第3話 ヒョウリ
弥生が目覚めた時には、もう父は起きて朝食を射る食べている最中だった。
母親がいない境家では食事は自分で作るのがルールになっている。
テレビは時報代わりに点けられていて、それを見ながら食べるのが日課だった。
そこに橘院長殺害のニュースが流れ始める、だが父は顔色ひとつ変えない。
「パパあのね、この事件って弥生のクラスメイトの…」
「知ってるよ、だけど仕事については何も喋っちゃイカンのだ。
例え家族が相手でもだ、よくだろ分かってるだろ?」
「うん、ごめんね」
(…それじゃ私も手紙の事なんか何も話さないもん)
そのまま二人は無言で朝食を進めた、ただテレビだけが喋り続けている。
ニュースは次の話題へと移っていった、どうやら新しい情報は無いらしい。
プルルルル、プルルルル
そんな時、境の携帯電話が鳴った。
いまだに携帯電話を使用している、それは片手で操作が出来るからである。
「はい、こちら境。
おう結果が出たのか、それで?」
どうやら仕事の電話らしかった、こんな早朝には珍しい事である。
一瞬で境の顔色が変わった、そして暫く無言が続いた後に呻いた。
「そりゃあ…本当か?」
弥生は、そんな父の反応に少し驚いた。
境は滅多に感情を表に出さない、しかも仕事に関してなら尚更だ。
父の眉間の皺が、いつもよりも深く刻まれているのを見た。
塁は夢を見ていた、それは悪夢と呼んでも差支えないものだった。
警察官姿の塁が、まだ子供の頃の塁を見ているという夢である。
夕方の交差点、真ん中に子供の塁が立っている。
塁の前には双子の兄の睦がいる、その手を父親に引かれていく。
手を引かれ段々と塁から遠ざかる睦、掌をバイバイと振っている。
(ムツミ兄ちゃん…、もう会う事は出来なくなるの?)
塁は父に聞かれない様に心で睦に話し掛ける。
手を引かれたまま睦は振り返り、その視線を塁に向けた。
(…ルイ)
やはり睦も言葉にはしないで心で弟の名を呼んだ。
手を引かれた睦は、どんどん闇の中に連れ去られていく。
(お兄ちゃん)
やがて兄と父の姿は完全に闇の中、後には夜だけが残されていた。
涙を流しながら塁は振り返る、そこには母が立っていた。
(ママ…)
母親は無言のまま、やはり闇に呑み込まれていった。
塁は交差点の真ん中に独りぼっちで残された。
信号の色が青から赤に変わる、それと同時に何かが近付いてきた。
ゆらり、ゆらり
確かに何かの気配がする、それは警察官の塁にも感じられた。
子供の塁は後退った、そして大人の塁は気配の方へ視線を向ける。
突然、闇の中から黒い服の女性が現れた。
弥生は朝食を食べながら、これからどうすべきかを考えていた。
もうニュースは事件についての新しい情報は話してくれない。
ナツハの症状や入院先は教えて貰えないし、まだ話せないかもしれない。
五月は今日は休みだろう、そうじゃなくても話してくれるかどうか。
取り敢えずはナツハの事が最優先で知りたかった。
(そっか…交番で聞いてみようか)
弥生はクラスメイトとして事件の詳細を聞いてみようと考えた。
登校前なら、そんなに仕事の邪魔はしなくて済む筈だ。
(駅前の交番なら、きっとパパの耳には入らないだろう。
それに私が刑事の娘とは知られていない筈だし)
そう思い付いて、あっと言う間に朝食を終わらせて家を出た。
父は仕事の電話を受けてから、ずっと表情が硬いままである。
家庭で、こんな表情を見せるのは珍しい。
完全に父親から刑事への顔に変わってしまっていた。
(もしかしたら犯人が捕まったのかな?
