対 ~つい~
中邑優駿
第1話 キサラギ
ほんの微かに血の匂いがした。
頭の中の囁きが段々とハッキリとした話し声になっていく。
それを振り払うかのように上半身を起こしてみる。
目が覚めた塁はテレビが点けっ放しになっている事に気付いた。
画面の中の見知らぬタレントが表情を作り、そして話し始めていく。
(あれ、もうニュースは終わってしまったのか…)
画面には恐怖映像を紹介する番組が放送されていた。
テレビの前のテーブルには食べ終わったカップ麺がそのまま置かれている。
その残ったスープの匂いが部屋に漂っていた。
(これじゃない匂いがしていた様な気がするな…、ほんの微かだけど)
確かに塁は夢の中で何かの匂いに気付いた、そして眠りから覚めたのだ。
だが、それが何の匂いなのかは思い出せずにいた。
女性タレントの一人が大袈裟な表情で説明を始める。
モノクロの画面には、どこか外国の駅のホームが映っていた。
どうやら監視カメラの映像の様である。
そこに列車が到着したのだが、それは半透明だった。
「ここはモンゴルです、これこそ幽霊列車に間違いないでしょ」
そのタレントは少し声のトーンを上げて紹介していた。
確かに不思議な映像ではあったが、それほどインパクトは感じられない。
塁は、その番組への興味を失っていった。
(寝落ちしたのか…、さっきの匂いは何だったんだろう?
確かに何かの匂いで目が覚めた様な気がするんだけどな)
「日本にも幽霊列車は存在しています、それを紹介したいと思います。
きさらぎ駅って皆さん御存じでしょうか?」
タレントが、きさらぎ駅の説明を始めた。
塁は、その駅名に聞き覚えが在ったので聞き入った。
「…という都市伝説です、しかし未だに風化していません。
異界駅は、あなたの傍に存在していて訪れるのを待っているのです」
興味を失った塁は、そのカップ麺の残りを持って立ち上がる。
キッチンシンクへ残ったスープを流した。
スープは香りを放ちながら、ゆっくり排水溝へ流れて行く。
彼は、その様子を眺めながら軽い既視感を覚えていた。
(この匂いじゃないよな…、この匂いじゃない)
塁は再びソファーベッドに横になる、そしてテレビを眺めていた。
もう先程の番組は終了していたが、その事にも興味が無かった。
塁は派出所に配属されたばかりの新人の警察官である。
明日は朝八時半の出勤、交番まで二駅とはいえ寝ておいて損は無い時間だった。
だが、ほんの少しの時間でも寝てしまったので睡魔が潜んでしまっていた。
そして頭の中では先程の番組の断片がちらついていた。
(きさらぎ駅、以前に聞いた事が在る様な気がするけど何だっけ…?)
塁は横になったままスマホで検索し始めてみた。
きさらぎ駅、都市伝説として沢山ヒットしたのである。
とあるサイトへ投稿された実在しない駅にまつわるエピソードが多数出て来た。
異界駅と呼ばれていて、そのジャンルでは一番人気である。
投稿者は生存しているらしく、どうやら危険度は低そうな伝説でもあった。
だが塁の記憶では、もっと別の区分で覚えていた様な気がしていた。
…きさらぎ駅。
(どうして寝落ちしたんだろう、そんなに疲れている訳でもないよな…)
派出所勤務は平和そのものであった、そんなに治安が悪い地域でもない。
天気が荒れている日の見回り以外は、それほど大変な事も無かった。
高齢者の割合が多い地域でもありトラブルも殆ど知らない。
だから最近の疲労の蓄積には思い当たる節が無かった。
塁は再び眠りに落ちようとしていた、ほんの少しだけ意識を残しながら。
夢の中に漂っていた匂い、それが何だったのか思い出せない。
シンクに流れ落ちたカップ麺のスープに感じた既視感も。
想い出そうとすればする程、頭が重くなっていった。
そのまま、また眠りに落ちていったのである。
その画面には駅のホームに入ってくる透けた列車が映し出されていた。
見慣れたタレントが大きな声で喋っている。
「これこそ幽霊列車に間違いないでしょ」
弥生は、その非日常的な映像に震えあがっていた。
まだ女子校の一年生になったばかりでは、それも無理もない。
オカルト的な事には興味津々でも、だからといって得意な訳ではなかった。
そして番組は日本の異界駅にと移っていった…、きさらぎ駅。
弥生は、その話題には何の予備知識も持ち合わせていなかった。
集中して聞いていたら、また少し身体に震えがきた。
その時、伝染したかの様に彼女のスマホが微かに震えたのである。
「ええ~面白い所なのにな」
弥生はスマホを持って、その報せの内容を確認し始める。
ラインではなく敢えてメールなのが少し不思議な気がした。
それはクラスメイトの橘ナツハからのメールであった。
夏初と書くのだが、なかなか読めなかった弥生はナツハで登録していた。
そして、そのメールは先程の番組よりも遥かに不穏な内容であった。
『弥生ちゃん明日の放課後に家に来て欲しいんだけど
私、狙われているみたいなんだ』
明らかに女子高生のメールとしては余りにも不穏な書き出しである。
驚いた弥生は、もうテレビどころではなくなっていた。
(狙われてるって、どうゆう事?)
