第9話 団扇
このあたりは低地でね、梅雨の明けが遅いと湿気が籠もる。そんな年は夏に綿虫がたくさん湧いてな、稲はもとより、粟も稗もみんな腐れ果てるのさ。儂の生まれた年もそうじゃったと、おやじ殿が言うておったよ。そんな年は猟師が山に入ってもろくに
夫婦の喰う飯もあと数日。おっかあの乳は出ん、赤子の儂は重湯ばかりで泣き声は細るばかり。生まれたばかりの跡取りだけんど、
そんなおりだというよ、あの女が村に来たのは。
美しい女だったそうだ。おおきな灰色の狼を連れてな。
山で獲ってきた
獣肉、精がつくからみな薬喰いって食べる。とくに鳥の肉は臭みがすくないと重宝される。
しかし不思議な話さ。長逗留するなら川向こうの村の方がよっぽど栄えとるし、獣肉も高い値がつく。
女がなにを思ってたかしらん。知らんが、なんにせよ、儂がいまこうやって生きとるのは、その女のおかげだ。
そう、虫の話だ。
長は獣肉を困っとる村の者にも分けてくれたが、いくら女が狩りが巧いといっても、村人みんながたらふく食べられるほどは獲れん。
村が困っとるのは変わらん。
すると女は言った。
「虫を払ってやろうかえ」
村長の家にあった団扇をひとつ所望して、村のまんなか、田の畦で踊ったのさ。
ようよう風よ
土を起こせ火を
ほうほう風よ
ようよう風よ
ほうほう風よ虫送れ
甘露を遣って
そりゃもう、美しい舞いだったそうじゃよ。
女が団扇で払うと、綿虫どもはくるくる巻いてひとかたまりになっていった。
虫の追われた田に、女に言われた村のこどもたちが獣の脂を田に流して行った。
村のもんみなして踊っていたが、そんとき、村の年寄りが「虫はほかへ遣ったらいかん」そう言いだした。
まあそうだな。村の悪いもんを外へ出したのが知れたら、あとで村のもんがほかの村の衆に袋だたきに遭う。
女は笑って「なら、こうしましょうね」と、団扇で虫をさらに寄せていってな、寄せた虫どもはちいさくちいさくまとまっていったところを、「あまりの
みんな踊るのも忘れてぽかんとそのようすを眺めていたそうだ。幻でも見てるのかと思ったそうだよ。
いや、ほんとに幻だったのかもしれん。女の
けど、御利益はあった。虫はいなくなっとった。
それで、おやじ殿は草の根しがんでも親子三人、生き延びにゃ言うてふんばったそうだ。で、儂もこうやって爺になるまで生き延びられた。
女?
ああ、綿虫の
その年以来、夏の初めに団扇を持ってな、獣の革を作るときに出る脂を貯めて田に流して、村中総出で虫追いの祭りをやっておるよ。虫食わせるための犬も連れてな。
おやじ殿が言うておったように、女の連れた狼みたいにひとくちでぱくり、とはいかんし、連れてるだけだがな。
それ以来、梅雨明けの遅い年でも、酷い虫害には遭わんようになった。
おやじ殿が生きてりゃ、もっと詳しい話をしてやれたんだろうがな。
儂のしっとるのは、これだけじゃ。
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