第9話 古びた食堂

そして昼時。

まんまと瓏凪に引っかかったハルは辿り着いた食堂にあんぐりと口を開けていた。


確か以前担任の大島が案内したのは、最近のデザインらしく天井も吹き抜けの開放感あふれる広い食堂だった。

だが今目の前にあるのは、どう見ても一昔前の薄暗い大衆食堂だ。

雑に補修された椅子や角の擦れたテーブルは古めかしく、窓ガラスは白く濁っていて透明度も低い。

利用する生徒は五十人以下と少なく、知らぬ者なら黒ずんだステンレスの扉を開いて中に入ることすら躊躇うだろう。


「…ここ?」

「そう、ここ」


弾むような返事と肯首。

陰気な食堂と華やかな瓏凪のギャップがまたすごい。


「いい穴場だろ?元々寮生用の食堂だったんだ。今は寮生自体が少ないから一般にも解放してるけど、まぁ、大体いつもこんな感じだな」

「寮?瓏凪って寮生なの?」

「ああ。ほら、あそこに古い建物見えてるだろ?あれが寮で、2階の渡り廊下からも繋がってる」

「え、学校とも繋がっちょる…つ、繋がってるの?」

「カードがないと入れないから、基本寮生以外は行き来できないけどな」


瓏凪は食堂のど真ん中にある券売機にコインを入れた。

ラーメン、カツカレー、それから本日の定食。

ボタンの殆どは沈黙し、ランプが灯っているのはその三つだけだ。

なるほど、これでは人も集まらないわけだ。

ハルが興味深げに見ていると、ピアノの鍵盤が似合いそうな長い指は何の躊躇いもなく一番安価なラーメンを押した。

意外にも庶民派だ。


「いいなぁ、ラーメン」

「ハルも食うか?」


喉の鳴るお誘いだが、ハルの手には山吹色のナプキンできっちり包まれたお弁当がある。


「…せっかく母ちゃんが作ってくれたかぃ、また今度にする」


ちょっぴり残念な思いで未練たらしく券売機を見ていると、瓏凪が隣でくすりと笑った。


「ハルのその言葉、なんか可愛いな」

「あ…」


ハルは恥ずかしさに真っ赤になった。


「ご、ごめん。気をつける。あんまり慣れなくて」

「もしかしてそれで一人でいたのか?」

「いや…、そういうわけじゃない、けど…」


一因ではある。

姉にも散々忠告されたし、真似されたり揶揄われるのは避けたかった。


「そんなに気にすんなよ。言葉なんて環境に馴染んでどうせすぐに変わっちまうし」

「そう…かな」

「そうそう。ま、俺はそのままでも全然いいけどな。日本の方言って、なんかあったかくて好きなんだよなぁ」


しみじみ言うその顔はどう見ても本心だ。

風船みたいにしぼみかけたハルの心はまた膨らんだ。


「えと…、瓏凪ろーな、だっけ」

「おう」

「瓏凪ってさ、いい奴。もてる?」


つい率直に聞いてしまったが、瓏凪は白い歯を見せてにやりと笑った。


「どうみえる?」


人差し指と中指で挟んだ食券をスマートにカウンターに置く。

その仕草だけで、古びた食堂さえ切り取ったワンシーン見えてきた。

言外に滲む「当たり前なことを聞くなよ」という笑顔に、ハルは思わず神様は実に不公平だと唸った。


トレーに乗せられたラーメンを受け取ると、瓏凪は窓ガラスに沿って設置された長テーブルに向かった。

足取りに迷いがないと思いきや、先にそこに座っていた男子生徒に声をかける。


「よぉ、越前。お待たせ」


ハルはどきりとした。

振り返ったのは、指が触れた時におかしな現象が起こった、あの涼やかな人だ。

見上げてくる目はやはりクールだが、繊細な手に正しく持たれた箸から伸びているのは瓏凪と同じくラーメンだ。


「ほらハル、こっち座れよ」


瓏凪は渋い顔をする越前の二つ隣に腰掛けた。

必然的にハルの席は二人のど真ん中だ。

