第2話 チマツリ
その少女は窓を開けて夜空を眺めていた、まだ四月なのに少し暑い。
正確には闇の中に浮かぶ月だけを眺めていたのである。
都会では確かに星々は見えにくい、だが月だけは別格であった。
ここ数日とは月の色が、ほんの少しだけ変わって見えている。
(いつもより、やや赤い気がするな…)
少女は自室の窓辺に椅子を置いて、そこから月を見るのが好きだった。
それは、まるで日中に外の景色を楽しんでる風に見えた。
コンコン
ノックと同時に部屋のドアが開けられ、その隙間から男が顔を出す。
少女は男の方を見向きもせずに、そのまま夜空を眺めていた。
「五月、連休は院長達と旅行に行く事が決まったから準備をしておきなさい」
「はぁい」
男は橘病院院長の弟であり副院長の橘健午、少女は娘の五月。
五月はナツハと同級生であり親戚関係にあたる。
その二家族で一緒に旅行だなんて、まるで幸福な一族に見える。
だがしかし、その実態は人間のが業が絡み合っていた。
(旅行だなんて、いよいよママを差し出すつもりか…)
眼鏡を外して机の上においた、そして再び窓の外に顔を向ける。
五月と呼ばれた少女は目を細めた、まるで遥か遠くを見ている様に。
光の加減か、そこから見える月は赤く見えるのが不思議だった。
(パパ、ジゴウジトクを省略するとジゴクになるんだよ)
少女は瞳を見開いてから閉じた、そのままベッドに横になる。
そのまま、いつもの朝を迎える…筈だったのだが。
ぐるり、ぐるり
(ひっ!)
確かに、その女性の眼球は回転しながら弥生を見つめていた。
自分で夢だと分かっているのに、よく眠れない。
あれは明らかに、この世の者とは思えなかった。
何かのキッカケで急に世界が反転し始めたみたいな感覚が残っている。
ただそのキッカケが何だったのか、それが朧気で思い出せないのだ。
(私は今、夢をみているんだ)
夢の中で弥生は、その事を確かに意識している。
だが、その女性への恐怖をコントロールする事が出来ない。
その黒い服の女性は、まるで意に介さず夢の中に現れるのだった。
ぐるり、ぐるり
起きてしまう度に体中に汗を搔いているのが分かった。
しかも、その汗で身体は死んでいる様に冷たくなっている。
現実が壊され始めている、その感覚が実感として残る。
まるで魅入られてしまったみたいに、まるで呪われたみたいに。
そう、それは呪いという言葉が相応しい様に思われた。
(まるでナツハちゃんも呪われているみたいだった…)
弥生の父親の職業は刑事である、その評判はすこぶる良いものであった。
それでナツハの母は弥生を手紙の差出人に指名したのだ。
その事を弥生は痛い程に理解している、だが父には何も話していない。
話せなかったのだ。
警察は事件が起きてからじゃないと動かない、その事を知っていた。
だから何も起きない事を祈るしかなかったのである。
深い眠りに沈み込んでいた五月だったが、ふと目が覚めてしまった。
そして、それからは何かが気になって寝付けない。
部屋の電気を点けずに窓辺に置かれた椅子に座った。
カーテンを少し開けて、また月を見ようと思ったのである。
月は、いつもの色合いに戻っていて明るさだけが増していた。
それによって街灯の影が色濃く見える。
(明るさが増せば増すほど、その影は暗くなるんだよ…)
そんな事を思っていた五月、何かの気配を感じ取った。
街灯の影の間から間、明るさの下を何かの影が移動していた。
ゆらり、ゆらり
それは影ではなく黒い服を着た女性であった。
歩くというよりは移動している、そんな言葉がピッタリである。
その女性は街灯の明かりの下を通り過ぎていった。
そして、そのまま暗闇に溶けていったのである。
(こんな真夜中に女性が独りで…?)
その女性は似合わない大きなバッグを手に持っていた。
そんな事が気になって五月は、より寝付けなくなってしまった。
夜と朝の境い目が一番暗い、そんな言葉が頭をよぎる。
色々な思いが浮かんでは消えていった。
(パパは旅行でママを生贄にして何を得るつもりなんだろう?
もうナツハにはママはいないのに…)
五月は悪寒が身体に這い登ってくるのを感じた。
(…まさか!)