それとも、あの手紙が見付かって私の名前が知られたとか…)
父が出掛けようとして、ふいに弥生の方を見て言った。
「まだ事件は片付いていない、あんまり遅くなるんじゃないぞ」
一瞬だけ、その表情は親の心配顔に戻っていた。
塁は、まるで嵐の様に身体を揺さぶられて目が覚めた。
段々ハッキリしてきた視界の中、同僚の松風の顔が浮かんできた。
「おい梅見、大丈夫かよ!」
「えっ…」
「お前、物凄くうなされてたぞ」
「うなされてた…」
塁は夜勤の仮眠中、夢にうなされていたのである。
家族と離れ離れになった自分、追い掛けてくる黒い服の女性。
大人になった今でも恐ろしいと思える悪夢だった。
だが今は勤務中、塁は洗顔をしようと身体を起こした。
鏡の中の自分と目が合う、そして互いに逸らした。
(母さんの夢、久し振りに見たな。
そして、あの黒い服の女性…)
塁の母親は、もう塁の傍にはいなかった。
祖父の家に預けられてから本格的に警官を目指したのである。
父と兄とも別れてからは一度も再会していない。
兄とは心で話す事が出来ていた、それは二人にしか分からない。
祖父の元にいってから塁は心を閉ざしがちになっていった。
それでも兄とだけは繋がっていられたのである。
夜勤明けの明日は一日休日になる、ふと兄を尋ねようかという気になった。
祖父の家宛てに兄から一度だけ手紙が届いた事がある、たった一度だけ。
差出人は兄で、そこには現在の住所も記載されていた。
(例え会えなくても構わないから、ちょっと行ってみるのも良いかな)
弥生は駅に着いて時計を見る、いつもよりかなり早い。
(これでナツハちゃんの事を尋ねても学校に間に合う)
弥生は駅前の交番を覗いて見た、そこには塁が座っていた。
忙しくはなさそうなのを確認、意を決して中へ入って行った。
ふいに感じられた人の気配に塁は、また境が戻ったのかと思い顔を上げる。
だが、そこに立っていたのは通学中の女子高生だった。
「あの、ちょっと教えて欲しい事が在るんですけど…」
「はい、…えっ!」
(この子は、いつかの電車の女の子じゃないか!)
塁の方が先に弥生に気付いた、だが弥生は気付いていない。
キョトンとしている弥生に塁は制帽を取ってから話し掛けた。
「いつだったか電車内で自分の方を見ていたと思うんですが…」
制帽を脱いだ塁の表情を見て、ようやく弥生も気付いた。
「あっ、あの時の…
おっ、おまわりさんだったんですか!」
「えっ、あの時の事で自分に尋ねてきた訳じゃないんですか?」
「違います、あの…クラスメイトの事件の事で」
「事件って昨日の?」
「はい」
弥生はクラスメイトの入院先を知りたい、だが情報が無いと説明した。
もちろん塁は捜査中の事に関しては、やはり守秘義務が在ると優しく説いた。
事件はニュースで報道されている通り、まだ犯人は捕まっていない。
それ以上の事は、まだ捜査中だという事も付け加えた。
「でも、でもナツハちゃんは大丈夫なんですよね?」
「ナツハ?」
「橘さんです、いつもはナツハちゃんって呼んでるんです」
「あぁ娘さんね、もちろん大丈夫ですよ」
(そう言えば部屋のドアに『なつは』ってプレートが下がってたな…)
塁は、ふと部屋の中の陰惨な状景を思い出してしまった。
血まみれで死んでるみたいに見えた子と、この女子高生はクラスメイトなのだ。
「ありがとうございました、これから学校に向かいます」
「あっ、ちょっと待って。
あの電車の時、何で自分を見て驚いてたのか教えて欲しいんだけど」
「おまわりさんの隣に女の人がいて、その人が何か怖くって…」
(やっぱり自分だと思ったのは考え過ぎだったのか)
「改札の時も、ふっと隣に現れた様に見えたんです。
気のせいだと思ったんだけど、それも何だか不自然で…」
弥生は、その女性の廻る眼球の事は話さずにおいた。
余りにも現実離れしていて警官に話す事ではないと思ったからである。
交番を出て学校へと向かう弥生、彼女の後姿に塁は思った。
(ナツハ…なつは、どうして聞き覚えが在るんだろう?)