『相談に乗って欲しいの、どうしたら良いのか分からなくってさ
もうすぐ連休でしょ、だから何とかしなくちゃって』
(連休ってゴールデンウィークに何があるの?)
何一つ全く分からないまま、そのメールを読み返す。
弥生はナツハに家に行って相談に乗る、と返信した。
しばらく放心状態だった弥生、聞こえてきた言葉に我に返った。
「…異界駅は、あなたの傍に存在していて訪れるのを待っているのです」
「イカイ駅?」
弥生は呟きながら、「きさらぎ駅」を検索し始めた。
『明日の放課後、相談に乗るからねっ』
ナツハは、その弥生からの返信を読んでホッとした。
新しい高校、新学期も既に半ばだが全く学校に馴染めなかった。
四月、去年ママが死んでしまった四月。
泣き続けた事しか覚えていないゴールデンウィーク。
また、その連休になってしまう。
また…。
「何から相談しようか…」
ナツハは悩んでいた、どうやって弥生に説明すれば良いのかを。
彼女の母親は自ら命を絶ってしまったのだから。
その事を弥生が知ってる訳は無い、だが説明しなければならない。
そうしないと、これから起こりうる事について相談出来ないのだ。
ナツハの家は一族で病院を経営していた、それほど大きくはなかったが。
元は祖父が経営していたものを息子達が受け継いだのである。
それがナツハの父の橘麦秋と、その弟の健午であった。
彼等は同時期に結婚をし、そして同時期に子供を授かった。
それが二人共に女の子で、その内の一人がナツハである。
麦秋と健午は共に娘を大変可愛がった、それは親バカの範疇を超えていた。
二組の親子は大変に裕福で幸福そうであった。
だが娘達が成長していくに連れて、その不幸は忍び寄ってきていたのである。
世間的な見方では娘を溺愛するが故の夫婦の亀裂、破綻という事になっていた。
ナツハの母親が睡眠薬を多量に服用して命を絶ったのである。
事件性も無く、それは簡単に自殺として処理されてしまった。
麦秋もナツハも、その頃から殆ど会話をしなくなってしまった。
そして母親の葬儀が終わったナツハの家に一通の手紙が届けられていた。
その差出人は、まさかのナツハの母からであった。
封筒の裏にはカムフラージュとして弥生の名前が使われていたのである。
(ママが弥生ちゃんを頼るように書いてくれたんだ)
ナツハは、その手紙をクローゼットに隠してからベッドに入った。
そして母親との想い出の夢の中へ沈んでいった。
塁は幼い頃の思い出、悪夢の中で溺れていた。
まだ四月だというのに背中は汗で濡れる程であった。
それは両親が離婚をする事が避けられなくなった頃の思い出、悪夢。
父親は警察官であった、その性格は厳格で職業には合っていた。
だが仕事一筋だった父は、ほんの些細な事で母と衝突してばかりいた。
やがて母は精神的に疲弊しきってしまい、とうとう別れる事になる。
父は塁の双子の兄、睦を引き取ると譲らなかった。
そして弟である塁が母親の元に残される事になる。
兄の睦とは物心ついた時から、いつでも心が通じ合っていた。
双子である事も、その大きな理由だったのかも知れない。
言葉を交わさなくても、お互いの考えている事が分かっていたのだ。
それは悲しいという負の感情の方が、より伝わっていたのである。
もう二人が一緒に居る事が出来なくなる、それが互いに分かってしまった。
(ムツミ兄ちゃん…、もう会う事は出来なくなるの?)
