あらゆる新人賞を総なめにしたミルクラテが突然の参戦。
本物の現役ギャル漫才に太刀打ち出来る訳が無かった。
そこで設定を逆に変えてネタを作り直したのである。
世間的にはミルクラテの優勝は、ほぼ既成事実の様になっていた。
「もしミルクラテがウケたら、どうしようも無いけどね~」
「その時は、これで刺しちゃえばイイんだってば」
「小道具で?それこそコントじゃん」
笑いながらのユキの言葉、真顔になったコッコが返した。
「これ…本物だよ」
狂え。
田無は宛てが在る、と告げて個人捜査の為に部屋を出た。
ドアが閉まった瞬間に竹春の眉間に一瞬、皺が刻まれた。
それを見逃さなかった境は竹春に尋ねてみた。
「何か腑に落ちない、って顔しとるなぁ」
「田無さんって、いつも手の内を見せないですよね」
「成果が上がれば、きちんと報告してくるだろぉ」
「チームプレイは必要無い、けれどチームワークは要ると思いますよ」
そんな緊迫している二人の会話に、そうとは知らず塁が言葉を挟んできた。
境と竹春は塁の存在を一瞬、忘れていた。
「それでは自分は裏付けの聞き込みに行ってきます」
「おう」
「サブスク刑事ですけど期待してますよ」
竹春が少し軽くなったトーンで塁に声を掛けた、それに塁が照れ笑いを返す。
土地勘の在る塁は前日迄の捜査の裏付けを取りにいく事になっていた。
その過程で何か新しい情報を得たら、その時点で報告を入れる手筈だった。
田無に続いて塁が部屋を出てから、そっと境が竹春に尋ねた。
「あのよぉ、さっき言ってたサブスクって何だぁ?」
「サブ・スクリプション…定額制って事ですよ」
「そのよぉ、それと梅見巡査がどう繋がるんだぁ?」
「巡査の給料で刑事の労働量です、つまり安上がりって事ですかね」
清水公園駅の繁華街、阿吽連合の本部に一人の男が呼び出された。
若頭補佐の時雨である、その武闘派っぷりから暫く本部を離れていた。
本人も、わざわざ呼ばれた事に只ならぬ気配を感じていた。
「…つまりクスリ入りの飲み物を飲んで寝てしまっていた、と?」
「そういう事になるな」
「…で弾入りのチャカが一丁だけパクられた、って?」
「それと、もう一つ。
よくよく調べたらサイレンサーもだ」
「…って事は護身用ではなく襲撃用にパックった、って事すね」
「そういう事になるな」
「…でオレは、どうするんです?」
阿吽連合が警察のガサ入れを避ける為に移動させた武器が盗まれた。
粗大ゴミに紛らわせて見張らせたホームレスが寝てしまっていた間に、である。
「そのホームレスが言うにはドリンクを貰った相手が警察関係だとよ」
「警察?」
「清水公園署じゃなく他の管轄の奴だったらしい、だから飲んだと。
以前に他のトラブルで、そいつに見覚えが在ったらしいんだ」
「警察なら自前の銃が在るじゃないすか?」
「その理由とやらを本人に聞いて貰いてえんだ」
「その警官を?」
「裏に誰かが居るだろう?それが重要なんじゃねえかな」
「そりゃ、そうすね」
アヤメはナツハを連れて麦秋邸へと帰っていった。
この連続殺人事件の発端の場所、呪われた屋敷へ戻る事を選んだのだ。
「自分で数字を選べるのね」
先に入ったアヤメを追ってカードキーを使ってナツハも帰宅した。
事件の現場となったナツハの部屋はクリーニングされていた。
替えられる物は全て替えられ、まるでリフォームされたみたいであった。
「ママの部屋は?」
「勿論、何も変えてはいませんよ」
アヤメは五月との時は月鳴神会の教祖と会長として接する。
だがナツハとは祖母と孫、可愛い孫として接していた。
「ただいま」
そう言いながらナツハは、かつて母のものだった部屋のドアを開けた。
部屋は、そのままだがキャビネットの上に母の写真が飾られていた。
それはナツハと母、早苗の二人だけが映っているものだった。
「ナツハ…具合は大丈夫ですか?」
「うん、もう大丈夫」
アヤメには、さっきの五月との会話が気になって仕方が無かった。
ナツハは自分のせいで、かつて持っていた力を封印してしまっていたからだ。
まだ、ほんの幼いナツハと五月に「いぐるみ」を発現させたのである。
それは「月詠み」としての資格を二人に与えようとしての事だった。
鳴り続ける電話の音に、とうとう始和は起こされてしまった。
昨夜、月鳴神会とアヤメ及び孫達について調べている途中で寝落ちしたのだ。
耳慣れないベルだと思ったが、それもその筈で事務所の固定電話だった。
やがて電話は呼ぶのを諦めて留守録機能が動き始めた。
(あれ…何も聞こえないぞ)
モニターが何も言わない内に録音が終了してしまった。
(間違い電話か?)
直後に今度は始和のスマホの着信音が聴こえ始めた。
画面の「芳歳太郎」、相手の名前を見て眠気が吹っ飛んだ。
明らかに二つの電話は連動している、この場所を知られている。
始和は通話モードにしなかった、やがて着信音は止んだ。
編集部の室内に、どんどん沈黙が満ちていく。
(ここなら大丈夫な筈だ)
始和は沈黙の長さと重さに耐えられずにテレビのスイッチを入れた。
チャンネルは常にニュースに合わされていた、アナウンサーの声が聞こえる。
画面には見覚えの在る二人の写真がアップで映し出されていた。
乾と木染だった、その声は二人の死因が溺死だと告げていた。
(…)
始和は目の前が真っ暗になった気がした。
その途端、耳の奥に残っている何かが音になって聞こえてきた。
鬼さん此方、手の鳴る方へ。
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