第12話 越前の部屋

後ろを振り返りもせず非常階段まで走り抜けたハルは、変な音を立てる喉を押さえながら階段に座り込んだ。


「はぁ…、はぁ。い、いったい何だったんださっきの」


女子にあんな絡まれ方をされたのは初めてだ。

とても好意的な雰囲気とも言えず、全くもって意味が分からない。

呼吸が少し落ち着くと何度も後ろを振り返りながら階段を降り、小走りで食堂を目指した。


「越前…!」


越前は食堂前の壁に背を預けながらスマホを見ていた。

その姿を目にした途端、ハルは自分でも意外なほど安堵した。


「お待たせ!瓏凪ろーなは?」

「後で来る。先に寮で手続きするぞ」


淡々とした物言いには安らぎさえ覚える。

そんなハルを、越前がふと見下ろした。


「何かあったのか?」

「え…」


ハルの足がぴたりと止まる。

そんなに顔に出ていたのだろうか。

だが別に取り立てて話す程何かがあったというわけではない。


「ううん、何も」

「…」

「行こうよ」


促すように寮へ繋がる渡り廊下を指差す。

越前は顎に手を添え何か考えていたが、結局何も言わずに歩きだした。


校舎が背後へ遠ざかると、代わりにあちこち壁の剥がれかけたベージュの建物が近づいてくる。

越前の寮生カードをオートロックに通すと、ガラスの自動扉がスライドして開いた。


中に入るとやや湿り気を帯びた臭いが漂ってくる。

薄暗い廊下が続き、左手の壁にかけられた木の板には「山桜桃梅ユスラウメ」と太い墨で書かれていた。

恐らく寮の名前だろう。


「なんか、学校の延長上に住んでるって感じ」

「実際その通りだけどな。そこの階段を四階まで上がるぞ」

「え、寮生って少ないんでしょ?それなのにわざわざそんなに上なの?」

「三階までは四人一部屋ばかりで、四、五階は2DKになってる。俺も詳しくは知らないが、昔近くの短大生も寮として使っていた名残だそうだ」

「ふーん…?」


越前は古びたカウンターに置かれたパソコンでハルの学生番号を打ち込み終えると、学生証を返してきた。

それから階段を登る間も、今は寮というより実質は一人暮らしの支援が主なことや、昔のような厳しい寮制度等はないことなどを説明してくれた。

ハルは一応相槌を打って聞いていたが、越前が部屋の扉を開くと、意識はすぐにそっちに持っていかれた。


「わぁ…」


入ってすぐ右手には洗面所と風呂。

正面扉の向こうには小さなキッチン付きの洋室。

簡易な間仕切りの向こうは和室だ。


「すごい…!ほんとに一人暮らしみたい!!いいなぁ…」


古い部屋だが、きちんと整頓されていて掃除も行き届いている。

そのせいか部屋全体からはこざっぱりとした清潔な香りがした。

小物や飾りなどが一切ないのが、何とも越前らしい。

ハルの肌はすぐにこの部屋を気に入った。


「ハル、こっちだ」


越前は和室に入ると、手慣れた様子で折り畳み式のローテーブルを出した。


「何から始める?」

「えっ…、えーと。じゃあ一番分からない英語かな」

「どう分からない?」

「うーん、こう、全体的に、もやっと…?」

「…」


これは教える側にしても骨折りな予感だ。

越前はそっとため息をこぼしたが、文句も言わずに教科書を手に取った。

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