第4話 イグルミ

(そんなバカな事、在る訳無いって…)


 音声スタッフの穂張は、まだモニターを見つめたままだった。

 その表情は茫然としたままで、その両眼は見開かれたままだった。


「はは…、は…は…」


 穂張は、もう一度テープを再生して音声を聞いてみる事にした。

 モニターでは、もう一度コッコが鳴神アヤメにマイクを向けていた。


「すいません、お話を伺いたいんですが…」


 鳴神アヤメはコッコを見返す、その表情には変化が無かった。

 その唇は、ほんの微かにだが動いている。

 穂張は、もう一度ヘッドフォンを付けた。


「む…き…ぎや…はさ…」


 穂張は、もう少しだけ音声ボリュームを上げてみた。


「…もう…にげ…られ…ない…よ…」


(は?)


「…にが…さな…い…」


 慌てて穂張は、そのヘッドフォンを再び取り外した。

 テープを止めて両手で顔を覆う、その手は冷たい汗で濡れていた。

 モニターの中ではアヤメが無表情でコッコを見つめていた。

 穂張は、その止まっている筈のアヤメから視線を感じた。


(えぇっ!)


 確かにアヤメの顔はコッコの方を向いているのに、その視線と合ってしまった。

 アヤメの目だけが不自然に穂張の方を見ていた。

 モニターを見ていた穂張が今や、そのアヤメに見つめられていたのである。


(こんな…、こんな事…)


 動けずに呆然と見ている穂張に、またアヤメの声が聞こえてきた。

 ヘッドフォンをしていないにも関わらず、その声が耳に届いてくる。


「…イグ…ルミ…イグ…ルミ…」


(何だこれ…、どうなってんだ?)


 穂張はモニターのアヤメの目を見つめたまま動けない。

 首筋から感じられ始めた悪寒は、やがて全身に拡がっていった。

 その穂張の様子をモニターから見つめているのがアヤメの目。

 それが動き始めた。


 ぐるり、ぐるり


 穂張を見ていたアヤメの目だけが、ゆっくりと廻り始める。

 それを見ていた彼は意識が遠のいていくのを感じていた。


「…イグ…ルミ…イグ…ルミ…」


(いぐ…るみ…?)


 意識の奥底で、その言葉を反芻した途端に穂張は意識を失ってしまった。

 操り糸が切れた人形の様に、その場に崩れ落ちたのである。

 その光景を見終わったかの様にアヤメの目は回転を止めた。

 そして再び無表情を、そのモニターに固定した。

 だが、その唇からは微かな言葉だけが流れ続けていた。


「…コト…ダマ…イグ…ルミ…ツク…ヨミ…」


 スタジオの照明が消えた、まるで誰かの手によるみたいに。

 倒れた穂張は、その暗闇の中に寝息をたてていた。

 それを画面からアヤメが見つめていたが、やがてモニターも消えた。

 部屋は闇に浸かった。






 橘ナツハは警察病院のベッドの中で横たわっていた。

 総合心療内科からリハビリテーション科に移されていた。

 まだ意識は朦朧としていて面会謝絶のままである。

 事件の捜査関係者は、その意識が戻るのを心待ちにしていた。

 橘院長殺害事件の当日から彼女の意識は混濁したままであった。

 だがナツハは、その無意識の中で闘っていたのである。


(あの日…)


 入浴も済み、そろそろ寝ようとパジャマに着替え終わった頃。

 突然、父の麦秋がナツハの部屋のドアをノックした。


(何だろう、もうこんな時間なのに)


