第5話 線香花火
わたしはこれがとても好きなのですよ、と大江山の鬼が言った。
蘇芳に染めた美しい爪で
初めて会った時と同じように
成人のように
「――茨木童子」
私が名を呼ぶと、鬼がひっそりと笑った。
燭の灯りは広々とした板張りの部屋にひとつきり、陽の落ちたあと、几帳を立てて月明かりも遮った室内は、まさに幽冥の境。
「あなたと会うのは、これで四度目ですか」
私は頷いた。
濃灰に染まった
鬼の手元で稭のさきに点った玉が、チリチリと火花が散らし、ひときわ大きく散ったかと思うと数条の名残の火花を撒いて消える。
「線香花火ですね。江戸のものとはすこし違うようですが」
「線香のように香立てに刺して楽しむのが都風なのです。だから線香花火と言う」
なにか夢でも見ているのか、
「春待つ蕾、絢爛の牡丹、蒼き松葉、終わりの散り菊。線香花火の火花のようすをよっつに分けて、人生に喩えることもあると――こう申すのは、受け売りですが。あなたのお探しのあの方が、教えてくださいました。この花火をわたしに手渡して。もう、百年も前のことになります」
「――何故」
「なぜ? あなたが問いますか。あの方は旅をしている……ただそれだけのことだと、あなたが一番よくお分かりでしょうに」
そう諭されたら、頷くしかない。
「この地は、我々のものだった。ときの朝廷に追われるまでは。憤りのままに鬼に変じ、思うままに復讐した。しかし」
鬼は小首をかしげて私に笑んでみせる。
「なぜ、鬼は人を喰わねばならないのでしょうね? もはやかつての朝廷はちからを失い、我々を討伐しようという者も絶えて久しい。この地はふたたび我らの棲処となった。もう人とかかわる道理もないというのに、人喰いたさに里へ下りねばならぬとは」
鬼は伝承の者となり果てても、神隠しはある。
もう一本、鬼が香立てに線香花火を立てて、火を灯す。
再び花火が密やかに音を立てて花開き、散り、消えた。
「わたしはもう、ずいぶん倦んでいた。――そんなときだったのですよ、あの方がここを訪れたのは」
不意に、鬼の手元に瑠璃の
紅い飲み物がなみなみと注がれたそれを、
「お飲みなさい。あなたにはまだ必要だ」
私は頷いて、杯を干した。
「童子、あなたは」
「わたしにはもう不要になったのです。ええ、あの方に救っていただいた。春を過ぎ、夏を謳歌し、永遠の秋に留まっていたわたしの血肉に、冬枯れの季節を教えてくださった。ここに遺っていたのは、わたしの悪癖というものですよ。あなたが……そう、あなたが羨ましかった。あの方に因果を解いてもらいながら、心残りしてしまっていた。けれども、それももうおしまいにしましょう。その杯、わたしの形見にもらってください」
――私の、なにが羨ましいと仰るか。
「そういうところですよ」
鬼が、ふっくりと笑む。
さながら緋色の菊花が開くように。
「あなたには、返していない恩がある」
私はなおも言い募った。彼が失われるのが惜しかった。
「たしょうの
主殿がにわかに首をもたげ、きょろきょろと二度、周囲を見回した。
「さあ、
茨木童子の言葉は古謡を口ずさむように楽しげだ。
時を告げる一声
東の空に曙光が射した。
ほとんど板も抜け、草におおわれた廃屋の、かろうじて板の遺っているところに私は座っていた。
童子の座っていた場所には、
私の手には、紅のしずくの残る瑠璃の杯が握られている。
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