第5話 お隣さんの、花金アヒージョ

 さすがに、金曜日は立て込んでしまった。残業しなかったために溜まっていた仕事を片付けていく。それでもチームで乗り切り、ようやく終わる。


「はーっ。明日から休みか。林田、今日はどっか行くか?」

「せっかくだけどパスだ」


 同僚の北坂から誘われたが、俺は断った。


「ホントにどうしたんだ? 貯金でもしてるのか?」

「まあ、そんなところだ」

「お前、ウワサになってんぞ。『激務に耐えかねて、FIREファイアでも目指してるんじゃないか』って」

「誰がウワサしてんだ?」

「上司だよ」


 FIREとは「Financial Independence, Retire Early」の略だ。「経済的自立」と「早期リタイア」を意味している。


 まあ、三〇前後である俺の年齢なら、そう思われるか。


「FIREか。それもいいかもな」


 そういえば、貯金は溜まってるんだよなぁ。投資に手を出せるくらいまで貯まっていた。


 俺は金に執着心がない。意識的に貯めているつもりはないが、知らず知らずのうちに増えていく。家賃も物価も高い都会に住まず、会社からそれなりに離れた郊外で暮らしている。


 溜まった金の処理に困り、実家に相談したこともあった。「結婚資金に使いなさい」と突き返されたが。


 といっても、女にもギャンブルにも興味がない甲斐性なしである。一応二次元キャラのガチャはやるが、北坂のようなコンプ癖はなかった。酒もそこそこだ。


「といっても、若いうちにアーリーリタイアなんてしたら『毎日ヒマで結局仕事する』ってオチが待っているらしいけどな。無趣味だともっとしんどいだろうな」

「ガチャで吸われてる奴らしい意見だな」


 北坂の話に、俺は苦笑いする。


「ガチャ代っつっても、お前はオレみたいにバカみたいにツッコまないだろ?」

「ああ。推しが手に入ったらいいかな、ってくらいだ」

「オレは死ぬまでガチャに金を捧げるから、FIREなんて考えないな。今が一番」


 北坂は破滅的な生活をしているが、案外モテる。いや、破滅的なやつだからモテるのかもしれない。自分のガチャは自分の金で回すが信条なので、ヒモにはなりそうにないが。


「いいですよねえ、FIRE」

「村井さんは、FIRE興味あるの?」

「経済的自立は憧れますよね。猫ちゃんと過ごす時間が増えるじゃないですか」


 いつものように、村井はスマホの待受を見せてくる。


「ペットショップで買ったんじゃないんですよ。保護猫なんです。でも年齢はそこそこ行ってて。できるだけ、一緒にいてあげたいなって」


 投資をやっている友人に、村井は色々と教わっているそうだ。とはいえ教わるだけで、金は飼い猫の飼育代や治療費に全部持っていかれている。ある意味で、貢ぐ女と言えた。


「お金って貯めるの大変ですよね」

「毎月、千円から貯めるのがコツだ。小さい額だが、継続することが大事だぞ」

「五〇〇円貯金はしているんですが」

「できれば、毎月決まった額でやったほうがいいかな? 小銭貯金は俺もやったことはあるが、変動性が高くて長続きしなかった」


 貯金は、慣れだ。いきなり節制してみても、結局は反動でさらにムダ遣いをする。使わない金額を決めておくことが大事だ。


「わかりました。ちょっとずつやってみます」


 そういえば、寿々花すずかさんってどうやって稼いでいるんだろう?

 安いとはいえ、あのアパートはそこそこの家賃だ。それに、食事の質も高い。

 食しか楽しみがないと仮定しても、結構な費用がかかっていそうだ。

 生活費とか、どうしているんだろう。


「おい林田、帰らないのか?」


 北坂から、肩を叩かれる。


 想像していたより、長く考え事をしていたらしい。


「ああ、帰るよ。おつかれ」

「おーっ。じゃあオレは飲んで帰るかな」


 カバンを肩にかけながら、北坂が社を出た。



「ただいま」


 また、誰もいない部屋に声をかける。手にスイーツをぶら下げて。


 思えば、これが一番の心境の変化かもしれない。


 ひとりぼっちと思っていた部屋に、花が咲いたような。


 お隣と仲良くなっただけで、ここまで気持ちが軽くなるのかと。


 それにしても、この食欲を掻き立てる匂いはなんだ? これって、ニンニクの匂いだよな?


「ヒデくん、お疲れ様。先に食べてたよ」


 ベランダに出ると、寿々花さんは食事をはじめていた。ニンニクがタップリ入ったオリーブオイルに、パンを浸して食べている。


「すいません。今日はおまたせして」

「いいよー。楽しんでたから」


 ベランダで星を見ながら、寿々花さんはぶどうのジュースを開けていた。


「飲めないんですか?」

「そうなのぉ」


 ジュースの入ったグラスを、寿々花さんはテーブルに置く。


「自転車漕ぐでしょ? だから、飲まないようにしてるの。もともとお酒は、ダメなんだけど」

「はああ。アヒージョですね?」


 俺も、北坂に連れて行ってもらった店で、食ったことがあった。ニンニク天国の代表的な料理じゃないか。


 ニンニクの他に、野菜もいい感じにシナシナになっている。マッシュルーム、ブロッコリー、プチトマトと、色も鮮やかだ。

 海鮮の小エビやアサリも、最高の仕上がりである。

 どれも香りはニンニクに支配されているが、これはむしろご褒美だろう。


 オリーブオイルに浸したパンを、寿々花さんが近づけてくる。

「どうぞ。あーん」


 また、あーんが待っていた。これだけで、俺はニンニクよりも精がついてしまう。

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