(…ルイ)
(お兄ちゃん)
やがて二人は離れ離れで暮らす様になった。
それでも不思議な事に、お互いの考えは伝わっていたのである。
睦の生活は、やはり荒れていった様であった。
それが痛い程、塁には伝わっていたのだ。
塁の母親は休むことも無く働き続けていた。
母は何も悪い事をしていない、なのに何故こんなに苦労しなければならないのか。
その理不尽とも言える現実に塁は怒りを募らせていった。
そして、その怒りは判り易い悪というものに向けられていく。
思春期を迎えた頃には、もう警官になろうと志していた。
父親とは違う、ちゃんとした警察官になるのだと決めていたのである。
そして兄さえ望むのであれば、また一緒に暮らしたいとも考えていた。
いつでも心の一部分で兄の存在を感じていたのも大きかったかも知れない。
母は塁に自分や父親については、そんなに話してはくれなかった。
愚痴みたいな言葉も、ほんの数える位にしか聞いた事がない。
しかし塁と兄の睦については何でも話してくれたのだった。
「睦はね親しいって意味を持ってるの、それと一月にも使われてるの。
年の始まりって意味も持ってるのよ。
パパは月って言葉を気にしていてね」
「お兄ちゃんが始まりなんだね」
「そうなの、だから塁は最初は如月って名前になりそうだったの。
二月の事よ、それをママが反対してパパに諦めさせたのよ」
「じゃあ誰が塁って考えてくれたの?」
「お祖母ちゃんよ」
「ふーん、それで何を表しているの?」
「塁は重なって出来たものって意味らしいのよ」
「重なって?」
「そう、それと一番大事な意味はね…一を守るって事なんだって」
「一を守る?」
「塁が睦を守るって事らしいわ」
「ボクが、お兄ちゃんを守るのかぁ」
「私でナツハを助けられるのかな…」
弥生は目覚まし時計より早く起きてしまっていた。
やはり夏初の事が夢にも出て来て熟睡出来なかったのだ。
そこで少し早く学校に行く為にベッドから抜け出る事にした。
自宅から学校の最寄り駅までは、たったの二駅だった。
それでも通勤ラッシュが凄いので早く行く事に越したことはない。
駅のエスカレーターを上りながら、ふと昨日のテレビを思い出した。
(こんなに混んでちゃ、きさらぎ駅なんて関係無いか…)
少しだけ笑顔になった自分にホッとしていた。
そしてホームに流れ込んできた電車を見てゲンナリした。
ホームドアと車両のドアが、ほんの少しの時間差で開く。
プシュッ
ドアが閉まって発車した時には、もう車両の中ほどに押し込まれていた。
だが次の駅に停車した途端に真ん前の席の人が降りていく。
(ラッキー!)
弥生は上手くタイミングが合って座れた。
残り一駅だが人混みに揉まれているよりは遥かにマシだったので喜んだ。
席に座り鞄の中からスマホを取りだそうと手を入れてみた。
ふと顔を上げて前の座席を見て、その不自然さに違和感を覚える。
こんなに混んでいるのに座席が一人分だけ空いているのである。
だが周囲の乗客は、その席に誰も座ろうとしなかったのだ。
(何で誰も座らないんだろう?)
確かに一人分は空いていた、だが誰も座ろうとはしない。
両隣の男性にも女性にもにも不穏な雰囲気は感じられなかった。
そして、その状態は次の駅に停車するまで続いたのである。
駅に到着した途端、男性の方が腰を浮かせた。
弥生は何となく、その男性に視線を奪われていた。
「あっ」
弥生は思わず小さくだが声を上げてしまった。
男性が立ち上がった途端に、その隣の空席に女性の姿が現れたからである。
突然だったにも関わらず、その周囲の乗客には驚いた様子も無い。
降車駅だったので弥生も慌てて席を立ってドアに向かう。
その女性の前を通る時、弥生は気が付いてしまった。
女性の黒髪が全く光を反射していない事に…、それはまるで深い沼の様に見えた。
(確かに、あの女の子は自分の方を見て声を上げたみたいだったけれど…
あの制服は確か飛鳥女子のものだったよなぁ)
制服に着替えた塁は派出所の椅子に座って引継ぎ仕事をしながら思い出す。
最近、似た出来事が増えている様な気がしたのである。
つい先日の日勤明けにも、こんな出来事が在った。
塁が夕食の為にチェーン店に入った時の事である。
店員が塁の席まで水を運んで来たのだが、そのコップは二つ。
塁は隣に先客が居たのかと思ったけれど、そこに荷物も食券も無かった。
丼を運んで来た店員は塁の顔を見て、もう一つのコップを下げた。
その顔は、まるで狐につままれた様な何とも不思議そうな表情であった。
(あの時、店員に事情を聞いておくべきだったかなぁ)
そして最近、続け様に起こっている出来事も思い出していた。
塁の賃貸マンションはエレベーターホールが自動ドアになっている。
当然、塁が中に入ればドアは自動で閉まるのだ。
しかし、かなりの高確率で再びドアの開閉が起こる。
まるで塁の後を追って、もう一人の人間が通過しているみたいに。
(あのドアも壊れているとは思えないし、どうなってんだ?)