 ドアを開けて入室してきた麦秋から、いつもと違う匂いが漂ってきた。

 それはアルコールの匂いであった。


「ナツハ…ちょっといいかね?」


「は、はい…」


 麦秋は目を閉じて椅子に座った、そして話し始めたのである。


「高校には、もう慣れたのかい?」


「は、はい」


「もう高校生だものな…」


 ナツハには父の意図が見えなかった、ただ酒の匂いが嫌だった。

 麦秋は火照った顔色で話を続けた。


「高校生って事はだ、もう義務教育じゃない。

 この事は分かるね?」


「はい…」


「十八歳になれば、もう成人って事も分かるね?」


「…えっ?」


 ナツハには、まるで麦秋の言わんとする所が分からなかった。

 意味は分からないが、ただただ嫌悪感だけが募っていく。


「つまり、もうすぐ扶養義務も無くなるって事なんだよ」


「扶養…義務?」


「つまりパパがナツハを養う必要が無くなるって事だ」


 ナツハは混乱してきた、まだ父親の意図が見えない。


「この生活を続けたいのなら、その対価を払わなければならないんだよ」


「たいか?」


「そうだ」


 まだ麦秋は目を閉じたまま、その顔をナツハに向けた。


「健午と話をしてね、もっと家族ぐるみで仲良くしようとね」


「健午叔父さんと…?」


「そうだ」


 ナツハにも、やっと父親の言葉の意味が浮かび上がってきた。


「それで一緒に旅行に行くんでしょ?」


「そうだ、だがそれだけじゃないんだ」


「それが嫌でママは死んだんじゃないの?」


 ナツハは母の手紙を思い出して、つい大きな声を出してしまった。

 それが麦秋を刺激してしまった。

 父は、その顔をナツハに向けたまま目を見開いた。


「何だ…知っていたのか、それなら話は早いな。

 ママの代わりをして欲しいんだよナツハ」


「そんな…、そんな事本気で言ってるの?」


「だって五月ちゃんと交換して貰えるんだよ?」


 そう呟いた麦秋の目は、まるで血の池の様に見えた。

 ナツハは悲鳴を上げた。






 コッコがアパートのドアを開けた途端、小さな悲鳴が聞こえた。

 それはルームシェアしている相方のユキの声である。

 彼女達は芸人タレントでありエイプリルフールズというコンビでもあった。


「びっくりくりくりっ」


「ゴメン、ラインし忘れちゃってたわ」


「こないだの恐怖番組を見てたから驚いちゃったよ」


 ユキはコッコが出演していた番組を再生して見ていた所だった。

 画面では、とある外国の駅の監視カメラのモノクロ映像が映っていた。


「これが、きさらぎ駅じゃないよね?」


「どう見たって日本の絵じゃないでしょ」


「だよね~」


(あれ、なんか引っ掛かるなぁ…)


 コッコは無意識の内に何かの気配を感じ取った、それが何かは分かっていない。


「なんか、きさらぎって名前の駅は在りそうなんだけどな~」


「それよりさ、もっと凄い話が在るんだよユキに」


「えっ、もっと凄いって何?」


「今日ね、あの鳴神アヤメに在ったんだよアタシ」


「え~、あの月鳴神会の鳴神アヤメ会長?」


「そう」


「それこそ、びっくりくりくりだわ」


「橘病院の院長殺害事件、知ってるでしょ?