五月は父と院長の企みを見抜いていた。
彼女には幼い頃から不思議な出来事が多発していたのである。
宗教家の祖母の血を濃く受け継いでいるとも言われていた。
それは人の心の動きを読めてしまう、というものであった。
祖母の宗派では、それを「月詠み」と呼んでいた。
五月は幼い頃から信者からはツクヨミ様と呼ばれていたのである。
幼稚園に通い集団行動をする様になったら、その能力は隠された。
だから、それを知る者はごく僅かな者だけになったのである。
(本当に人間って、どうしようもないわね)
部屋の中に、ほんの微かに何かの匂いがしている。
塁は目覚めた途端、鼻孔の奥に残っている匂いに気が付いた。
そして、それが何の匂いなのかを必死に思い出そうと頭を振った。
(血…、血の匂い?)
慌てて起き上がって鏡を見てみる、だが出血している所は見当たらない。
鼻をかんでみたけれど、やはり出血してはいなかった。
両手の掌を開いて見てみる、ほんの少し汗ばんでいただけだった。
何も変わった所が無いので、そのまま洗面所で顔と手を洗う。
その後で部屋を見回してみたが、おかしな部分は全く感じられなかった。
(今日は当番か…)
本日は夜勤なので夜を徹して警察官をしなければならないのだ。
午後三時半の出勤である、それまでに気分も体調も戻しておかなくてはならない。
塁はケトルのスイッチを入れた、それはカップ麺と珈琲の為である。
カップ麺に湯を注いで蓋をした、そしてハンドドリップで珈琲を淹れる。
その間に塁は、昨日の車両に座った時の事を思い出していた。
それは乗り合わせた弥生の反応である。
(あの飛鳥女子の子は確かに僕を見て声を上げていた気がする。
それと、あの改札で突然見えた黒い服の女性…)
塁は心霊現象とかオカルト的な事に関心は持っていなかった。
だから怖いとかいう気持ちよりも、ただ不思議なだけであった。
自分が警察官であるだけに、よりリアリストな部分を持ち合わせていたのだ。
(でもここ最近、何かが変わったか違ってしまった様な…
何がキッカケだったんだろう?)
塁も現実が溶け始めているみたいな感覚を覚え始めていた。
恐さではなく、ただ不思議というか不自然なだけであった。
何かがズレている、そしてそのズレがドンドン大きくなってきているのだ。
塁は以前にも、こんな気分に浸らされた事が在るのを思い出していた。
だが、それは何だったのかが思い出せない。
何かが同時進行に行われているみたいな感覚。
離れ離れになってしまった兄、睦と心で話している様な感覚。
だけど、それらとは違って決定的に禍々しい何かが感じられた。
珈琲は夜勤に備えて濃いめに淹れた、その匂いが気分を落ち着かせる。
ジャワロブスタの香りが、その部屋の残り香を消していった。
ようやく空が明るくなり始めた頃に、もう弥生は目が覚めてしまっていた。
まだ起きるのには早いが、もう二度寝をする時間は残っていない。
昨日の出来事の全ても、さっきまで見ていた夢も思い出すのが辛いし怖い。
現実と夢の境界線が崩れ始め、それが自分でも分からなくなってきていた。
ナツハの相談事の深刻さ、それとナツハのママからの手紙の内容の衝撃度。
電車で乗り合わせてしまう男性と、その隣の女性の在り得ない不自然さ。
高校一年の女子には余りに過酷で手に負える訳もない。
(学校行く時に電車に乗るの怖いな…)
弥生の恐怖は黒い服の女性に集約されていった。
女性の顔と廻る目玉を思い出して、また気分が重くなり始める。
(あの女性は実在していたのだろうか?
だとすれば、あの廻る目玉も現実って事?
改札で突然現れたのも同じ人?
全部が全部、在り得ない!)
塁はゴミ袋を持ってエレベーターに乗った、まだ間に合う時間である。
一階のボタンを押す、するとドアが閉められていく。
エレベーターはユックリと降下し始めた。
塁の部屋が在る四階から三階を通り過ぎた時だった。
(あれ…フロアに誰かいた様な?)
