第17話 番号交換

海は広いな、大きいな。

…なんて。

ハルが知る海の歌なんてそれくらいだ。


それなのに大きなキャンバスはなんて眩い歌を歌っているのだろう。

波の音が聞こえる。

風の音も、注ぎ込まれた光の讃歌も、描かれた生物の鼓動も。

全てを忘れて魅入っていると、背後で木の扉が鈍い音を立てた。


「ハル!!ハル、いるか!?」


自分の名が呼ばれていると理解するまでに数秒。

ハルはぼんやりと振り返った。


「…ろー、な?」

「ハル!!やっぱりそこにいるんだな!?」


夢と現実の境目で揺れていると、呼び手の声が変わった。


「ハル、歌ってないで起きろ。迎えに来たぞ」

「越前…?」


越前の凛とした声に導かれ意識が急浮上する。

その途端鼻についたのは忘れていたカビ臭さだった。

やっと現状を思い出すと、ハルは扉にかじりついた。


「え、越前!!…瓏凪!!ここから出して!!」


瓏凪はやっとまともな反応が返ってきたことに胸を撫で下ろした。


「ハル、無事か?怪我はしてないか?」

「え、う、うん」


錆びた取手は掴むだけで不安定に揺れる。

体で扉を押すと隙間も出来る。


「これなら、こっち側から蹴破れるかも。ハル、そこから離れてろ」

「え、ちょ、ちょっと待って!」


ハルが離れた気配を読み取り、越前と瓏凪は揃って扉に体当たりをした。

枝が折れるような音が響き、扉は倉庫側に荒々しく開いた。


「ハル!!」

「ハル…!!」


二人同時に倉庫に踏み込むと、大きなキャンバスを守るように抱きかかえるハルがいた。


「……な、何やってんだ?ハル」

「は、はぁ、よかった。扉が飛んできてこれが傷ついたらどうしようかと思った」


ブレザーが汚れようが頭から埃をかぶろうが、ハルは気にせずキャンバスを大切そうに壁に立て直した。

名残惜しそうに指でなぞってから振り返る。


「あの、来てくれてありがとう。助かった」

「一体何があったんだ?誰がこんな事…」


ハルの脳裏に由佳がよぎったが、関係のないこの二人は巻き込めない。

そう判断すると頭をかきながら気まずそうに目を泳がせた。


「え…と、ちょっと頼まれて棚の上の画材を取りに来たんだ。そしたら誰かが間違えて締めちゃったみたいで」

「間違えて?」

「いや、ほんと、二人が気付いてくれてよかった。でもどうやってここが?」


ハルは越前を見上げたが、その顔色の悪さに驚いた。


「越前!?体調でも悪いの!?」

「なんでもない。それよりハル…」


越前の右手がハルの肩に触れそうになる。

だがその指先は躊躇いがちに引き、代わりに自分のポケットからスマホを取り出した。


「何かあった時の為に、番号を聞いてもいいか?」

「え…」


ハルは差し出された越前のスマホに声を飲んだ。

普通の人なら、何でもないやり取りだろう。

それでも今まで「断る」一択だったハルはどう返事をすればいいのか迷った。


「俺もいいか?」


戸惑っていると瓏凪もスマホの画面をハルに向けた。


「えと…、じゃあ…」


ハルはおずおずと、ほぼ家族以外の情報がないスマホをポケットから出した。

三人の番号とIDが、僅かな音を立てて繋がっていく。

以前ふざけ半分で部活仲間に番号登録された時は、正直嫌でたまらなかった。

仲が悪いわけでも、相手に悪気があったわけでもない。

それでもハルは、申し訳なさも交えそう感じてしまったのだ。

不安な思いでスマホを握りしめていると、画面に越前のフルネームと電話番号が映った。


「越前…かなめ?よう?」

かなめ


越前えちぜん かなめ

目の前の人にしっくりと似合う響きだ。

続いて瓏凪の番号が表示される。


「Rona •M…、ロナ…?」

「あぁ、そこはまぁ気にするな。ロウナって呼びにくいみたいでさ」


何の事かは分からなかったが、瓏凪は話を切り上げるとスマホをポケットに戻した。


「俺も越前も基本不要な連絡はしないから安心しろよ」

「え…」

「ハルが連絡取りたい時はいつでも歓迎だけどな」


見透かされたようで内心焦ったが、瓏凪に浮かんでいるのはいつもと変わらぬ笑みだ。

越前を見れば、瓏凪と全く同じ意図で頷いている。

じんわりと、不安が温かさに変わっていく。

ハルの口からは自然と「ありがとう」がこぼれ落ちていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る