エレベーターについては、もう一つ気になっている事が在る。
塁のマンションは家賃の割には大規模なものであった。
エレベーターも二基ついていて、しかも広めのもの。
当然、車椅子の方の為に大きい鏡が付いている。
塁は、その背を向けた鏡から何故か強烈な視線を感じるのだ。
勿論それは気のせいであるのだが、その気配は強くなる一方である。
(それに無言電話も増えたよなぁ…)
リリリリ、リリリリ
そんな事を考えた瞬間、目の前の電話のベルが鳴った。
驚き慌てて受話器を取ろうとした塁、背中に少し冷や汗が流れる。
「はい、こちら飛鳥駅前派出所」
「もしもし、あの…飛鳥神社の者なんですが」
「飛鳥神社…ですか?」
「はい、お知らせしておきたい事が在りまして」
「何か、お困り事でしょうか?」
「それが、まだそうと決まった訳ではなくてですね…」
話の内容は確かに不思議なものであった。
神社の賽銭箱に紙に包まれた五円玉が投げ込まれていた、これは普通の事である。
だがその紙には願い事が書かれていた、というのである。
『たすけてください、なつ』
たった、その二言だけが走り書きされていたらしい。
「助けて下さい、ですか?」
「はい、それで一応お知らせだけでもと思いまして」
「夏というのは、これからという事でしょうか?」
「もしかしたら生徒さんの名前かも知れません」
「生徒の名前…?」
「ええ、くるんでいた紙が飛鳥女子高校の生徒手帳を破いたものでして…」
チャイムの音色を背にして二人の女生徒が校門から出て来た。
飛鳥女子高校、地域では名門で知られた学校である。
弥生とナツハの二人は揃ってナツハの家で相談する予定になっていた。
「父は五時までは病院だけど、その後は分からないの。
だから今の内から聞かれて困る事を話しながら行こうね」
「お父さんに聞かれると困る事?」
「相談したい事って父の事なの」
「それを私に?」
「弥生ちゃんのお父さんって警察の人だったよね?」
「確かに刑事だけど、そんなに大変な話なの?」
「うん」
ナツハは伏し目がちになって、その歩みを早めていった。
弥生は、その只事ではない雰囲気に少し圧倒されていた。
飛鳥神社の前を通りかかった時に、ふとナツハが立ち止まる。
「私ね、ここの神様にも手紙を書いたんだ」
「手紙?」
「急いでたからメモみたいなものだけど」
「神様に?」
「うん」
(神様と刑事の娘に頼りたいだなんて、よっぽどの事なのね…)
弥生は表情には出さない様にしてナツハに深く同情していた。
やがて二人はナツハの自宅に辿り着いた。
病院からは、そんなに離れていない大きな三階建ての邸宅である。
ナツハは弥生を自分の部屋へと招き入れ、そして鍵を掛けた。
クローゼットを開けて小さな段ボールの箱を取り出して弥生の前に置いた。
そして箱の底から一通の封筒を取り出して弥生に手渡した。
「手紙?」
「差出人の名前を見てみて」
弥生は、その封筒を引っ繰り返して名前を見て驚いた。
『境弥生』
「ええっ、これって私じゃない?」
「うん」
「どういう事?」
「うん、あの…実はね」
ナツハは、たどたどしく話し始めた。
その内容の全てが弥生を驚かせるのに充分だった。
…ナツハが中学三年生になった頃から両親の間に亀裂が出来始めた。
父親である麦秋のナツハへの愛情が常軌を逸してしまっていたのである。
だがそれは世間向けの表向きの話であったのだ。
本当の理由は他に在って、それがナツハの母の自死を誘発してしまう。
その際にナツハ宛に発送された手紙が、この封書だったのだ。
「でも何で私の名前が差出人に使われているの?」
「カムフラージュだったみたい」
「カムフラージュ?」
「…パパへの」
勤務を終えた塁は最寄り駅までの道を歩きながら考えていた。
それは神社の賽銭箱に投げ込まれた救いを求める手紙の事である。
神様に願い事をするのは普通の事、何故わざわざ手紙に書いたのだろう。
しかもハッキリとは記していない、まるで隠し事の様にカムフラージュしている。
『たすけてください、なつ』
(確かに季節というよりは人の名前みたいだけれど…)
何を、どう助けて欲しいのか?
