第13話 越前の「音」

ハルの体は、昔から「音」に敏感だ。

だから音楽に浸っている時も、もしかしたら音の羅列に酔いしれているだけなのかもしれない。

そこに決まりや法則はない。

心地よいものほど胸の奥に引き込まれ、インスピレーションのままに浮かんだ鮮やかな世界に落ちていく。

でも、それも始めだけ。

慣れてしまえばその世界は泡のように消えてしまう。


越前に初めて名を呼ばれたあの瞬間とき、ハルは鏡のようにくっきりと空を映す水面の真ん中いた。

落とされた音は美しく広がり、透明な煌めきを優しく振り撒いた。

やはりすぐに慣れてには行けなくなったが、もしまたあの清浄な世界へ行けるのなら、それはきっと史上最高の喜びであり、それから………







「…ル、…ハル!」

「え…」


突然現実に引き戻され、空を映す水面が霧のように消える。

代わりに視界に入ったのは、沢山のスペルと五畳半の和室、そしてやや怒った越前の顔だ。


「人に読ませといて寝るな」


閉じられた英語のテキスト。

幼い頃からスクールに通っていたという越前に、軽い気持ちで英文を読んで欲しいと頼んだのはハルだ。

だがそのネイティブに紡がれたおとは、すぐにハルを極上の水辺へと導いていた。


「ね、寝てない!!ちゃんと全部聞いてる!!だからお願い、越前…。やめないでぇ…」


両手を組みうっとりねだられた越前は、ハルのおでこを丸めたテキストでびしりと小突いた。


「いった!」

「真面目にやらないならやめる」

「えっ!!」

「続きはこの問題が終わってからだ」


投げやりに寄越されたのは、昼間は全く解けずに空白のまま置いていたプリントだ。

ハルはがっくり肩を落とすと指先でプリントを摘んだ。

越前が説明混じりに読み上げてくれた文に渋々目を通したが、すぐに己の変化に気づく。


「あ、あれ?」


さっきまでルーン文字の如く解読不可能だった英文から、次々と音が聞こえてくる。

合わせて意味が自然と脳に溶け込んでゆく。

なんだか…今ならかなり解けそうだ。

火の用心!と印刷されたハルのプラスチックのシャーペンは、少し戸惑いながらもプリントの上を滑りだした。


「ふぅ…」


一応最後まで問題を解き終えると、隣で小難しそうな参考書に目を通す越前をこっそりと覗き見た。

伏せ目がちな瞳を覆うまつ毛は細く長い。

ラフな部屋着に着替えたせいか、変わらぬ無表情でも雰囲気はぐっと柔らかくなり、仄かな色気まで香りたつ。


「越前ってさぁ…」

「ん?」

「ほんと、綺麗」


越前は眉を寄せた。


「ハル、真面目にやる気がないなら…」

「あ、ある。あります!!問題全部解き終わりました!!」

「全部?」

「はい!!」


プリントを受け取った越前は、ほぼ正しく埋められた解答に目を見張った。


「本当にさっきまで分からなかったのか?」

「うん、全然。だから自分でもびっくりした。ってわけで、続きをお願いします!!」


期待に輝くハルの顔は、見るからに勉強を促すものではない。

しかしそれなりに結果がついてくるとなれば無碍にも断れない。

斜め上な事態に追い込まれた越前は、自身の参考書を床に起き、仕方なく続きに取り掛かった。

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