第15話 ハルの災難

火曜日の朝。

越前にびっちりしごかれたハルは、やや疲れを引きずりながら登校してきた。

とはいえハルが解放されたのは夕暮れ時。

あの二人は夕食と風呂を挟んでから深夜までやるというのだから、とてもついていけない。


「あと…四日…」


指折り数えながら駐輪所を後にする。

越前の教え方は丁寧で分かり易いが、微塵も気の緩みを許さないスパルタ式だ。

涙が出るほどありがたいが、このままではテスト前に頭が蒸発しかねない。


「はぁ、テストが全教科英語だったらいいのに」


あの越前の声は、何度思い返してもたまらなく至福だ。

しかも常に流れる英文だと耳慣れして美しい世界が薄れる事もない。

うっとりと現実逃避をしながら下足箱を開いていると、背後に人が立った。


「おはよう、笠井」


覚えのある高い声に、ハルの肩がぎくりと揺れる。


「あ…、お、はよ…。えと…」


ぎこちなく振り返れば、艶めく長い黒髪が目に入った。

やはり前に声をかけてきた女子だ。

ペンシルできっちり書かれた眉は、ハルの渋い反応にぎゅっと眉間に寄った。


「何よその顔。もしかして笠井、私の名前覚えてないの?」

「え、あ…うん、ごめん」

小倉おぐらよ!!小倉おぐら由佳ゆか!!もぅ…!!」


勢いよく詰めてきた由佳はハルの鞄を思い切り引ったくった。


「え…!?」

「少しだけ付き合いなさいよ。先生に画材取ってきてって頼まれてるの」

「え…えぇ!?」


困惑するハルなどお構いなしで由佳は旧校舎へと足を進める。

朝からとんだ災難だが、ハルは仕方なく後ろをついて行くしかなかった。

辿り着いたのは埃っぽい美術室だった。

木造の扉は錆びついて、開けるのさえ力がいる。


「ここ…?」


北側なのか、朝日も当たらず陰気な空気だ。

由佳は部屋の奥にある倉庫の扉を開いた。


「こっち。あれ取ってくれない?私じゃ届かなくて困ってたのよ」


高い棚の上をピンク色の爪が指す。

困っていると言われては無視も出来ず、ハルは渋々倉庫に入った。


「手伝うのは別に構わないけどさ、こんなやり方は…」


棚に向かって手を伸ばしていると、背後で軋みながら扉が閉められた。


「え、ちょっと!?」

「笠井ってバカなの?普通もうちょっと警戒するでしょ」


扉を挟んで聞こえる鍵の音と薄ら笑い。

閉じ込められたハルは慌てて木の扉を叩いた。


「小倉さん!!ふざけてないで開けてよ!!」

「いいわよ。ただし、笠井がひとつだけ私のお願い聞いてくれたらね」

「お、お願い!?」


由佳は指先で回していた鍵を握りしめた。


「昨日も言ったでしょ?友達登録したいの」

「は…はぁ!?それだけ!?」

「それだけって言うならさっさとしなさいよね」


鍵をゴミ箱に捨てるとハルの鞄を漁り始める。

だがどれだけ探しても目当てのものはない。


「スマホは?まさかそっちにあるの?」


ハルは固い感触のするズボンのポケットに手を触れた。


「俺が持ってるけど、昨日から一体何なの?どう考えてもおかしいよ」


由佳は紺の布にニコちゃんマークのついたハルの財布を見つけると勝手に抜き出した。


「いいわ。ちゃんと教えてあげる。今日の放課後にこの旧校舎の三階にある音楽室に来たらね。それまでこの幼稚な財布は預かっておくわ。じゃあね」

「じゃあねって…ここ開けてよ!!」

「スマホあるんでしょ?助けくらい自分で呼べば?言っておくけど、私の名前出したら許さないからね」

「ちょっ、待ってよ小倉さん!!俺スマホあっても誰も連絡先なんて……!!」


腹いせか嫌がらせか、由佳は本気でハルを置いて行ってしまった。

何度叩いても古い扉は鈍く鳴るだけだ。

倉庫は三畳程と狭く、換気口が薄く光を通すだけで窓はない。

ごちゃごちゃと古い絵の具やキャンバスが置かれているせいで、カビ臭に鼻が曲がりそうだ。

しばらく扉と格闘していたハルは、力なく床にへたり込んだ。


「はぁ…。全然、意味がわからん。こんなことなら瓏凪たちと番号交換をしておけばよかった」


扉に背を預け両足を伸ばす。


「あれ?俺、今…」


自然とこぼれ落ちた言葉を反芻し、無意識に指先が唇に触れる。

緊急時とはいえ、誰かに対して「連絡先を交換しておけばよかった」なんて思うのは初めてだ。


「…」


どこまでも気ままなハルに、目くじらを立てる者は多い。

だから、それなりに友と呼べる人がいてもハルはいつも意識的に距離をとってきた。

特に理解して欲しいとは思わない。

ただ踏み荒らされたくないだけだ。

それなのに…。


頭をかきながら視線を上げると、忘れられたように壁に立てかけられた、大きなキャンバスに目が止まった。

折り重なる多彩な青色。

油絵独特の立体感。

抽象画だが、空ではない。

勢いのままに生々しく伝わるのは、生命力だから。


「海…」


這いながらその深みに近づく。

力強い波は今にも動き出し、青い音が流れ込んでくるようだ。

ハルはすっかり魅入られると、瞬きも忘れてその絵に耳を傾けた。

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