 どうやら、その関係者らしいのよ」


「マジで?」


「ユキのやってるスクープ番組でも追っかけてるんでしょ?」


「そうそう」


 相方のユキも情報番組でリポーターをしているのであった。

 その番組では政治から宗教までも取り扱っていた。

 鳴神菖蒲が会長を務める月鳴神会は、そのコンテンツの一つである。


「月鳴神会について、ちょっと詳しく教えてくんないかな」


「アタシも、そんなに詳しくは知らんけどね…」


 ユキは月鳴神会の説明を始めた、それを聞きながらコッコはパンを頬張る。

 …月鳴神会とは、いわゆる新興宗教とは少し違った性質を持つ宗教だった。

 鹿児島県で心療内科の医師をしていた鳴神菖蒲、彼女が始祖である。

 宗教法人の形を取ってはいるが、その実態は不透明なのだった。

 入信は紹介制だけでしか叶わず、しかもアヤメが認めた者のみである。

 布教活動は行わず、また退会も自由に出来る。

 一番の相違点は、お布施を受け付けていないという点に在った。

 つまり表面上は営利目的ではない、という事を表明している宗教であった。


 アヤメは信者の依頼を受けて、その相談にアドバイスを与える。

 報酬は、その依頼によりもたらされる利益の一部のみである。

 だがその高い精度のアドバイスにより、その評判は知れ渡っていた。

 それは「月詠み」と呼ばれる御神託である。






 ナツハの悲鳴を聞きつけた看護師が病室に飛び込んできた。

 彼女は上半身を起こして茫然としているナツハを見てナースコールを押した。


「橘さんが…先生を呼んで下さい!」


 ナツハは、その看護師に何かを伝えようとして口を開いた。

 その声は微かに震えて、やっと聞き取れる位の小ささであった。


「ママが…ママが…」


「橘さん、もう大丈夫よ」


 そこに当直の医師が入ってきた、そしてナツハの表情を覗き込んだ。


「ママが…ママが…」


(この子の母親は、もう亡くなっていると聞いているが…)


