第8話 さらさら
戸板の向こうで、陽が昇っている気配がする。
締め切ってはいたが
このごろ身体が怠くて堪らなかった。
夜はまだましなので、ここしばらく、旅は夜に限っている。
横になっている足元で、
さらさらと、耳の奥に音が湧く。
光の粒が戸板を流れ落ちている音だろうか。
笹の葉が騒いでいるのか。
いや、風の音か?
あるいは、この身体が崩れようとしているのだろうか。
そういえば……私はあの女を捜し始めて幾度目の夏に巡り合わせているのだろう?
ひい、ふう、みい、よ、すごろく遊び
行きつ戻りつ鬼招き
ととさまかかさま
娘十七、嫁に
鈴振るうような童女の声がする。
からからと音がするのは、骰子の壺を振っているものか。
「さあ、次は茨木の番だ」
童女は楽しげにだれかに声を掛けている。
からから、ころろ、からから、ころろ
「三、四か。まずまずだの」
「
交互に、壺が振られている。
盤のうえを駒がすすむ、そのさままで思い浮かぶ。
さながら私は
いつ、むう、七夜の宮参り
駆けつ休みつ鬼遊び
娘九つ、鳥居の
時の満つれば迎えに参らん
男の声で歌われるのは……すごろくうた。
からん、と壺を振り、くく、と笑う声がした。
「ほらほら、気をつけねば鬼に喰われてしまうよ」
「
童女は不満そうだ。
ひと夜、ふた夜と
明けつ暮れつの
さてこそ
からから、ころろ、からから、ころろ
ふたりの壺が交互に鳴る。
この破れ寺にほかの部屋はあっただろうか。
仏殿ならあった。
本尊もなにも、とうの昔に盗み出され、蓮華座が残るばかりだったが。
足元の主殿が、なにに気がついたのか、こうこう、と鳴いた。
途端、すごろくうたの声がひたりと
「おやまあ、鬼くさい寺じゃと思うていたら、先客のあったものか」
不意に戸が開いて、朱の
一見、成人のような身なりだったが、髪は
そして、切りそろえた前髪から覗く、二本の角。
男のうしろに隠れて、一本角の童女の鬼がおずおずとこちらを見ていた。
「邪魔をしている。ここは汝の寺か?」
せめて座って挨拶のひとつもしたかったが、身体が動かない。
「だれの寺でもなかろうさ」
男の鬼は私のそばに腰を下ろし、横になっている私の顔を覗き込んだ。
「精が尽きかけておるな。幾月、人を喰っておらぬ?」
「人を喰ったことなどない」
不躾に問われて私は苛立っていた。けれども、その声は弱い。
「そもそも、私は鬼ではない」
「角は見当たらぬが、そういう鬼もいる。まちがいなくぬしは鬼じゃ。鬼には、鬼のにおいが分かる。しかし……人を喰ったことがないと? ほう」
鬼は童女を手招き、その手の甲に爪を這わせた。
童女の手から血が一筋、滴る。それを鬼は懐から取り出した瑠璃の杯に受けた。
「茨木、酷いよ」
痛むのだろう、顔をしかめて娘の鬼が言う。
「昨日、わたしに黙って坊主を喰ったろう? 独り占めした罰じゃ」
「だって、あの色惚け、おのれの小汚いあれを丸出しにして
「ああ、だから今日は拗ねてちいさい
紅に満たされた杯を床に置き、
「飲みやれ。鬼の血なぞあまり
そう言った。
不快さが先に立ったが、
だが不機嫌が顔に出ていたのだろう、男の鬼がくすりと嗤う。
「ぬしの足元で心配そうにしておるものがあるぞ。まるまる肥えた鶏じゃ、これを
「私の主殿だ。触れれば、汝を殺す」
「おお怖い。したが、威勢の良いことを言うなら、さっさと飲め。格好がついておらぬぞ」
腹立ちは募ったが、鬼の言うことはいちいちもっともだ。
結局、私は正論に腹を立てているだけだった。
この身体の怠さがどうにかなるなら、鬼の血でもなんでも飲んでみよう、とも思った。
