第6話 筆
しばらく滞在していた町で、話をする仲になった筆屋と会っていた。
というのは本末が逆で、滞在が長引いたのはこの筆屋のせいだった。
店先で、見つけたのだ。
――鬼の匂いのする筆。
そんな日々がもうひと月も続いていた。
「十七になった頃のことですよ。あたしゃ、いっぱしの職人になった気でいてね。
煙管を
筆屋の店先、縁台に
このおやじ、自分の気に入った客にしか筆を売らないという悪癖がある。それでよくもまあ生計がなりたつものだと呆れもするが、存外、そういうところに惚れた贔屓の客は多いのかも知れない。
騒乱の世であっても、つねに鉄火のやりとりがあるわけではない。
京の都のあたりでは、一時は天下を取るのも間近と言われた織田が、家臣の裏切りにあって果てたという。
またあちらは騒々しくなるだろう……しかし関東のあたりはもうだいぶん落ち着いてきている。
「おのれの馬鹿さ加減のおかげでずいぶん遠回りしましたよ。ただでさえ筆職人で独り立ちするには十年かかる。あたしゃ、二十五年かかった。でもね、おかげでだれにも出来ないことが出来るようにもなった。普通は馬や山羊、狸の毛で作る筆だけど、犬の毛を使って書道家の大先生に『この筆こそ』と言っていただける逸品が仕立てられるのは、あたしだけですよ」
男は、にい、と笑って煙草を喫んだ。
「犬の毛を使おうと思ったのは、ある犬に出会ったせい。そう……おまえさんが目に留めたこの筆の材料になってくれた犬さ」
男は露台のうえに無造作に置いてある筆の一本を指さした。
私が最初に『匂い』で気づき、目が離せなくなった筆だ。
「あれは四十年ばかりまえだったかね。筆職人のおやじのもとで六歳から修行を始めて十一年、筆作りのいろはくらいは習得してましたよ。もちろんまだピヨピヨの
男は目を細め、楽しげに語ってる。
「犬の主人はずいぶん
やはり、彼女だった。
この筆は、彼女の連れていた灰狼の毛なのだ。
「犬はおとなしく毛を刈られてましたよ。刈り終わって、宿がないって言うんで、そりゃもう、気持ちよくこっちの頼みを聞いてくれた恩もあるし、納屋にひと組っきりの布団を敷いてね。さあ、どうぞ、ってなもんだ。ほんとは家に泊めたかったところだけど、男ひとりの襤褸小屋所帯で客間なんて気の利いたものはないし、納屋で勘弁な、とは謝ったけど、なに、雨風凌げるだけでありがたいですよ、と言ってたね」
筆屋はなにが可笑しいのか、へへ、と思い出し笑いをして煙草をまたひと喫みする。
「しかしまあ、あたしも男で、しかもあんときゃまだ若くてね。もしかしたら、ちょっといい雰囲気になるんじゃないかと……馬鹿なもんだね、期待したわけだ。
――おや、おまえさん、そんな
――まあいいや。もちろん、嫌だと言われたら引き下がるつもりでしたよ。あのおおきな犬を
――まったく、体裁の悪い。
――夏はいつも暑いと困っていたじゃないか。それに、似合っている。
「男の髪はずいぶん短かった。結ってもいなくてね。がっしりした逞しい男だった。腕なんか女の腕よりひとまわりも太いように見えましたよ。あたしはその男が、昼間のあの犬だとすぐに分かったね。当時だって毛の質を見分ける目は持ってましたからね。
妖しの者だ。関わり合いになっちゃならない。まったく、ぞっとしましたよ。
回れ右して家に戻り、しっかり
筆職人は、すう、っと煙草を喫んで、目を細めた。
「あたしの話はこれでおしまい。それからあたしはいろんな犬の毛を試して、いろんな筆を作ったもんだ。お大名さまに献上した筆も一本や二本じゃありませんよ。でも、あの犬ほどいい毛はなかったね」
筆職人は台から筆を取り上げて、私の目の前に差し出した。
「どうもおまえさん、そのふたりに縁があるようだ。まあ、いいさ。この筆、持っていきな。あの犬の毛で作った筆の最後の一本だよ」
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