塁には全く想像出来る程の手掛かりも書かれてはいなかった。
一応それとなく学校には確認の電話を入れておいた。
創立以来、何のトラブルも無い模範的な進学校。
イジメはおろか、ほんの小さな窃盗ですら起きた事も無いのである。
(あれじゃ神様にだって、とても願い事は届かないんじゃないだろうか)
ホームに入ってきた電車に乗り込んで席に座って落ち着いた。
朝の通勤ラッシュと比べると、その車両は空いていた。
考え事を続けていた塁は、ふと強い視線に気付いて軽く動揺する。
最近エレベーターの背後の鏡からの視線を感じる事が多いからである。
ふと顔を上げた塁は、その視線の主の女子高生の制服に気付く。
(飛鳥女子の生徒か…、しかも朝と同じ子かも知れない)
塁は、その女子高生の視線を逆に盗み見してみた。
彼女は塁と、その隣の席の乗客に交互に視線を向けている。
塁は隣の乗客を横目で見てみた、それは黒い服を着た女性であった。
(別に変な感じもしないし、あの子の癖なのかも知れないな
朝から気にしてても意味無かったかな…)
その時、車内アナウンスが聞こえてきた。
「次は、きさらぎ~きさらぎ~」
「えっ!」
(また、あの子の声か。
これじゃまるで朝と一緒じゃないか、もう気にしないけど)
聞き慣れない駅名に乗り過ごしたと思った塁は席を立った。
前の席の女子高生、弥生も少し遅れて席を立つ。
ホームに降りた塁は少し混乱していた。
慣れない駅名に乗り過ごしたと思ったのに、いつもの駅のホームだったのだ。
(あれ?)
聞き間違いか、それとも何かの勘違いか。
塁には分からなかったし、そんなに気にもしていなかった。
いつものエスカレーターを降りて、いつもの出口へと向かう。
自動改札にカードを当てて通過する、それもいつもの事。
塁が通過すると同時に隣の自動改札も、そのドアを開けた。
だが、そこには誰の姿も見えなかったのである。
「ひっ!」
塁の少し後ろに並んでいた弥生が、また小さく声を上げた。
二人は同時に何かの扉が開くのを見てしまったのだ。
何かが扉を開けるのを。
駅の近くで弥生は時計を見上げた、その針は既に六時半を少し過ぎていた。
少し急ぎ足でホームに着いて電車に滑り込んだ。
(連絡してるから怒られはしないけど、ちょっと遅くなったなぁ)
弥生は同級生のナツハから相談を受けていて、こんな時間になったのだった。
その内容の衝撃で、まだ精神的に安定していない。
『パパは、もうパパじゃない』
ナツハの母からの手紙は、そんな言葉で始まっていた。
その一文だけで弥生には充分過ぎる位の衝撃だったのだ。
ナツハの父である橘麦秋には大勢の愛人がいた、それを母は知っていた。
父はサチリアジスという病気だと、そこには記されていた。
「それって、どんな病気なの?」
「検索したら異常性欲とか色情狂とかって出てて…」
とても言いにくそうにナツハは小声で弥生に言った。
父の弟である健午も、また同じ病気らしいと続いていた。
「弟って五月ちゃんの…お父さんだったよね」
「うん」
橘五月はクラスこそ違うが弥生達と同級生の少女であった。
二人の同級生の父親が病気で、それが原因で一人の母親が亡くなっている。
その事実は、かなり弥生には重過ぎた。
麦秋と健午は看護師達にも飽きて、お互いのパートナーに目を付ける。
つまり夫婦交換をしようと企んだらしい。
しかし当然そんな提案は両方の妻が拒絶した。
そこで麦秋と健午は自分達の妻に罠を仕掛けたというのだ。
或る日、看護師長でもある二人の妻の受け持ち患者にミスが確認された。
幸い命に別状は無かったものの、それでも後遺症は残ってしまう。
病院は表向きにはミスを隠蔽、世間体を取り繕うという姿勢を取った。