 医師は困惑しながら、まだナツハは正常ではないと考えていた。

 だが既にナツハの意識は正常だった、ただ恐怖に支配されていたのである。


「ママが…パパを…、あの時ママが…」


 そう言いながらナツハは大粒の涙を流し始めた。

 明らかに事件当日の記憶は戻っている、だが上手く言葉に出てこない。

 医師はナツハに聞き返した。


「橘さん、あの日の事を聞いても大丈夫かな?」


「パパを…、ママが…」


「お巡りさんにも話してくれるよね?」


 医師は看護師に警察に連絡する様に目配せをした。


「ママがパパを殺しちゃった…」


 それを聞いた医師と看護師の視線が、ぶつかってしまった。

 二人共、互いに信じられないといった顔をしていた。






 ユキの説明を一通り聞いたコッコは信じられないといった顔をした。

 実態不明の宗教団体、月鳴神会。

 始祖であり会長の鳴神菖蒲、彼女が関係者である橘院長殺害事件。

 その事件に、お互いに絡んでしまったコッコとユキ。

 何か不思議な気配が二人を取り囲んできた気がするのであった。


「コッコ、アタシ来週その取材で鹿児島ロケなんだよね~」


「鹿児島?」


「正確には屋久島、観光がてらの取材気分だったんだけどさ~」


「月鳴神会の?」


「ううん鳴神アヤメ個人の取材、気合入れて行ってくるよ~」


「帰ってきたらネタ合わせだから、こりゃ忙しくなるね」


「今年は『レディワン』取んなきゃね~」


 コッコとユキ、エイプリルフールズは漫才の賞レースに出場する。

 それで優勝するのがコンビの目標であり夢だった。

 二人共、本当は芸人一本で食べていきたかったのである。

 本音ではリポーターなんか、やりたくはなかったのだ。

 事件も宗教も漫才のネタの足しにしかならない、そう思っていた。


「だからコッコのニュース番組に使えそうな情報を仕入れてくるさ~」


「その頃には事件も片付いてるよ」


 コッコはユキに穏やかな笑顔を向けた。






 境は就寝中に起こされた割には、その頭は冴えていた。

 唯一の目撃者である橘夏初、彼女の意識が戻ったと連絡が入ったからである。

 夜半過ぎにも関わらず病院へと向かう事にした。

 程なく同僚の田無も合流する事になった、これで事件は解決すると考えていた。


「これで犯人の目星が付きますね」


 助手席に乗り込んできた田無が言った、その手には夜食のハンバーガー。

 もう片方の手で境に珈琲を差し出してきた。


「一丁前にグァテマラらしいです、まあ薄いでしょうけど」


「おう、ありがとさん」


「だけど母親が自殺で父親が自分を襲って、しかもそれで殺されたなんて…」


「これからが大変だよな」


「でも犯人を憎んでいるんでしょうか?」


「そこが難しいよな、なんせ自分を助ける為に父親を殺した訳だからな」


 二人は押し黙ってしまい、その車内には田無の咀嚼音だけが聞こえた。


「まあ自分達には関係ありませんけどね、ただ逮捕するだけですから」


「そんなに簡単だろうか…?」


「あの子が覚えていなければ、また振り出しですけどね」


「だって犯人は、あの子をそのままにしていたんだぜ」


「つまり身元が割れない自信が在るって事ですね」


「どんな理由が根拠かは分からんがな…」


 境の眉間の皺が、より深く刻まれた。






 もう真夜中を過ぎているのに五月には、まだ眠気が訪れる気配が無かった。

 いつもの様に部屋の電気を消して、その窓から夜空を眺めていた。


(丁度良いタイミングで院長は天に召されてくれた。

 後はパパさえ消えてくれれば、この病院を手に入れられる)


 そこへ通夜に来て宿泊している鳴神菖蒲が入ってきた。


「月詠み様、休息を取って頂かないと…」


「大丈夫よ、それよりまだ?」


「それが…実行したのは会の者ではない様です」


「じゃ誰が院長を?」


「それは私共には分かりかねます、ましてや月詠み様が御存知なければ…」


「そう…」


 五月には、おおよその事件の概要は掴めていた。

 彼女の特殊な能力は、その周囲の人間の行動を予測出来るのである。

 それも、かなりな精度で。

 彼女は、その人間の一つ前の行動が見えていた。

 それは現在に残るエネルギーの残滓を見て取れたからである。

 更に、その人間の思考も殆ど感知出来ていた。

 そして、そのエネルギーのベクトルを辿り次の行動を予測する。

 それが「月詠み」である。


 占いではなく、ましてやオカルトでもない。

 人間そのものが読めてしまい、それによりコントロール出来てしまう。

 マインドコントロールの亜種とも言える力で、それは強大であった。

 それを知るのは月鳴神会の一部の者のみである。






 境と田無の車が病院に着いた頃には、もう午前二時を回っていた。


「おいおい、もう丑三つ時じゃねぇか」


「何ですか、それ?」


 田無はハンバーガーを食べ終えて手を拭いていた。

 二人は真っ暗な病院に入って行った、それも裏の通用口からである。

 夜勤の看護師がナツハの病室まで案内してくれた。


「こんな夜分に、ご苦労様です」


「いやいや一刻も早くホシを摑まえない事にはね…」


「その事なんですが…」


 病室の中ではナツハがベッドで上半身だけを起こして待っていた。

 医師が、そんなナツハに促した。


「橘さん、この方達は警察の人だから…」


「橘さん、あの日の事を話して貰えるね?」


 ナツハは涙の跡が付いた顔を境に向けて、また同じ言葉を繰り返した。


「ママが…パパを殺しちゃったんです」


 境と田無は、お互いに顔を見合わせてからナツハを覗き込んだ。


「しかし橘さん、もうお母さんは亡くなってしまってますよね?」


「はい…」


「ママに似た人だったのかな?」


「私にはママにしか見えなかった、あれはママです…」


 境と田無は、もう一度顔を見合わせた。

 その表情は、お互いに絶望的な顔をしていた。






 穂張がスタジオで目覚めた時は、もう午前四時を過ぎていた。

 真っ暗なスタジオに、ほんの少しだけ月明かりが差し込んでいる。


「あれ、もう四時じゃないか」


 起き上がって部屋の電気を点ける、うっすら明るくなっていく。

 モニターを起動させながら昨夜の記憶を思い出そうと頭を振った。


(あれ…、もう音声バランスの確認は取ったよな…)


 穂張はモニターを再生した、そしてヘッドフォンを付けて音声を聞く。

 コッコが鳴神アヤメにマイクを向ける、その映像は見慣れたものだった。

 そのヘッドフォンから、ほんの微かに鳴神アヤメの声が漏れだしてくる。

 それは言葉というよりは音声化された呪詛の様な響きを持っていた。


(うっ、うぅ…)


