第13話 越前の「音」
ハルの体は、昔から「音」に敏感だ。
だから音楽に浸っている時も、もしかしたら音の羅列に酔いしれているだけなのかもしれない。
そこに決まりや法則はない。
心地よいものほど胸の奥に引き込まれ、インスピレーションのままに浮かんだ鮮やかな世界に落ちていく。
でも、それも始めだけ。
慣れてしまえばその世界は泡のように消えてしまう。
越前に初めて名を呼ばれたあの
落とされた音は美しく広がり、透明な煌めきを優しく振り撒いた。
やはりすぐに慣れてそこには行けなくなったが、もしまたあの清浄な世界へ行けるのなら、それはきっと史上最高の喜びであり、それから………
*
「…ル、…ハル!」
「え…」
突然現実に引き戻され、空を映す水面が霧のように消える。
代わりに視界に入ったのは、沢山のスペルと五畳半の和室、そしてやや怒った越前の顔だ。
「人に読ませといて寝るな」
閉じられた英語のテキスト。
幼い頃からスクールに通っていたという越前に、軽い気持ちで英文を読んで欲しいと頼んだのはハルだ。
だがそのネイティブに紡がれた
「ね、寝てない!!ちゃんと全部聞いてる!!だからお願い、越前…。やめないでぇ…」
両手を組みうっとりねだられた越前は、ハルのおでこを丸めたテキストでびしりと小突いた。
「いった!」
「真面目にやらないならやめる」
「えっ!!」
「続きはこの問題が終わってからだ」
投げやりに寄越されたのは、昼間は全く解けずに空白のまま置いていたプリントだ。
ハルはがっくり肩を落とすと指先でプリントを摘んだ。
越前が説明混じりに読み上げてくれた文に渋々目を通したが、すぐに己の変化に気づく。
「あ、あれ?」
さっきまでルーン文字の如く解読不可能だった英文から、次々と音が聞こえてくる。
合わせて意味が自然と脳に溶け込んでゆく。
なんだか…今ならかなり解けそうだ。
火の用心!と印刷されたハルのプラスチックのシャーペンは、少し戸惑いながらもプリントの上を滑りだした。
「ふぅ…」
一応最後まで問題を解き終えると、隣で小難しそうな参考書に目を通す越前をこっそりと覗き見た。
伏せ目がちな瞳を覆うまつ毛は細く長い。
ラフな部屋着に着替えたせいか、変わらぬ無表情でも雰囲気はぐっと柔らかくなり、仄かな色気まで香りたつ。
「越前ってさぁ…」
「ん?」
「ほんと、綺麗」
越前は眉を寄せた。
「ハル、真面目にやる気がないなら…」
「あ、ある。あります!!問題全部解き終わりました!!」
「全部?」
「はい!!」
プリントを受け取った越前は、ほぼ正しく埋められた解答に目を見張った。
「本当にさっきまで分からなかったのか?」
「うん、全然。だから自分でもびっくりした。ってわけで、続きをお願いします!!」
期待に輝くハルの顔は、見るからに勉強を促すものではない。
しかしそれなりに結果がついてくるとなれば無碍にも断れない。
斜め上な事態に追い込まれた越前は、自身の参考書を床に起き、仕方なく続きに取り掛かった。
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