第7話 天の川

 彼女が川を渡ったのは、三日前だと言う。

 いま渡れば、追いつけるかもしれない。

 けれども彼女が渡ったあとから降り続いた雨のせいで川は増水し、渡しは休業中だった。

 とはいえ今日の夕、雨はようやく上がったから、渡し場の男たちは、このままさらに降らなければあと二日ほどすれば渡しを再開できると話をしていた。

 ――せっかくここまで追いついたと思ったのに。

 だが、三日の開きが、五日に延びる程度のことだ。

 焦っても仕方がないとみずからに言い聞かせて渡し場の男たちが仮宿している宿に逗留し、無為な時間を過ごしている。

 武尊たけるのみこともこの川を渡ったのだろうか。ふと、そんなことを思った。

 この近くの焼津で、みことは草薙剣で難を逃れたという。

 昔、あの女に出会うまえ、国の史書を我が君に読ませてもらったことがあった。編纂されてまもない、この天地あめつちの紀。胸躍らせながら読んだ。

 ――あのときからずいぶん経ってしまった。

 旅をするうち幾度となく西国に、東国にと足を踏み入れ、土地には土地の伝承があり、ときには国の紀とは異なる異聞が存在することも知った。

 それで、あの史書がなんのために編纂されたのかにも思い至ったのだ。

 ――あれは、国をひとつのものとなすための祝言ほかいごとだ。

 まつろわぬ民にとっては覆滅の呪詛となる。

 覆滅とはいえ、命を奪うのではない。命を奪うのは剣であり、弓だ。

 武尊は剣を携えて国を巡り、地を平らげた。だがそれから幾代いくだい過ぎても東に大王の威光は行き渡りがたく、私の生まれた頃にも、東国征伐の軍旅は催されていた。

 それゆえ大王おおきみことばでもってこの天地のことをり給うたのだ。

 五月蠅さばえなす地を鎮めるための詞。

 けれども――そうだとするならば。

 そうだとするなら、なんだ?

 私の思いは言葉になるまえに消え失せてまとまらない。

 消え失せてゆく?

 なにが?


 ――そういえば、今日は棚機たなばたであったか。

 漢籍にも似た伝承があった。宮廷では中華に倣って七夕しちせきの儀式を取り入れ、地方でも国造くにのみやつこたちが大和風の七夕の儀式を行っていたが、民草には関係のないことだ。

 今夜は棚機津女たなばたつめたちが川辺の織屋で、神御衣かむみそを織っていることだろう――

 胸もとに主殿あるじどのの温みを感じながら、私はとろとろと目を閉じる。

 また雨が降るのだな、そう思った。

 雨の日は、身体の調子がどうにも優れない。


 夢ともうつつともつかぬ端境はざかいで、私は川を渡っていた。

 雨さえ降らなければ、渡るのにそう苦労はない川だ。

 カトン、コトトン、カラカラ、トントン、カトン、コトトン、カラカラ、トントン

 棚機津女たなばたつめが水辺の小屋で、神を迎えるためにはたを織っている。

 気がつけば、満天の星空だった。

 川面にも星が映って、天も地も星で輝いている。

 ――今宵は天と地が繋がる夜。

 カトン、コトトン、カラカラ、トントン、カトン、コトトン、カラカラ、トントン

 天の女が天の川を伝って地の川に降り、境界の男を喚んでいる。

 灯りの灯る小屋、私はそこにあの女が待っていることを知っている――


 為我登あがためと 織女之たなばたつめの 其屋戸尓そのやどに 織白布おるしろたへは 織弖兼鴨おりてけむかも

 私のためにと織女が織ってくれている白布は、もう織り終わっただろうか。


 ゆらゆらと水よりいで来た私の身体は、一匹の蛇に成っていた。

 カトン、コトトン、カラカラ、トントン、カトン、コトトン、カラカラ、トントン、カトン

 棚機の音がみ、女が織りあがった真白いきぬを手に、小屋から出てきた。そして水辺に顔を出した私に語りかける。

「よくぞ出でまし賜うた、が背の君」

 女の衣が私に降り落ち、私は人の姿になって――


「夢でも、そう都合良くはゆかぬものだな」

 ごろごろと天が不機嫌を露わにしている。かっと眩く空が割れた。

 どおん、と天地を震わす音が続く。

 どうやらしばらくまえから続いている雷雨のせいで、いいところで起こされてしまったらしい。

 ごうごうと天のかめが割れたような雨が降りしきっている。

 渡し場が再開するのはまた日延べになりそうだった。


 腕のなかで、主殿がくうくう、とちいさく鳴いている。



引用歌 万葉集より

為我登 織女之 其屋戸尓 織白布 織弖兼鴨

あがためと たなばたつめの そのやどに おるしろたへは おりてけむかも


注:実際の棚機は、七月六日の夕から七日の明け方にかけて行われます。

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