確かに三階フロアに人がいて、このエレベーターを見ていた。
女性の影みたいに見えたが定かではなかった。
でも塁は何かに違和感を感じて、それが何かを考えていた。
(四階から降りたんだから乗らないなら上る人って事かな…
でも五階は最上階だし住んでないフロアに上がるのは変じゃないか)
警察官らしい思考回路で考えたが、どうにも上手く考えられない。
一階に着いて隣のエレベーターを見てみた。
それは止まったままで三階に呼ばれている様子はなかった。
ゴミを置いてから、またエレベーターで四階へと戻る。
その途中で三階で降りてみた、だが誰の気配も感じられなかった。
塁は諦めてエレベーターに乗り、そして四階のボタンを押した。
ドアが閉まって動き始めた、その瞬間である。
三階のフロアに黒い服の女性が立っていた。
駅のホームで弥生は、あの男性を探して辺りを見回していた。
あの男性の隣に黒い服の女性がいる。
彼女には何故か、あの二人がセットに思えて仕方が無かった。
(今日は見当たらないみたい…良かった)
電車に乗ってからも周囲を見回して安心した。
そのまま吊り革に身を任せる、まるで心の揺れとシンクロしている様だった。
高校一年生の弥生にとっては余りに重いナツハの相談事。
刑事である父親には何も言っていない。
それは何かがシックリしていない、それで理解しきれていない。
弥生の疑問点が解消されておらず、それで納得出来ていないのであった。
ナツハの母は何故、自らの命を絶つ選択をしてしまったのか?
最愛の娘と永遠に離れ、そんな父親の手許に残すだなんて在り得ない。
ナツハの母が何を望んでいたのかが、どうしても分からなかった。
(死んじゃったら、それで全てが終わっちゃうじゃない)
不思議な事に、その説明はナツハからも無かった。
彼女は、どこかで母の死を受け入れている気がしたのだ。
(ナツハのパパは、その後どうしたんだろう?)
その説明もナツハからは無い、それが一番不思議な点でもあった。
ただ祖母が母親の代わりになって世話をしてくれているとは聞いていた。
(もしかして、それがナツハのママの望んだ事…?)
四階に着いた塁は慌てて階段を駆け下りた、そして三階フロアへ。
だが、そこには誰の姿も無かった。
塁にも只事ではない事が起こりつつあるのが、ようやく理解出来た。
(確かに女性が立っていた、そしてコッチを見ていた。
これは一体、何がどうなってるっていうんだ)
確かに何かに周囲を囲まれつつあり、その距離を詰められている気がする。
だがそれは過程だけであり、その目的や結果は想像も付かない。
(あの黒い服を着た女性は何者なんだ、どうして自分に?)
塁は何かを忘れている様な気がしていた、それも以前からずっと。
既視感、思い出せないジレンマに心が支配され始めていた。
再び四階に上がって部屋に戻る、そろそろ昼食の時間になりそうだった。
(あの車内の少女と関係が在るのだろうか?
あの子の態度は、もしかしたら自分に向けたものじゃないのかも…)
塁は洗面台で自分の顔を見てみた、いつもと何ら変わらない。
弥生は、いつもより早い時間に学校に着いた。
まだナツハは登校してきていない。
(いつも早いのに、やっぱり疲れてるんだろうな)
窓際の席の弥生は、そこから校庭を見てナツハを待っていた。
登校してくる生徒は、どんどん増えてきている。
しかし、いつまで待ってもナツハの姿は見えなかった。
(あれ…ナツハちゃんは、もしかして休み?)
やがて始業のチャイムが鳴った。
ナツハの席は空いたまま、その存在感を弥生に訴えてくる。
彼女は典型的な優等生なので無断欠席など考えられなかった。
(ナツハちゃんは、どうしちゃったんだろう?)