 穂張はモニターのアヤメの表情を見て、その目に釘付けになっていた。

 どの映像のアヤメも、その視線だけは彼の方を見ていたのである。


(…、…)


 穂張は立ち上がってモニターを消した、そしてドアを開ける。

 少したどたどしい足取りでスタジオを出て駐車場へと向かった。

 左手にはヘルメットが持たれている、それは彼の原付バイク用のものだった。

 彼はエンジンを起動させた、それは彼自身の咆哮の様でもあった。

 そして薄明りの中を走りだしていった。






 五月が、ふと鳴神アヤメの目を覗き込んで視線を止めた。

 アヤメは視線を交わしてから、ほんの少し唇の端で微笑んだ。


「会長、何か仕掛けましたね?」


「流石は月詠み様です、やはり何もかも見通せるんですね」


 今更ながらアヤメは、その五月の鋭さに驚きを隠せなかった。


「テレビクルーの一人に『いぐるみ』を放ちました」


「射たの?」


「はい、もう直ぐ参りますでしょう」


「此処に?」


「ええ、と申しましても健午の所にで御座います」


「パパの…、じゃあパパを?」


「ええ…紅葉も入院しましたし良きタイミングかと思いまして」


「ママがいない間にパパを…」


 五月は考えた、この機会を逃す事はないかも知れない。

 でも鳴神は、その次に私を狙ってくるのも間違いなさそうだ。

 もし、それがハッキリしたら彼女とも決着を付けねばならなくなるかも。


「ですから我々は、お互い部屋に閉じこもる必要が在るのです」


「パパはドアを開けるかしら?」


「そちらにも『いぐるみ』を放っております」


「なりたい者になり、したい事をする」


「左様で御座います」


「パパも獲物を求めていると?」


「犯人への殺意は月詠み様も感じ取られていますでしょう?」


「確かに、あれは桁外れだわ」


「だから訪問者は強者でなくてはなりません」


「強者?」


「『無敵の人』で御座います」






 穂張はコンビニでナイフとフォークのセットを買った、そしてリュックに仕舞う。

 そして再びヘルメットを被りバイクのエンジンを入れる。

 そのヘルメットの下の顔には無表情が張り付いていた。

 彼には目的地など無かった、ただ思う方向にバイクを走らせているだけである。

 暫く走らせた後に、とある邸宅の前にバイクを止めた。

 だが、その大きな家には見覚えも思い当たる節も無かった。

 彼はバイクを降りて門の前に立ち、その持ち主の表札を見た。


『橘 TACHIBANA』


 表札には漢字が一文字と、その横にはローマ字が並んでいた。

 穂張は、その文字列を眺めただけで読んですらいなかった。

 彼はヘルメットを被ったままでインターホンを押した。

 ようやく夜が明けたとはいえ、まだ早朝と時間であると言える時間である。


 その時に邸内にいたのは橘健午、娘の五月。

 そして月鳴神会の鳴神菖蒲と橘麦秋の亡骸だけであった。

 五月の母である紅葉は事件のショックで入院してしまっている。

 五月とアヤメは、お互いの部屋で先ずバイクの停車する音を聞いた。

 その途端、二人は部屋をロックして外の気配を伺っていたのである。


 もう一度、穂張がインターホンを鳴らした。

 五月とアヤメは部屋に閉じこもったまま動く事はなかった。






 橘健午は兄・麦秋の通夜を終え、その棺の傍で一夜を過ごしていた。

 明日が葬儀なので、もう寝なくてはならない時間である。

 悲しみも相まって軽くとはいえ酒をあおって、うたた寝をしていた。

 そこへインターホンが鳴らされた、その直前には排気音らしき音も聞こえていた。


(こんな時間に…、こんな時に…)