今更断ることもできずに、肩を縮めながら背もたれもない丸椅子に座る。

ギィと錆びた音がするのがまたなんとも気不味かった。


「ハル、そっちは越前。慣れてきたら喋りだすと思うから、めげずに頑張れ」

「え…、と?」


摩訶不思議な紹介をされても対応に困る。

しかもその越前は更に顔をしかめただけで、残りのラーメンを食べ始めた。

隣に座らされたハルは肩身の狭い思いで弁当を広げる羽目になった。


今頃心待ちにしていた音楽に浸りきっているはずだったのに、何故こんなことになったのか。

もはや大好きな金平牛蒡ごぼうの味でさえよく分からない。

だが瓏凪はそんなこと全く気にも留めないで至って明るく話しかけてきた。


「そういや俺さ。リス・ギャリーが来日した時生で見たんだぜ」

「え…!!」


美味しい釣り針にピンと引っ掛かる。


「もしかしてライブに行ったん!?」

「おー、チケット当たったのは奇跡だったな」

「ええぇ!?いいなぁ!!」

「今度俺の部屋にも遊びに来いよ。洋楽ならパソコンに何でも入ってるぞ。気に入ったのあればスマホに落としてやるよ」

「え…ええぇえ!?いいの!?」


つい興奮気味に両手をついて立ち上がる。

長テーブルに振動が走ったが、ハルはそんな事に気づきもしないで頬を紅潮させた。


「うわぁ、うわぁ…夢みたい!!てげ嬉しい!!」

「大袈裟な奴だな。今時少し払えば幾らでも聴けるだろうに」

「う…、それが今は親に止められてて。聴き放題は俺が永遠に部屋から出てこないからダメだって」

「そんなに?」

「うん。俺にはそれしかないから」


ハルがあまりにも自然な笑顔で言うものだから、瓏凪はその意味を測りかねた。

どういう事か問い返そうとしたが、ハル越しに越前と目が合い何となくやめた。


「…じゃあ、ハルの母さんに怒られないようにスマホに落とす数は俺が制限するかな」

「うえ!?」

「その代わり部屋に来るたびに更新してやるよ。こっちはいつでも歓迎だぜ?」

「ほ、ほんと!?」


指先でちょいちょいと招く瓏凪にハルの目は一層輝いた。

振り向かせさえすれば、ハルは根が明るく話しやすい相手だ。

瓏凪が話し上手なのも相まり、二人の会話は思いの外弾んだ。

そんな二人を尻目に越前は先に席を立った。


「先に行く」

「ん?ああ」


一応ハルにも会釈の代わりに視線をくれてから立ち去る。

ハルが離れて行く背中をぽかんと見ていると、水を飲み終えた瓏凪がグラスをテーブルに置いた。


「…あれ、別に機嫌が悪いわけじゃないから」

「え?あぁ、…うん」

「ちょっと取っ付きにくいかもしれないけど、いい奴だからさ。ハルも仲良くしてくれると嬉しい」

「越前と?」

「そう」


仲良くと言われても、あれじゃ話一つできない気がする。

余程困った顔をしていたのだろう。

瓏凪が安心させるように笑いかけてきた。


「ま、いきなり二人でなんて言わないさ。すぐに慣れるだろうし」

「う、うん」

「良かったらハルも明日からここで食べないか?」


流れるほどに完璧なお誘い。

ハルはつられるままに頷きそうになったが、思い留まり笑顔を返した。


「ごめん。明日は一人で食べる」


完全にハルを掴んだつもりだった瓏凪は割と普通に驚いた。


「え、だってラーメンは…」

「え?また機会があれば試すけど?」


きょとんと言われては二の句が継げない。


「…掴めないやつ」


頬杖をつき、ご機嫌に弁当箱を片付けるハルを眺める。

それでも瓏凪はめげずに毎日声をかけ、三日に一度は風のように気ままな人を頷かせるに至った。

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