また少し何かに距離を詰められている錯覚がした。
境は車を走らせていた、その助手席には田無が座っている。
二人は塁のいる飛鳥駅前派出所に向かっている途中であった。
「報告書は全部、目を通しましたか?」
「ああ」
橘病院院長殺人事件は捜査本部が設立されて署内でも話題になっていた。
その担当が境と田無である、それは被害者の特殊性にも依っていた。
殺害されたのが橘麦秋、橘病院院長。
死因は背中から胸への貫通による出血多量、凶器は刃物。
橘邸キッチンに置かれていた小型の包丁、指紋は未検出。
顔にも引っ掻き傷が多数、皮膚が少し抉られていた。
もう一人の被害者が橘夏初、飛鳥女子高校一年。
首に絞められた跡、頬に張られた痣。
極度の緊張及び衝撃からの失神、命に別条無し。
現在は精神混濁により絶対安静、面会謝絶。
家政婦は、その日の夕食を作り帰宅。
いつもなら祖母が身の周りの世話をしていたが代理であった。
祖母は私用で故郷に旅行中、訃報を聞いて帰宅途中である。
ショックを受けていたものの現在は安定。
証言からは特別な手掛かりは掴めなかった。
ここ迄が前日の報道された事件の概要である。
院長は自宅で娘を助けようとして刺殺、犯人は逃亡中。
特別捜査本部により捜査網が敷かれていた。
そして今朝、鑑識から鑑定結果が報告されたのである。
その内容が捜査本部に衝撃を与え、その捜査方針を一変させた。
事件そのものの持つ本質を根底から覆してしまったのである。
田無は昼食のハンバーガーを頬張りながら報告書を捲った。
境は食欲が失せ、ただ珈琲に口だけ付けている。
「橘夏初の爪の間から検出されたのは麦秋の皮膚でした。
麦秋の顔の傷とも一致していますね」
「…」
「つまり娘を襲っていたのは父親の方、刺殺した犯人ではないと」
「…そうなるな」
「娘を襲っている父親を第三者が刺殺して助けたなんて…」
「考えられんわ、な」
二人は無言になった、また田無はハンバーガーを齧る。
その唇と口許が少し赤味を帯びた、それを見て境は殺害現場を思い出した。
(こいつタフだな、よく赤いものなんて喰えるよ…)
そして真っ青な顔の警官を思い出していた、その塁と比べていたのである。
田無は、その境の視線に気付いて言った。
「この激辛バーガー、スパイスが効いてて美味しいですよ」
(境さん、やっぱり自分の娘の同級生だからね)
田無は報告書を閉じて、それから話を続けた。
「父親が娘を襲った動機は、まあ想像できる範囲内の事でしょう。
問題は、まるで犯人の予想が付かない事だと思うんですが」
「どうやって家に入れたのか、どうして家に入ったのか。
この二つが全く想像出来ん、これは厄介で長引きそうだぞ」
「娘が話せる様になれば、あっさり解決しそうですが。
全ての目撃者ですからね」
「目撃してるにも関わらず、おそらく犯人から危害は加えられていないしな」
「報道管制も敷かれたし、これからの捜査も手こずりそうですね」
「まあ色々とあってマスコミには嗅ぎつけられたくないのさ」
「色々と、ですか?」
「大人達の事情ってヤツさ、これからもっと厄介になってくよ」
「辛いですね」
橘夏初の爪から院長の皮膚が検出された事はマスコミには伏せられた。
事件の特殊性と、まだ未成年である夏初への配慮も大きかった。
だが、それ以上に色々な要素が絡み合っていきそうな気配に溢れていた。
こうして橘院長殺害事件には表の部分と裏の部分が出来てしまったのである。
その二つが同時進行で、どんどん混迷していってしまうのであった。
境と田無は飛鳥駅前派出所に到着、車を駐車して交番へと入る。
そこには塁の同僚の雪待巡査が勤務していた。
「本庁の境だが梅見はいるか?」
司法解剖を終えた麦秋の遺体が、ようやく橘家に還ってきた。
ただし弟の健午の自宅にである。
事件現場である麦秋邸は立ち入り禁止となっていた。
今晩は通夜になる、その事件性から告別式は行われない事となった。
喪主は弟の橘健午、後には橘病院の院長になる人物である。
麦秋の娘の夏初は未だ絶対安静の処置で入院中、通夜には参列出来ない。
葬儀も身内だけで行われる為に、ひっそりとした規模になってしまった。
ただ、それでもマスコミは健午邸に張り付いていたのである。
静まり返った健午邸の門前に一台の車が停まった、それはベンツのタクシー。
降りて来た運転手が後部座席に向かい客に手を貸していた。