弥生は隣のクラスの五月を思い浮かべていた。
橘五月はナツハの親戚なので何かを知っているかもしれない、と思ったのだ。
ようやく本署に着いた塁は着替えて、そのロッカーを閉める時に鏡を見た。
自分の顔が少しだけ、やつれている様に見えた。
(やっぱり少し疲れているみたいだなぁ、これから夜勤だっていうのに)
同僚との引継ぎの会話も、どことなく上の空で聞いていた。
意識の奥底の方でエレベーターの女性の存在が居座っている。
デスクに座り報告書を見ているが、その内容が頭に入らない。
(まぁ怖くはないな、いざとなったら拳銃だって在るんだし)
リリリリ、リリリリ
まるで黒電話の様な電子音が塁を現実に呼び戻した。
その音は今の彼だけでなく過去の塁に対しても呼び出したのだ。
「はい、こちら飛鳥駅前派出所」
「た…大変です、お願いです直ぐに来て下さい!」
女性の金切声が早口で受話器から溢れ出してきた。
それは絶叫に近く何か大変な事が起こったのは塁にも分かる。
少し不調だった気分も体調も、その瞬間に吹き飛んでしまった。
塁は本署に連絡を入れ救急車も要請してから自転車に飛び乗って走り出した。
その現場は交番から、それ程離れていない住宅街の中の邸宅であった。
三階建てで大きい、その裕福さが窺われる大邸宅である。
塁は玄関のチャイムを鳴らしてからドアを開ける、そこには女性が座っていた。
「電話の方ですよね、どうしました…大丈夫ですか?」
「…」
玄関に座り込んでいる女性は黙って階段を指差した。
塁は救急車を呼んで、その女性に待っている様に伝える。
その女性は、どうやら家政婦の様であった。
階段を登っていくにつれ、どんどん空気が湿っている様に感じた。
そして、どんどん濃厚になっていく匂い。
その匂いは、まだ記憶の中で新しいものであった。
階段を上った塁は各部屋のドアを開けながら奥へと進んで行った。
少しづつ進むにつれて、その匂いは濃厚になってきている。
彼は嫌な予感が体中を這いまわるのを感じずにはいられなかった。
(これはヤバいかもしれない…)
他と違って奥の部屋だけはドアの隙間から灯りが漏れていた。
そのドアには可愛らしい文字が部屋の持ち主を示していた。
『なつは』
(なつは…女の子の名前か)
塁はドアノブに手を掛けて、そっと静かにドアを開けていった。
部屋から光が薄暗い廊下に少しづつ漏れ出してくる。
少しづつ開かれた空間から見える部屋の様子は、どこか不自然だった。
真っ赤だったのである、それが漂っている匂いの主でもあった。
覗いたドアの正面の学習机がランダムに赤く染まっていた。
まるで塗料を巻き散らしたみたいに、その跡は部屋を支配していたのである。
(血…、血じゃないか!)
ゴッ
その時、開いたドアに何かがぶつかる感触がして驚く。
塁は学習机から足許に視線を移して、それが何かを見てみた。
(何かでドアを開かなくしているのか?)
それは倒れている人だった、やはり部屋と同じ様に赤く染まっていた。
そこには中年の男性が部屋着のままで動かなくなっていた。
その力無く伸ばされた両腕はドアの方に向けられている。
(人…!)
注意深くドアを開けて室内に入ると同時にベッドが見えた。
その白いベッドには、もう一人の少女が横たわっていた。
パジャマが真っ赤に染まっている、それは男性と同じ色をしていた。
全く微動だにしない少女が、まるで眠っているかの様に横たわっている。
(もう一人、少女が死んでいる!)
身体中から冷たい汗が噴き出してきていた、だが頭の中は熱くなっている。
塁は、もう一度視線を倒れている男に移した。
背中に深々と刃物が沈み込んでいて、まるでそれが墓標に見えた。
(襲われた少女を助けようとして、この人も刺されたのか…)
おそらくは父親と娘だろうと塁は思った。
娘を助けようとして自分も殺されてしまった父親、地獄絵図である。
警官とは言え初めて見る亡骸に頭は混乱していた。
ただただ猛烈に吐き気が込み上げてくる。
(許せない、こんな事をした奴を許せない!)