 誰も反応しなかったからだろう、もう一度インターホンが鳴らされた。

 迷惑と言っていい夜明けと早朝の間際の時間帯である。

 健午の顔は、その音への怒りと酔いとで真っ赤になっていた。

 モニターを見てみるとキャップを深く被った男性、見覚えは無い。

 本来なら警察を呼ぶべき所だが、その判断力が今の健午には無かった。

 彼は玄関に赴き、そのドアをチェーンロックもせずに開けてしまったのだ。

 そこには改めて見ても全く面識の無い男が立っていたのである。

 無表情で。


 ざずっ


 健午の胸に鋭い痛みが走る、それは直ぐに全身を駆け抜けた。

 ドアから後退った健午を追って、その男は玄関に入ってきた。

 通夜の時の白いワイシャツの胸の部分、真っ赤な染みが拡がっていく。


「な…何を…、うぅっ!」


 痛みの中心には鈍く銀色に光るフォークが突き立てられていた。

 男は、その手にナイフを握って健午に振り下ろす。

 避けようとした手の平を刃先が滑り、そこに赤い筋を付けた。


「何を、や…止めてくれっ!」


 健午は勢いに押されて尻餅を突いてしまう。

 それを見た男が、そのナイフを振り上げ再び近付いてきた。

 その時である。


「ゔぅっ!」


 男が呻き声の様な音を口から吐き出して、その動きを止めた。

 健午と目を合わせたまま、その口から一筋の赤いものが流れ出てきた。

 男の胸から何かが服を押し上げている、それは赤く濡れている様に見えた。

 それと同じ色のものが、その口から滝みたいに流れ出てきた。

 男の胸から飛び出たのは鋭い刃物の先であった。


「ひっ、ひいっ!」


「ゔゔっ、ゔぇっ…」


 今や健午は自分の傷の痛みより、その恐怖の方が勝っていた。

 男の胸から噴き出した血で彼の眼鏡は真っ赤に染まっていく。

 軽く痙攣しながら、その男は膝を付いた。

 その後ろには…黒い服を着た女性が立っていた。


「お…お前、誰だ…?」


 (さ…早苗さんに似ている、だがそんな事はありえん…)


 健午は兄の妻、早苗の姿を想い出したが直ぐに頭から消した。

 彼女が自ら命を絶ってから、もう一年が経つのだから。


 黒い服の女性は一歩後退ってドアを閉め、そのまま夜明けと共に消えた。

 その途端、激痛が蘇ってきた健午は大声を上げる。

 それは邸内の中にだけ響き渡ったのだ。






 橘健午の悲鳴を聞いたのは、その娘の五月と鳴神アヤメだけであった。

 バイクの停車音に続いての健午の悲鳴、二人は殆ど同時に警察に通報した。

 その後、部屋から出て一階の玄関へと向かう。

 降りる途中の階段で一緒になった、そして二人で玄関を覗き込む。

 例え犯人が居残っていたとしても、それは操り人形に過ぎず安全だったからだ。


「そんな、そんな…」


 そこには血だらけで錯乱している健午と、もう一人の男がいた。

 その男の方が血まみれで、もう息をしていないのは一目瞭然だった。

 アヤメは持ってきていた携帯で救急車を呼びながら思った。


(この男は誰だ…何者なんだ?)


 五月は、そのアヤメの思いを見抜きながらも父親に声を掛けた。


「パパ大丈夫…、何が在ったの?」


「早苗さんが…早苗さんが…」


(早苗って…ナツハのママだったよね、それがどうしたんだろう)