突撃リポートで有名なタレントのコッコが話を聞こうと近付いていく。
彼女はエイプリルフールズというコンビを組んでいる芸人でもあった。
車からユックリ降りて来たのは初老の女性、喪服を纏っていた。
「すいません、お話を伺いたいんですが…」
マイクを差し出された女性は振り返り、そしてコッコを見つめた。
無表情だが、その威圧感は周囲を圧倒して距離を詰めさせない。
そして暫くの間、何も話さないままで健午邸に消えていった。
カメラマンがフラッシュを炊く中でコッコは呆然と立ったままである。
「あの人って、もしかして鳴神菖蒲じゃないの?」
彼女は微かに震えていて、それはやがて全身に拡がっていった。
夜勤明けの塁は帰宅せずに、そのまま境達の車に乗った。
車内で境から鑑識の報告を聞かされ、ほんの微かに震えていた。
今は田無が車を運転、後部座席で塁と境が話す形になっている。
境は車内が一番の密室だと思っていた。
「じゃあ、あの子は自分の父親に殺されそうになっていたって言うんですか…」
「おそらく殺害目的じゃないだろう、より最悪な事だけどな」
「実の父親が我が子を、なんて…」
ミラーで後部座席を見ながら田無が口を挟んできた。
「おそらく犯人も、そう思ったんでしょうね。
だから麦秋は殺害された。」
「犯人は、どうして現場にいたんですか?」
「そこなんだよ分からんのは、まるで犯人像が浮かんでこんのだぁ」
「娘は何て言ってるんです?」
「まだ話が出来る状態じゃない、もう少し時間が掛かるらしいんだ」
塁の震えは全身に拡がっていた、それは何故だか自覚出来ない。
それを見て境は、こいつは警官には向いてないと思っていた。
(こいつに手伝わせるのは無理かも知れんな…)
「そこで梅見君、情報を集めるのを手伝って貰いたいんだがなぁ」
「近辺をパトロールするついで、で良いんです」
「情報…、何の情報ですか?」
「橘麦秋に関する情報だ、それは噂程度の事でも構わん」
コッコのリポートを密着しようとカメラクルーが撮影していた。
そのメインカメラマンが立ち尽くしているコッコに言った。
「何で、もっと突っ込んでいかなかったんですか?」
コッコは青ざめた表情をカメラクルーに向けて言った。
「あの人、鳴神菖蒲じゃなかった?」
「誰ですかそれ?」
「月鳴神会の鳴神アヤメだわ、きっと」
「ゲツメイシンカイ?ナルカミアヤメ?
月鳴神会って、あの新興宗教のですか?」
「新興宗教じゃないわよ、もっと勉強しときなさい」
月鳴神会は不思議な宗教団体であった、その実態が不明なのである。
先ず勧誘をしていない、だから信者は信仰を公表する必要が無い。
宗教団体としての正確な規模や信者数が、よく分かっていないのである。
あらゆる政党や企業に信者は存在しているらしい、これは噂の段階。
立候補した信者は選挙に当選する確率が高い、だが精査なデータは不明。
一時は都市伝説的な扱いもされていたのである。
「じゃあ鳴神アヤメは、その月鳴神会の幹部って事ですか?」
「アヤメ自体が月鳴神会なのよ」
「圧倒されて喋る事が出来なかったんですか?」
「違うわよ、あの目を見なかった?」
「あの目?」
「廻っていたじゃない!」
五月は少しづつ憂鬱な気持ちに支配され始めていた。
父である橘健午の兄の麦秋が殺害され、その通夜を自宅でする事になった。
その麦秋の遺体が自宅に運び込まれてきたのも、その要因の一つ。
五月は麦秋に好意を持ってはいなかった。
それは五月が幼い頃から隠し持っている能力と深く関わってくる。
幼い頃から五月は他の人の思考が予想出来たのだった。
それは予想というよりは、まるで心を読んでいるかの様であった。
幼稚園では先生に指名される前に質問に答えてしまう。
どうして答えたのか尋ねる先生に、まるで当然かの様に彼女は答えた。
「だって先生、五月を当てるつもりだったじゃない?」
言われた先生は愕然とした、それは五月の言う通りだったからである。
どうして分かったのか尋ねる先生に続けて五月は答えた。
「だって五月、先生の思ってる事が分かるんだもん」
先生は、ほんの少し恐怖を感じながら五月に質問してみた。
「じゃあ五月ちゃん、もう一度先生の思ってる事を…」
「五月のママと話したいんでしょ?」
その瞬間、先生の顔色が変わったのだった。
五月はクローゼットルームに入り、その膨大な服の中から喪服を探していた。