よろよろと身を起こし、床の
覚悟を決めて、
錆の味が口いっぱいに広がる。
甘い、甘い……甘露の如き錆の味。
不意に、十七、八の娘に悪心を抱く坊主の狒々嗤いが聞こえた気がした。目の前にいる童女に、彼女の成長した姿が二重写しに見える。細い身体を組み敷き、萩の花を散らすように着物を剥ぎ……口を吸ったところで、我に返る。
おのれの舌が食い千切られたあの感触。
もちろん私は娘を手込めにしてもいなければ、舌を咬み切られてもいない。
だがあれは……生々しい、あまりに生々しい。
「人の味を知らぬと言うなら、その程度でもなかなか美味かろう?」
鬼の声は嫌みなほど涼しげだ。
「じゃが、どうも精に
「見苦しいところを見せた」
私は深く息を吐く。ようやく坊主の感触から解放されるここちだった。
「なんの」
鬼は気にも留めていないようだ。
「ぬしはみずから成ったのではなかろうな。憎しみでみずから成れば、鬼はたいてい、憎む相手をはじめに喰うものだ。だれかの精をもろうたか?」
また顔に出たのだろう、鬼がくすくすと私の顔を見て笑った。
「ずいぶん佳いめをみたようじゃ。女か? 心底、惚れておるのが顔に出ておる。に、しても、もろうてから長く保ったようだの。尋常の精ではなかろうね――ぬしは、鬼道の女に行き逢ったのかもしれんな」
「鬼道の、女?」
鬼の血は効いた。
「古い鬼だと言うぞ。鬼道に仕える女であったとしか、わたしも知らん」
落胆はしなかった。ほんのすこしのてがかりでも有り難い。
「恩に着る」
「着なくてよいさ。鬼に貸しをつくるとあとが怖いぞ」
どこに興が乗ったのか、「面白い鬼だね」と、くつくつと笑う。
「ならば余計、恩に着ておく。恩を無下にするのは性に合わぬ」
「まったく変わった鬼だ。まあいいさ。恩に着ているからには、いつか返してくれるんだろうね」
「むろん」
宛てはなかったが、なんとかするつもりだった。
幸いにして、時間だけはたっぷりとある。
「なら、とっとと人を喰うことだな。精をつけねば乾涸らびようぞ」
そう言いながら鬼は笹の葉で包んだものを
ぷんと、血の匂いが漂う。手のひらに感じる、しっとりとした重み。
「残念ながら人ではない。鹿の
「重ね重ね、恩に着る」
童女の小鬼がしきりに男の鬼の狩衣の裾を引いていた。
「ああ、すまぬ。すごろくの続きをしような」
優しいまなざしで童女の手を引き返して鬼が笑った。
「名を、教えて欲しい」
私が問うと、
「鬼と成った者に名は要らぬ。じゃから、わたしはぬしの名を問わぬ。が、わたしを探すのに不便じゃと思うなら、『茨木童子』と覚えておけばよかろうさ」
そう、鬼は答えた。
ひと、ふた、みい、夜ごと坊主の色舞わし
泣きつ惑いつ鬼くらべ
これぞ
思い余りの骰子振れば、賽の目鬼門で鬼は内
からから、ころろ、からから、ころろ
「
童女の楽しげな声。
からから、ころろ、からから、ころろ
ひい、ふう、みい、よ、すごろく遊び
黒装束ぞ美しき、鬼に引かれて根の
「茨木はやっぱり強いねえ。またこんど遊んでおくれよ」
「ぬしが抜け駆けせんならまた遊んでやろうともさ」
だってねえ……
くすくす、ふふふ……
その声を最後に、鬼の声は絶えた。
ひとりになった破れ寺で、私は鹿の肝を喰い、いつのまにかみずからが人ではなくなっていたことを知った。
そしてふと、思いだす。
さらさらと流れていたのは、歳月だ。
この身に宿ることなく流れていった歳月。
あの女を捜し始めて、三百年の歳月が流れていた――
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