その時、遠くから救急車のサイレンが聴こえてきた。
ドップラー効果の様に、そのサイレンは重なって響いて近付いてくる。
それが塁にはワーグナーの「ワルキューレの騎行」に聴こえた。
刑事の境は苛立ちながら現場へと車を走らせていた。
この地域では初めてとも言っていいレベルの殺人事件。
現場となった家が娘の通う高校の最寄り駅。
更に被害者が娘のクラスメイトとなれば、それも当然だろう。
(親子を互いの目の前で殺すなんて、どんでもねぇな)
同乗しているのが配属されて二年目の田無刑事である。
彼は本署と境の連絡事項を、お互いに聞かせる役回りをしていた。
「救急車は、もう病院に到着したそうです」
「家政婦とは話せそうなのか?」
「家政婦の方には、まだ現場で話を聞かせて貰っているそうですが」
「はぁ?じゃ誰が救急車で運ばれたってんだ!」
「被害者の娘さんとの事ですが」
「えっ、まだ生きてるのか?」
「ええ…命に別条は無いとの事です」
(良かった…弥生のクラスメイトは無事だったのか)
境は急速に苛立ちが静まっていくのを感じていた。
初動連絡とは違う内容に別の苛立ちを覚え始めてはいたのだが。
「ただ精神的なショックで放心状態が続いているそうです」
「そりゃそうだろう…実の父親が目の前で殺されたとあっちゃよ」
「そうですよね、とんでもないショックでしょう」
二人を乗せた車は現場に到着、既に現場検証は始まっていた。
一人の警官が一礼して二人を現場へ通す、それは立派な邸宅だった。
家に入る前から既に、その周辺に漂う血の匂いが二人を出迎えた。
「こりゃ相当だなぁ」
「そうですね、ここ迄のは初めてです」
田無刑事の口調は、まるでベテランの様に聞こえた。
境は、その落ち着いた口調に頼もしさを覚えていた。
屋敷中で鑑識チームが動き回っていて、その間を縫う様に歩く。
二人は階段を上がり現場である二階の部屋に向かった。
「こりゃあ…」
「酷いですね」
開けられたドアから被害者の遺体が見えた。
背中には突き立てられた刃物、小さめの包丁に見える。
部屋中に飛び散った血、時間が経って色がドス黒く変わってきていた。
「で、もう一人のガイシャは軽傷なのか?」
「ええ、ほんの僅かに首に絞められた跡がみられましたが」
「そっかぁ」
「寧ろ父親を目の前で殺されて、そのショックの方が…」
「だよなぁ」
(このホトケは絞殺されそうな娘の身代わりになって助けたのか…)
「犯人は、どうして現場を離れたんですかね?」
「父親に抵抗されて殺してしまったからじゃないのか?」
「でも犯人は、まだ娘が生きている事は知っている訳でしょう?」
「そうだなぁ…」
「逃げ去った理由が今一つハッキリしていない気がするんですが?」
「娘を殺そうとした動機は何だったんだろうなぁ?」
まだ授業の途中なのに突然、教室に入ってきた校長から生徒達への話が始まった。
その慌てふためいた様子に弥生の動悸は早まる。
(何か、あったんだ!)
「橘の父親が事件に合って亡くなられたそうだ」
教室中から悲鳴が上がり、やがて嗚咽も聞こえ始める。
テレビドラマではない現実に、まだ女子高生では対応しきれない。
(ナツハちゃんのパパが!まさかナツハちゃんが?)
「橘も一緒に何か事件に巻き込まれたらしい、それで入院しているとの事だ」
再び悲鳴が上がり教室が、やや軽くパニックになっていった。
弥生はナツハが犯人ではないと分かって、ほんの少し安心していた。
(ナツハちゃんも入院って、じゃ誰が…?)
弥生はナツハからの相談事とのズレを理解出来なかった。
ナツハと父親の他に、この殺人事件の犯人が居る事が。
(でもナツハちゃんが無事なら私が警察に話す必要は無いよね…)
「それで、もし警察の方から何か聞かれたら率先して答える様に」
再び教室中がどよめいた。
それは自分達も登場人物の一人だという事を知らされたからである。
終業チャイムが鳴ったが、そのどよめきは暫く続いていた。
塁はパトカーの中で休んでいた。
初めての殺人事件の遺体と、その血の匂いに気分が悪くなってしまったのである。
ハンドタオルを水で冷やして顔に乗せて、そのままシートにもたれていた。
そこへ見慣れない二人の男性が、やってきてドアをノックした。
「本庁の田無です、こちらは境刑事」
「あっ駅前派出所の梅見です、こんな醜態で失礼しました」
「ホトケは初めてか?」
「はい…」
二人の刑事は苦笑いした、それは同情というよりは軽蔑を含んでいた。
「現場で何か気付いた事は在ったか?」
「はい…少女の首の絞められた跡ぐらいしか確認出来ませんでした」
「救急車は誰が?」