身内のみの通夜とはいえ、やはり身なりはきちんとしたい。
黒い服を身に着けて姿見で着こなしを確認していて、ふと思い出した。
(そう言えば、あの日の夜に黒い服の女の人を見掛けたっけ…)
その女性は不似合いな大きいバッグを持って、ふらふら歩いていた。
街灯の明かりから明かりの下を、まるで泳ぐみたいに歩いていた。
明かりの下を通る時は、その黒い服が影の様に見えた。
そして、いつしか夜の闇の中に溶けていってしまったのである。
それは事件の在った日の犯行予想時刻の直ぐ後の事。
ピポン
黒い服の女性を思い出した瞬間、玄関のインターホンが鳴らされた。
五月は階段を降りてモニターを覗いて驚いた、そこには黒い服の女性がいたのだ。
「鳴神です」
モニターの女性は凛とした声をドアの向こうから放ってきた。
彼女の後ろにはキャリーケースを引いた運転手らしき初老の男性の姿も。
五月はロックを外してドアを開けながら小さく微笑んだ。
「会長」
五月の姿を見た鳴神アヤメは、その場で直立不動の姿勢になり深いお辞儀をした。
運転手の方は、より深いお辞儀を五月に対してしたのである。
「月詠み様、麦秋の事は誠に御愁傷様でした」
「会長、少し局面が変わってしまいましたね。
先ずは実行者を探し出さないとなりません。」
テレビ中継が終わってから、その映像をコッコ達は確認していた。
何度見返してもコッコが主張するシーンは見当たらなかった。
「確かに目玉が動いたんだってば!ぐるぐるってね」
「女性は確かに鳴神アヤメらしいのは確認出来た、でもね…」
「うん分かってる、でも本当に見えたんだよ…」
ディレクターとカメラマンにコッコは軽く頭を下げた。
モニターの中のアヤメは無表情のまま動いていない。
それはスローで確認しても同じ事だった。
その会話に音声スタッフが割って入ってきて言った。
「ただコッコさんと向き合ってる時に、ほんの少し声が聞こえたんですが…」
「声、言葉か?」
「アタシ何も聞こえなかったけどな…」
「後で確認してみます、ほんの微かだったんで」
「まぁ取り敢えず撤収だな」
コッコとテレビクルー達は橘健午邸から中継車で離れていった。
午後のワイドショーに向けて鳴神アヤメについて調べなければならない。
もしかしたら犯人の動機と関りが在るかも知れない、そうスタッフは考えていた。
鳴神アヤメと月鳴神会、新興宗教と殺人事件の被害者。
いかにも視聴者の興味を引きそうな材料が揃ってきた。
だがコッコは、それ以上に自分の興味が搔き立てられている事に気付いた。
予感。
夜勤明けで境と田無に付き合った塁は、もう睡眠の底無し沼に沈んでいた。
その中で、まるで現場に立ち会っていたと錯覚する夢を見ていた。
それはリアルな悪夢である。
ナツハが麦秋に頬を張られてベッドに倒れ込んだ、そこに覆い被さる麦秋。
必死に抵抗するナツハの爪が麦秋の顔に傷を造る、そこから血が滲んだ。
ナツハの喉に指を喰い込ませる麦秋、突然その動きが止まる。
麦秋の両腕から力が抜けて、その唇から血が一筋流れ出す。
胸から突然突き出てくる刃物、血が噴き出てナツハを染めていく。
その光景を見て意識を失ったナツハ。
よろよろとドアに向かって逃げようとする麦秋、部屋の途中で倒れる。
部屋中が麦秋の血で真っ赤に染まる、その一部始終を見ている塁。
犯人は黒くてよく見えないし、まるで影の様で分からない。
地獄絵図。
うなされて目覚めた塁は、その疲労感に自分で驚いた。
そして鼻の奥に残る微かな匂いの記憶に気付く、それは血の匂いだった。
まだ真夜中だが塁は珈琲を淹れる事にしてキッチンへ。
ただ、この匂いを忘れさせる香りが欲しかったのだ。
ジャワロブスタは塁の期待に応えてくれた。
橘麦秋の通夜は滞りなく、ただ時間を刻一刻と刻んでいった。
身内のみの通夜なので殆ど弔問客は訪れてこない。
麦秋の家族に関して言うと生者が皆無なので、それは無理もなかった。
「会長、誰が今回の事を起こしたのか見当は付いているの?」
五月が鳴神アヤメに問い掛けていた、その姿はまるで社長と秘書である。
アヤメは五月の方を見て申し訳なさそうな表情を見せた。
「月詠み様、申し訳ありません。
お分かりでしょうが、これはイレギュラーなアクシデントなのです」
「では犯人の心当たりも?」
「ありません」
「ではナツハが回復するのを待つしかないですね」