しかしミスを指摘されたナツハと五月の母達は、その責任を追求されたのだ。
勿論、二人共ミスについては強固に否定した。
それでも院長と副院長、愛人らしき看護師達による責任追及は続いた。
病院の職務からも外され、もう二人の妻達には自由も無くなっていった。
そしてナツハと五月の母達は、もう一度その提案を切り出された。
夫婦交換。
ゴールデンウィークが近付いてきた。
二組の家族で旅行に行く案がでていた、そこが舞台に用意されたのである。
娘も一緒の旅行でスワッピングなんて耐えられる訳がない。
だが拒絶すれば医療ミスを理由に離婚まで口に出されていた。
もしそうなれば次は娘達が狙われてもおかしくない、そんな人達だ。
もちろん娘を、そんな家庭に残して追い出されるのは耐えられない。
娘さえ守れれば、その一念でナツハの母は命を絶った。
『夏初ごめんね』
それが最後に書かれた言葉だった。
弥生は座席に座った途端、疲れがドッと押し寄せてくるのを感じた。
それはナツハからの相談事の重さによるもの。
朝と比べれば夜は比較的、空いていて座れた事に喜んでいた。
ふと気配を感じて前の座席を見た、そこには見覚えの在る乗客が居た。
(朝に見掛けた人だ…、また隣の女の人も一緒みたい)
だが弥生は、その乗客と隣の女性は一緒に降りなかった事を思い出した。
それを理由に隣の女性も同時に観察し始めた。
(やっぱり間違いない、とても偶然とは思えないよね)
やはり二人は見ず知らずの様であった。
そして女性が少し顔を上げて弥生の方を向いたので、その表情を弥生が見返した。
周囲の乗客と比べて顔色が悪い、それは車内の照明のせいではなかった。
少し細面の顔には無表情が貼り付けられていて、その瞳は閉じられていた。
(もし顔色が良ければ美人に見えそうだけどな)
そう思った時に、その女性の閉じていた瞳が開かれたのである。
そして、その視線は弥生の方に向けられた。
(私を見ている?)
女性は間違いなく弥生だけを見ていた、その瞳は黒目がちで生気が感じられない。
二人の視線が何となく重なってしまった、その時である。
ぐるり
女性の目玉が瞳の中で回転した…、いや回転し始めた。
弥生は、それを見た瞬間から頭の回転速度が極端に落ちてしまった。
心も身体も凍りついてしまったのである。
ぐるり、ぐるり
その女性の目玉は回転を続けた、その事に誰も気付いていない。
弥生の意識は混濁した、そして段々と遠のいていった。
もう少しで気絶してしまうだろう…、その時に車内アナウンスが聞こえた。
「次は、きさらぎ~きさらぎ~」
その駅名を聞いた途端、弥生の意識は戻った。
「えっ!」
大声で叫んだつもりだったが、その声は小さかった。
駅に着いた途端、前の席の男性が座席を立った。
その動きに合わせて弥生も立ち上がった。
(確かに、きさらぎって言った!
このまま、この電車に乗り続けてちゃいけない!)
弥生は男性に続いてホームに降りた、そのまま後ろに付いて歩く。
ドアを出る間際に座席を振り返ったが、もう女性の姿は無かった。
男性が先に自動改札にカードを当てた、その瞬間に隣に人が現れた。
黒髪の黒い服の痩せた女性が突然、自動改札を通り抜けたのだ。
「ひっ!」
男性の少し後ろにいた弥生は思わず声を上げてしまった。
振り向いた男性、塁と目が合ってしまった。
(確かに前には誰もいなかったのに、どうして…)
女性は別方向の出口へと歩いて行く。
そしてそのまま、まるで影の様に夜の中に溶けて見えなくなった。
(私は、あの電車から降りられた。
なのに別のレールの上に乗せられてしまった気がする…)
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