「早苗さんが助けてくれた…」


 その言葉に震えながら反応したのはアヤメの方だった。


「早苗が…?」


 橘麦秋の妻・早苗は鳴神アヤメの娘だったからである。

 娘の早苗が自殺し、その遺書に書かれた遺言によりナツハの面倒をみていた。

 義理の息子の麦秋が殺され、その犯人も分かっていない。

 その上、健午を襲った男をも殺害してしまった。

 それが亡くなった娘だと言われれば、それは混乱するなという方が無理である。


 五月は、もう一人の男の遺体を見ていた。

 人の死体を見るのは初めてだった、しかも血まみれである。

 父である健午の顔も胸も手も、また真っ赤に染まっていた。

 それでも、その表情に感情が動いた跡は少しも見えなかった。


「パパしっかりして、もう直ぐ救急車が来てくれるから」


 その言葉と殆ど同時にパトカーのランプが開いてるドアから見えた。

 サイレンは聞こえなかった、それは次の救急車も同じであった。

 まだ早朝、長い一日は始まったばかりである。

 

 


 事情聴取を受けた五月とアヤメは二人でホテルへと移動した。

 現場検証で、とても家にいる事が出来なかったからである。

 その内にマスコミも嗅ぎつけてくるのは目に見えている。

 駅前のホテルに入り、そこで二人は一緒の部屋を取った。


「どうやら失敗したみたいですね、あれが『無敵の人』?」


「あの者は私が『いぐるみ』を放った者ではありません。

 私が放ったのは女性です、でも早苗には似ていません。」


「どういう事?」


「おそらくは何かの手違いで『いぐるみ』に感応した者でしょう」


「もしかして逃げた人が…」

 






 真夜中に続いて再び起こされた境だったが、その表情は引き締まっていた。

 これで担当の事件が連続殺人事件に発展してしまったからである。

 今度は田無が車で、こちらに向かっているとの事だった。

 情報では橘院長殺害犯が弟の健午を襲い重傷を負わせた。

 犯人は、その場に居合わせた人物に殺害されたという不自然な報告。

 その居合わせた人物の詳細は不明、全く不可思議な事件である。


「何か新しい情報は入ってるか?」


 車に乗り込みながら境は尋ねた、その言葉に田無は首を振る。


「本署でも混乱しているみたいです、まあ無理も無いでしょう」


「犯人は女性らしいな、だとすれば先程の子の証言も…」


「あながち否定は出来ません、ですよね」


 健午は重傷を負ったものの命に別条は無し、だから証言の信憑性は高い。

 黒い服の女性、背は高く見えた。

 健午の証言は、そのまま橘ナツハの証言と一致している。


「ホトケの身元は?」


「マーチTVのスタッフだそうです」


「マーチ?」


「インターネット専門のテレビ会社ですね」


「そいつが何で橘健午を?」


「それを調べるのが我々でしょう」


「ちげえねぇや」


「でも問題は…」


「そいつを誰が殺したかって事だよなぁ」






 塁は、まだ目覚ましが鳴る前に起きてしまった。

 いつもは目覚ましが鳴り響いても、やっとの事で起きるのにと思った。


(また、この匂いだ…)


 そして部屋に微かに漂っている匂いが、より塁の気分を重くしていく。

 夜勤明けの今日は一日休みである、それにも関わらず。


(非番だけど、あの事件に関わる噂を集めてみるか…)


 ベッドから身体を起こしてテレビを点けてみた、いつものニュース番組が流れる。

 最初に目に飛び込んできたのは「速報」の文字だった。

 続いた「橘病院事件」の文字に塁の目は釘付けになった。


(何か新しい情報でも分かったのだろうか…)


 アナウンサーが静かながらも強い口調でニュースを読み上げていく。


「殺害された橘病院院長・橘麦秋さんの弟・健午さんが自宅で襲われました。

 健午さんは重傷、犯人は死亡した模様です。」


(犯人が見付かった…、そして亡くなった?)


「犯人の死亡理由や動機、詳細については不明」


(事件は…片付いたんだろうか?)


 塁は画面を見ながら呆然としてしまった、そして力が抜けていく。

 そしてふと、あの事件の担当をしている境の顔を思い浮かべた。


(詳しい事情を聞かせて貰おう)


 そう考えてから、もう一度ベッドで横になった。













 






 





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