「自分です、ここからの家政婦の電話で要請しました。
親子が血まみれで倒れている、としか連絡が無くて。
でも自分は二人共、死んでいると思ってしまってしまった」
「まあ、あの状況じゃ仕方がありませんね」
塁が娘の状態を確認する寸前に救急車が到着したのである。
よって彼は二人共に殺されていると思ってしまった。
だが娘は失神していただけだった。
「ガイシャにも傷が在ったよ、それも引っ搔かれて出来た傷だ」
「引っ掻かれた傷…」
「背中を一撃で刺し通す犯人が、そんな事するかぁ?」
「それじゃ犯人は複数…」
「我々の結論では、そういう事になりますね」
五月は家路を急いでいた。
校長から担任へ連絡が在り直ぐに帰る様に言われたのだ。
しかし、まだ父からは何の連絡もきていない。
(自分の兄が事件で亡くなったのならショックなのは仕方が無いけど…
おそらく病院関係者への連絡を優先してるんだろうな)
五月には状況が複雑になってきているのが感じ取られた。
父の兄が何かの事件で亡くなった、しかも病院の院長である。
これからは父が病院を引き継ぐ事になるのだろう。
だが父は、その器ではないのが娘の自分にも分かっていた。
(ナツハのママに次いで二人目じゃ、これは厄介な事になりそうだわ)
五月は詳細が何も分かっていないので、とにかく情報が欲しかった。
おそらく明日は休みなので情報を集めて整理したかったのである。
(これで旅行の件は無くなった、それは助かったな)
五月は、ようやくナツハの事が頭に浮かんできた。
担任からは入院してるとだけ聞かされた、こちらも情報が少ない。
何より事件について何も教えて貰えなかった。
院長の死因は何なのか、どんな事件に巻き込まれたのか?
犯人がいるのなら、もう捕まっているのかさえ分かっていないのだ。
塁は、その二人の刑事に質問を返してみた。
「家政婦は祖母の代わりに夕食だけを作りにきたそうです。
つまり一晩中時間は在った訳ですよね?
娘が無事なら、どうして犯人は立ち去ったんですか?
父親を殺すのが目的だった訳ではなさそうですが」
「それは我々も疑問に思っているんだ、だから情報を集めている。」
「そのまま凶器を残していったのは…?」
「凶器は包丁でキッチンから持って来た物だ、つまり犯人は手ぶらだった。」
「手ぶら…」
「つまり最初から殺意が在った訳ではない、それと返り血だな。」
「刺した場所によっては凶器を抜くと、その返り血の量も変わってくるのです。」
「じゃあ犯人は衝動的ではなく計画的に…。」
「家宅侵入までは計画的、殺害は違うだろう」
「凶器の準備をしていませんからね」
塁は訳が分からなくなって、より頭痛が増してきていた。
そんな塁の様子を気にせず若い田無は話を続ける。
「ドアを開けた時に遺体の位置は動いてない、ですよね?」
「はい、ゆっくり開けてぶつかったので」
「ドア側に手を伸ばしている状態のまま、ですよね?」
「はい、まるで逃げる所を後ろから刺されているみたいに見えました」
「そうなんだ、それもオレ達の大きな疑問の一つなんだよ」
父親は背中の包丁が致命傷なのは間違いない、それは三人とも思っていた。
少女は首を絞められているが命に別状は無い、だとすれば犯人の目的は…?
塁も二人の刑事も黙りこくった。
帰宅した弥生はテレビのニュースを片っ端から見ていた。
ナツハの家の事件の情報を少しでも知りたかったからだ。
アナウンサーが悲しそうな表情と声で話し始めていた。
橘病院の院長が自宅で殺害され、その娘は命に別状は無いものの入院。
院長の死因は出血多量によるショック死、娘は軽傷も意識が混濁している。
第一発見者は家政婦、夕食を作りにきて現場に遭遇。
犯行時刻は推定で昨晩、家政婦が帰った後だと思われる。
犯人は逃亡中で、その素性や動機は一切不明。
凶器はキッチンに置かれていた包丁だと家政婦が証言。
警察が特別包囲網を敷くも現在まで手掛かり無し…こんな概要であった。
(ナツハちゃんは意識がハッキリしていないって、よっぽど怖かったんだ)
ニュースではナツハの母の手紙には触れられていなかった。
それが弥生の一番気になる事で、また不思議な事でもあった。
(日本の警察は甘くないって、いつもパパが言ってるのに)
その父親は必死で現場周辺の聞き込み捜査をしていた。
事件に関しては何の収穫も無い、だが家族に関する噂話は多く耳にしていた。
ナツハの母親に関する事も知る所となる。
弥生は、ふと考えた。
この事件の担当が父なら、きっと解決してくれるだろうと。
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