「警察の方にも何本か矢は飛ばせてありますので、ご安心下さい」
「じゃあ情報操作は抜かりが無いのですね」
「大丈夫です」
鳴神アヤメは五月に一礼してから部屋を出ていった。
父の健午は麦秋の棺の傍で付きっきりである。
母の紅葉は、もう眠りに付いている。
慣れない通夜と、この特殊な状況に疲れきっているのは傍目にも分かった。
母の紅葉には五月の能力の全ては理解出来ていなかった。
五月の能力は隔世遺伝、鳴神一族の者だけが知る事柄だったのである。
それは代々、「月詠み」と呼ばれるものであった。
音声スタッフが録音データを確認していた、もう日付は変わっている。
編集された映像の音声バランスを合わせる為の編集作業だった。
リポーターのコッコが鳴神アヤメに向かっていった箇所になった。
「すいません、お話を伺いたいんですが…」
コッコは強めの口調で鳴神アヤメにマイクを向ける。
アヤメがコッコの方を振り返り、じっと見つめる。
二人は無言で、ほんの数秒間だが対峙していた。
(ここら辺だったよな…)
音声スタッフは録音されているデータのボリュームを上げた。
「…つき…さら…よい…なつ…つき…」
ほんの微かに声が聞こえている、それはアヤメからだった。
映像のアヤメの口は殆ど動いてない、だが微かに言葉を発していたのだ。
(ほら…、やっぱりオレの耳は確かだったな)
そう思ったスタッフの耳に、まだヘッドフォンから言葉が流れていた。
彼は、その続きを注意深く聞き続けた。
「…きい…たな…おま…え…」
(えっ?)
「…おま…えだ…よ…」
音声スタッフは驚いて、そのヘッドフォンを頭から外した。
編集ルームは静まり返っている、まだ朝には程遠い時刻であった。
(何だ今のは…、どういう事なんだ?)
彼はテープを止めた、だが早まった動悸は止まらない。
橘健午は兄の通夜で疲れ切っていた、もう寝ないでかなりの時間が経った。
兄を失った彼は、やや途方に暮れていた。
病院の経営方針については、おおよその事は把握出来ていた。
これからも滞りなく運営していける自信も持っていた。
兄の家は祖母の鳴神アヤメに任せてしまえば良いだけの話だ。
これは世間に向けた表向きの心配事であった。
健午は、もっと別な理由で疲弊してしまっていたのである。
兄弟二人は次々に看護師の愛人を作っていった。
最初は兄のアドバイスに従っていただけであった。
だがやがて健午の方も、のめり込んでいったのである。
幼い頃から父の病院を継ぐ事だけを望まれ、それに時間を費やしてきた。
全てを犠牲にさせられてきた兄弟にとって、それは初めての遊びだったのである。
遊戯、悪戯。
二人揃って夢中になった、それは誰にも止められなかった。
二人は同時に結婚した、それは不思議なタイミングだった。
二人の嫁も、また姉妹同士で子供が出来たのも同時であった。
それが夏初と五月、二人は娘を非常に可愛がった。
娘が成長するに連れて、お互いに同じ感情が芽生え始める。
互いの妻を交換してみたい。
娘さえ一緒にいてくれたら、もう妻と別れても構わない。
二人は同じ感情を持ち、その事に互いに気付いていた。
二人は妻達に罠を仕掛けて、まんまと病院を辞めさせた。
そして家庭に入れて娘の世話を名目に軟禁状態にした。
そして徐々に自分達の欲望に従わせようとしたのである。
その事に反発してナツハの母親は自ら命を絶った。
祖母の鳴神アヤメに娘を託す事を遺言に残して。
それが去年の四月半ば、やがて喪が明ける予定だった。
二人は、また同じ事を同時に考え始めていたのである。
もう妻の交換は出来なくなった、もう遊べないのだろうか?
我々には、まだ娘がいる。
最愛の可愛い娘が、お互いに。
いつか誰かに取られる位なら、いっそ我々で遊びたいじゃないか。
二人の娘への愛情は、もう既に常軌を逸していた。
ゴールデンウィークに一緒に旅行に行こう、そこで遊ぼう。
とても娘たちは可愛い、お互いに美しい。
祖母は故郷に戻らなければならない用が出来た。
絶好の機会ではないか、と二人は喜んでいた。
(それが今じゃオレ一人だ、こんな事って…)
健午は兄の棺の傍でウイスキーを飲んでいた。
その姿を五月とアヤメが見つめていた、そして二人の視線が重なる。
二人の、その表情はゴミ出しをする主婦と似たものだった。
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